廃村・過疎集落探訪体験記 No.10
歩いて調べた 東和・東和開拓集落の歴史
東和小中学校跡の門柱です。学校跡は今、生ゴミ処理施設になっています。
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歩いて調べた 東和・東和開拓集落の歴史 〜 北海道和寒町
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北海道在住の成瀬健太さんからの報告で、時期は2010年5月と8月、場所は北海道和寒町の東和(Touwa・高度過疎集落)、東和開拓(Touwa-kaitaku・廃村)です。
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和寒町東和・東和開拓は、平成22年5月、高度過疎集落である「和寒町塩狩」の探訪記をまとめていたときに、同じ和寒町内であるため目に留まり、次第に興味が芽生え始めた。
事前調査として「東和」について和寒出身の職場の後輩に訊いてみたところ「場所は分かるが詳しくは知らない」、「高校(和寒高校)時代、クラブ活動の一環で走ったが分からない」とのことであった。
何とか現状を知り得ないものかと思っていたとき、5月31日が休みであることを知り、この日に訪ねることにした。
前日は隣接する剣淵町の駅前旅館に泊まり、早めに床に就いて、明日の探索に備えた。
「廃村 千選」〜 北海道・道北のリストで載せた廃校廃村・高度過疎集落は79ヶ所、うち和寒町は塩狩、東和開拓、東和の3ヶ所です。興味のきっかけになったというのは、リスト製作者としては嬉しいところです。

【歴 史】
和寒町立東和小学校(僻地等級2級)
大正6年6月1日開校 昭和51年3月31日閉校
和寒町立東陵小学校(僻地等級3級)
昭和27年4月1日開校 昭和46年3月31日閉校
東和は明治39年より開拓された。開拓当時は、ササや木々に覆われていたそうである。
東和には「刈分道路」と呼ばれている道がある。東和でも集落内で“刈分”と呼ばれていた地区があるが一説に、ササや木を“刈り分けて”いったことからつけられたそうである。
東和の主要産業は畑作で、主にバレイショや除虫菊の栽培が行われていた。東和は昭和初期頃、澱粉工場が5〜6軒、個人で操業していたところも含めるともっとあったので、バレイショの栽培が盛んだったことが分かる。一番古くから操業していたところで明治45年であった。
また除虫菊は東和のみならず、和寒町の主要な作物だった。東和小学校の校章の図案は、菊がもとになっている。

一方、東和開拓(東陵地域)は戦後、食糧難のため食糧増産に伴って形成された「戦後開拓集落」の一つであった。戦前までは殆ど未開の地であったが、東陵小学校建設地はクルミ林で、第一次大戦後に「鉄砲」の原材料としてクルミの木を活用する予定であった。
戦後間もなく、団体入植者が入植し集落が形成される。当初、児童達は東和小学校まで通学していたが距離があるため、児童の通学距離を考慮して欲しいと要望を受け、開校に至った。
東陵はカリフラワー栽培で全道一になったこともあるが、離農者が相次ぎ、昭和46年東陵小学校が閉校。次第に住民もいなくなっていった。
北海道の広々とした道を走っていると、時折廃屋を見かけますが、集落ごとにさまざまな歴史があると思うと、いろいろと感じるものが出じます。地域の歴史がわかると、それが具体的なものになるのがよいですね。
【現地探訪】
5月31日 午前5時に目が覚め、身支度を整える。
6時24分剣淵発 旭川行きの普通列車に乗り、和寒へは6時34分到着。
午前7時 駅前の町営バス停留所より東和行きのバスに乗車。
「東陵小学校に近い停留所で下ろしてください」と運転手に云うと「分かりました。」と承諾。
バスは郊外の松岡地区〜大成地区を経て一旦剣淵町へ抜け、再び和寒町へと走る。
やがて東和地区が見えてきた。
旧東和小中学校前のT字路を右折する。それまでののどかな景色から一転。両側には山が続き、平地も東和と比べて狭い。本当に半世紀前、ここに学舎があったのだろうか?と思ってしまうほどである。勿論、携帯電話は圏外。
そうこうしているうちに、バスは東陵に到着。運賃を支払い、学校跡の場所を訊き暫しの別れ。
天候は快晴。絶好の探訪日和となった。
東陵小学校跡は、東陵バス停から程近いところにあった。
木の幹で造られた校門、小さな学舎、体育館がかつてあったが、それも今となっては自然に還っていた。
学校跡を歩く。学校の基礎らしきコンクリートの破片、体育館の基礎が残されていた。
体育館の基礎は思っていたよりも大きく、学校があったことをアピールしているかのように見える。
学校前はコブシの花が満開を迎えていた。
天候にも恵まれ、絶好の探訪日和。
いつまでもここにいたのでは勿体ないので、東和小中学校跡を目指して歩く。
東陵小学校跡周辺には今も家屋があるが、何れも居住者はおらず倉庫として転用、或いは廃屋と化していた。
耕作放棄されたところもあるが、通作で管理している畑の方が多かった。
転用されていた家屋周辺は、鳥獣侵入対策で電気牧柵が張り巡らされていた。
東陵小学校跡の周辺には住まれる方は皆無なのに、東陵バス停があるというのは、驚くべきことですね。まるで、歩いて廃村探索をする成瀬さんのためにあるような…(^^)
東和開拓(東陵)の集落跡、農作業用に使われている家屋もあって、まずまず人の出入りがある地域のようですね。

東陵を抜け、ようやく東和へ。無人の家屋が点在しているが、盆や正月には帰省してきた身内の方が別荘として使っているとのこと。
歩くこと1時間。東和小中学校跡が見えた。
学舎は既に解体され、校門と国旗掲揚塔、バックネットが残されている。跡地は現在、生ゴミ処理施設となっている。
学校前には商店跡がある。バスの運転手の話によれば、元々は「佐藤商店」であったが、経営者が代わり「大島商店」として再出発をした。
しかし、人もそう多くいないので数年で廃業した、とのことである。

「大島商店」前にあるバス停で一服休憩をし、東和にある神社へ行くことにする。
林道を歩くと、「つぶれたトタン屋根」が見えた。
もしや…と思い、笹ヤブを掻き分け、急斜面を登ると瓦解した神社があった。急斜面は神社へ通じる階段跡である。
瓦解していたが、神社の面影は僅かながら残されていた。
名前が書かれた木札が掲げられていたが、多くは判読できないくらいに薄くなっていた。
神社を後にし、東和橋まで歩くことにする。
東和橋から生ゴミ処理施設前までの道は、和寒高校(平成22年3月閉校)のスキー部部員が体力練成で走った道でもある。
理由は「クルマが走らないから」とのことであった。
途中、東和へ通じていた旧道が残されていた。
やがて東和橋へ到着するが同時に、剣淵町の「レークサイド桜岡」が見えてきた。
折角なのでレークサイド桜岡まで歩くことにし、午前10時過ぎに到着。
レークサイド桜岡で温泉に入り、探訪は終わったかのように思えた。
大島商店、看板を見ると、小中学校の閉校(昭和51年)の後も営業していたように見えますね。
神社は大胆につぶれていますが、市街地に移転したのでしょうか。
たくさん歩いた探索の後に温泉とは、いいですね〜(^_^) 確か、昼ビールが美味しかったとも耳にしたような…(^^)

【再 訪】
しかし「刈分道路」の存在が気にかかり、再調査に乗り出す。
平成22年8月11日、都合がついたので再び東和の地へ足を運ぶことにする。
前日に剣淵町の駅前旅館に宿泊し、一人ビールを嗜んでいたところ宿泊客から声をかけられた。話を聞くと、東陵小学校・東和中学校・和寒高校卒業とのことで和寒の話で盛り上がった。
ところが職場の後輩の父親であることが分かり、意気投合して2次会へ繰り出した。とても探索前夜とは思えない。
翌日、二日酔いの中、出発した。幾らクルマを運転しないからと云っても、二日酔いのなかの探索は初めてであり、途中でへばったりしないだろうかと思った。
町営バスに乗ってからは次第に体調も良くなり、東和へ到着する頃は普段通りに戻っていた。
さて、東和の刈分道路であるがなかなか見つからない。後輩は「錆びた看板がある」と云っていたが見あたらず手をこまねく。生ゴミ処理場の職員に訊くも「分からない」とのことで、近くの農家を訪ねた。
農家の方は伊藤さんという方で、生まれも育ちも東和である。突然で申し訳ないと思いながらも早速、刈分道路のことを尋ねると「案内します」と快諾。刈分道路を含め刈分地区を案内してくださった。
東和小中学校の隣が刈分道路であった。その道も、ササや木々を刈り分けた道はすっかり自然に帰っていた。
刈分地区は平成初期に、国営事業により広大な畑と化し、かつての集落の面影はない。だだっ広い畑が一面に広がっている。その中でも刈分道路の名残は残されているが、大部分は自然に還ってしまったか、電気牧柵が張り巡らされており侵入できない状態である。
ご自宅へ戻り、改めて東和の集落について伺う。
刈分道路はかつて、馬車も通ったが、カーブが4箇所以上もあり曲がりくねっていた。刈分から通学する児童は難儀し、途中にあるわき水を飲んでから通学したこと。反対に、東和から刈分へ行くときも苦労したこと。冬はスキーで通学したこと。
和寒町内の、他集落へ嫁に出すとき「農家の嫁にだけはなるな。仕事がきついから市街に住みなさい」と云って市街に住むことを条件に嫁に出したこと。
東和には商店が2軒あり、日常の買物はそこで足りたこと。郵便局もあり、局長は集落を取りまとめていた人が務めていたこと。今も廃墟が残る澱粉工場のこと…
挙げればキリがありません。
今の東和の居住者は3世帯。一番若いところで60代の定年退職者。
次に70代。そして80歳手前の伊藤さん。
「もう、限界集落じゃないですか」と云いました。
「その通り。学校がなくなったら、集落の歴史も終わったようなものさ」と伊藤さんは云いました。
そんな淋しいこと云わないでください、と云っても現実問題、東陵は既に居住者ゼロ。東和も3世帯しか住んでおらず、通作も50代が一番若いこと。
伊藤さんも「いつまでいられるか分からないねえ」とポツリと呟きました。
雑談をしているうち、ある方が訪ねてきた。
「東和の墓参りに来たが“湯飲み茶碗”を忘れて来たので恵んで下さい」とのこと。伊藤さんは快く持ち出し「休憩しなよ」と云い、暫く雑談。
じゃ、そろそろということで伊藤さんとはここで別れた。
クルマは東和集落手前にある墓地へ向かう。
墓地にはかつては墓石がビッチリと建ち並び、火葬場まであったが今は数えるほどしかない。中には、半世紀近く前に建てられ、傾いた墓石もあったが、お盆には身内の方がお参りしている、とのことであった。
折角なので、私も一緒にお参りをする。
その後、和寒市街で男性とは別れた。
別れる前に話を聞くと、東陵小学校が開校したときに入学したとのことであった。
再訪のときは曇り空だったのですね。刈分地区と澱粉工場の写真は、こちらに集約しました。
住まれる方、縁がある方にお話しを伺う機会ができると、廃村探索も味わい深くなりますね。廃村となった東和開拓の学校(東陵小学校)出身の方に連続して出会えたというのは、何とも面白い縁だと思います。

【まとめ】
和寒町塩狩の事前調査から気になっていた東和・東陵地区。
当初は東陵から東和、そしてレークサイド桜岡まで歩いた様子を取りまとめよう、と思っていたが東和の歴史に必ず出てくる「刈分」の存在が気にかかったこと。そして何よりも、職場の後輩に発破をかけられたことが引き金となり、再調査を行った。
探訪レポートをまとめるにあたり、職場の後輩の皆様、伊藤様には大変お世話になりました。深謝します。
詳細なレポート、ありがとうございます。
探訪記とあわせて記されていた成瀬さんと和寒出身の職場の後輩の方とのやり取り、楽しんで読ませていただきました(^_^)
「なんで塩狩や東和なんか行くの?」
「いや、そこに廃校があるから。今は東和を調べているけれど…」
改めて「廃校や廃村は、旅のきっかけなんだなあ…」と思いました。きっかけがあれば旅が始まり、日常では考えられない意外な出会いが待っているものなのです。
投稿いただき、感謝します。東和の伊藤様にも、よろしくお伝えくださいませ…(^_^;)
参考文献・資料
・和寒町役場総務課 回答 平成22年5月22日・7月27日
・和寒町史 昭和50年9月1日発行
・町のあゆみ 昭和35年11月1日発行
・広報わっさむ 昭和46年4月1日発行・昭和49年3月1日発行
・和寒町民逸話集 凍裂のひびき 平成5年3月31日発行
・和寒町民逸話集 凍裂のひびき−昭和・平成編− 平成17年12月31日発行
・昭和三十年十月一日 國勢調査照査表 和寒町 「字東和第一部落全域」「字東和第二部落全域」「字東和第三部落全域」「字東和第四部落全域」「字大成第三部落全域」
・東和 廃校記念誌 昭和51年3月18日発行
・廃村と過疎の風景4 廃村千選T〜東日本編〜 2010年5月31日発行
・調査聞き取り 伊藤様
(C) 09/04/2010
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