廃村・過疎集落探訪体験記 No.9
歩いて調べた 塩狩第二集落の歴史
融けかけた雪の中に立つ,塩狩小学校跡の標柱です。
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歩いて調べた 塩狩第二集落の歴史 〜 北海道和寒町
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北海道在住の成瀬健太さんからの報告で,時期は2010年3月と5月,場所は北海道和寒町の塩狩(Shiokari)という高度過疎集落です。
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和寒町塩狩。作家 三浦綾子の小説「塩狩峠」の舞台であることをはじめ、桜の名所、今は営業していないが塩狩温泉やユースホステル、塩狩国設スキー場があった。全国的に知られている地域であるが、居住者は国道沿いに数軒あるだけの過疎集落である。
塩狩は宗谷本線で通過する駅という認識でいたが、かつて塩狩に学校があったこと。「塩狩第一」と「塩狩第二」に区分され「塩狩第二」には廃屋が1軒残されていることを知り、次第に興味がわき始めた。
塩狩のユースホステルには、昭和56年7月、初めて北海道を旅したときに泊まったことがあります。そのときは、稚内・礼文島に向かう中継地として、塩狩駅で途中下車しての宿泊で、学校跡のことは意識するはずもなかったのですが、「廃村 千選」〜 編者が訪ねた「廃校廃村」では、最初に訪ねた廃校廃村として目立つ存在になっています。
平成21(2010)年3月15日(月)。この日は強風・大荒れという悪条件の中「この日に到達できれば話題になる」と安易な気持ちで塩狩駅に降り立った。
しかし、現実は甘くなかった。塩狩峠にある中継所までは除雪されているが、それから先は全く除雪されていない。腰まで積もっている雪のなか、「かんじき」を履いて行くも天候は次第に酷くなり、恥ずかしながら途中で引き返してしまった。
冷え切った体は和寒市街にある「保養センター」という公衆浴場に入り、体を暖めてリベンジを誓った。
後日、和寒出身の後輩に話すとびっくりし「それは無茶しすぎですよ」と笑われてしまった。探索歴10年目にして初めての経験であった。
おつかれさまです。強風・大荒れの中、除雪されていない雪の中を単独で進むのは、途中で中止が正解です。体力に自信がないと、思いつかないことのようにも感じられますが…(^^)
私も美唄市東美唄の雪中探索(平成15年1月)の後、公共施設の風呂に入って暖をとったことがあります。冷えた体には、風呂が何よりありがたいです。
塩狩は現 国道40号線沿いの「塩狩第一」と塩狩峠の奥にある「塩狩第二」に区分されていた。塩狩第二は平成4年で居住者ゼロとなり、平成6年度をもって行政区が廃止された。
塩狩第二は昭和3年、徳島県より14戸、昭和9年高知県より9戸の入植者が現れ、活気を帯びてくる。
昭和7年に中和小学校共和分教場として納屋を仮校舎として開校させ、昭和9年に本校舎が建てられた。単に学舎としてだけでなく、映画・紙芝居等の娯楽提供場所としても活用された。
閉校後、当初は地域の集会所として活用されていたが昭和60年頃より平成5年頃まで東京からの宿泊体験研修場所として、また平成初期より15年頃まで、南丘森林公園を利用したカヌークラブの交流会会場として活用されていた。
しかし老朽化に伴い解体されてしまったそうである。最後まで活用されていたのは体育館と教室の一部との事であった。
平成21(2010)年5月3日(月・祝)。リベンジを誓った日から1カ月半。再び、塩狩の地を踏んでいた。
今回は、パソコン仲間の井手口さんのクルマに便乗して出かけた。雪も融けており、難なく塩狩第二に到着した。ふと、後ろを振り向けば塩狩小学校跡を示す記念碑が建てられていた。
校舎跡付近より塩狩第二集落を眺める。農地は自然へ還り、幼木が育っている。
明治・大正・昭和と一生懸命、血の滲むような思いをしてこの地を開拓した人々のことを思うと、何とも複雑な気分である。
そのうち、最後まで残っていた廃屋が気になり行ってみることにした。木々はそのまま残っていたが、家屋は既に解体され瓦礫と化していた。
塩狩小学校は昭和44年の閉校ながら、塩狩第二集落は平成4年まで住まれる方がいたのですね。もしも私が昭和56年に訪ねていたとすれば、平凡な農村の風景が広がっていたのかもしれません。
リベンジで足を運ぶことができた場所は、印象に残ってよいですね(^_^) 基本的に廃校廃村めぐりは、住まれる地域、それに近い地域でじっくりと取り組むべき趣味のように思えるところです(私の場合、それとは逆行しているのですが…(^^))。
クルマに乗り込んだとき、井手口様より「サイロが現存している」事をうかがった。
南丘貯水池方面へ走ると見えてきたサイロは、使われなくなって久しい様子であったが、ここに集落があったことを必死になって誇示しているような印象を受けた。
帰りがけ、塩狩第二に祀られていた「地神社」様をお参りするため和寒神社へ足を運んだ。境内の一角に、静かに佇んでいた。塩狩第二が無人となったとき、和寒神社境内へ移転させたそうである。
お参りを済ませ、井手口様とは和寒駅で別れた。やがて旭川行の列車が到着し、私は旭川へ向かった。
今回の探訪は今まで訪れた中でも特に調べた地域である。パソコン仲間がかつて塩狩温泉ユースホステルに宿泊したこと、職場の先輩・後輩が和寒出身であること、さらに私の小学校時代の恩師が最初に赴任した街であることなど、接点のある街であることに驚いた次第である。
塩狩を含め、色々とご教示いただき有難うございました。
「かつて村があった」といっても、標柱だけではなかなかピンとこないものですが、ひとつでも往時のものが残っていると、はっきりと現実として感じられるようになります。静かに残ってほしい風景です。
成瀬さんからの投稿は、増毛町歩古丹(平成21年5月)以来三度目です。道北という首都圏からはとても遠い地域ながら、成瀬さんをはじめとする北海道在住の方々の連絡のおかげで、身近な場所のように感じられます。ありがたいことです(^_^;)
投稿いただき,感謝します。同時に、次の投稿のお話もうかがっているので、消化できるかどうか、少々焦っていたりします…(^^)
参考文献・資料
・和寒町役場総務課 回答 平成22年4月19日付
・和寒町史 昭和50年9月1日発行
・和寒町民逸話集 凍裂のひびき 平成5年3月31日発行
・和寒町民逸話集 凍裂のひびき−昭和・平成編− 平成17年12月31日発行
・角川日本地名大辞典1 北海道 上巻 昭和60年10月8日発行
・上川管内統廃合学校総覧 昭和61年3月20日発行
・町のあゆみ 第97号 昭和37年10月10日発行
・広報わっさむ 第175号 昭和44年4月1日発行
・昭和三十年十月一日 國勢調査照査表 和寒町 「字塩狩第一部落全域」「字塩狩第二部落全域」
(C) 06/19/2010
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