秋田・消えた村の記録'99年秋 その4 秋田県大潟村,五城目町北ノ又

〜佐藤晃之輔さんとご一緒しました〜



北ノ又の萱葺き屋根の家です。佐藤さんと,人なつこいイヌ(ポチ)と一緒に回りました。




10/13〜10/14/1999 大潟村,五城目町北ノ又

# 2-23
山ふじ温泉から1時間強,雨の中を耐え忍んで大潟(Oogata)村の居住地区(商店街)まで走り着きました。残存湖を渡る橋から居住地区までの道程は10数kmもあり,辛い走りでした。大潟村は言わずと知れた八郎潟の干拓地で,開村は1964年(昭和39年)という新しい村です。
ほどなく佐藤さんが迎えに来てくれました。佐藤晃之輔さんは1942年(昭和17年)県南の東由利町生まれ。1970年に第四次入植者として大潟村に越されたと「消えた村」の奥付けにあります。びしょ濡れの初めての訪問者に,佐藤さんの奥さんはさぞ驚かれたことでしょう。
着替えて,まずは「ポルダー潟の湯」という新しい温泉へ。この日3度目の温泉は,これまたとても気持ちのよいお湯でした。

# 2-24
家に戻って,キリタンポなどをいただきながら待望の佐藤さんとのお話が始まりました。手紙に入っていた名刺に「農業」とあるのが印象的だったのですが,東由利町に居られた頃は冬季分校の先生をされていたそうで,昔の集落や分校の様子に強い興味をお持ちの様子です。
「祝沢 分校と部落のあゆみ」(1994年発行),「高村分校の軌跡」(1996年発行)という「消えた村」の前に自費出版された本も見せていただきました。祝沢は佐藤さんが生まれ育った集落,高村は祝沢から山ひとつ隔てた佐藤さんが先生をされていた冬季分校のある集落です。
「消えた村」の調査を始められたのは1987年(昭和62年)頃からで,廃村の所在はほとんど独力で調べられたとのことです。

# 2-25
佐藤さんからいただいた秋田県の分校のリストには,149校の名前がありましたが,現在も残っているのはわずか5校とのこと。
分校,森林鉄道,萱葺き屋根,炭焼き集落など,昭和30年代の秋田の日常の風景は,今はすっかり様変わりしてしまいました。
そんな忘れられた日常を振り返ってみることは,将来の生活を考える上でとても意義のあることだと思います。
佐藤さんは,今度は秋田県内の「消えた分校」に関する書籍の原稿を書かれているそうで,これもまた楽しみです。
「秋田には,無明舎という出版社があるからありがたい」という佐藤さんの言葉が,出版社勤務の私としては印象に残りました。

# 2-26
翌日(秋田4日目)は,秋田に来て初めてよい天気になりました。この日は佐藤さんが,隣町の五城目(Gojoume)町の北ノ又(Kitanomata)という萱葺き屋根の家が綺麗に残っている集落を案内していただけることになり,佐藤さんのクルマに乗ってふたりで出かけました。
北ノ又の手前の蛇喰(Jabami)には,冬季分校跡の敷地に萱葺き屋根の宿泊施設ができており,ローカルな名所になっているようです。
蛇喰にクルマを止めて10分ほど歩くと,山の間に栗を並べたような佇まいの萱葺き屋根の家が7戸ほど見えてきました。佐藤さんによると,昔は当たり前だった萱葺き屋根の農家が,現在秋田県内でこれほどまとまって見られる集落は他にないそうです。


# 2-27
その景色も味わい深かったのですが,いちばん印象に残ったのは,地元のおばさんと佐藤さんとの会話です。
「やあやあ」と佐藤さんがおばさんに名刺を手渡たされてから,しばらく横で会話を聴いたのですが,その内容は半分もわからないものでした。「消えた村」の細やかな記録は,このような取材の賜物で,方言がわからないものにはちょっとできないことだと実感しました。
北ノ又で常時人が住んでいる家はわずか2戸。中には崩れかけている家屋もあります。
こんな風景も,何年か経ったらなくなってしまうのでしょう。そう思うととても貴重なひとときです。


# 2-28
蛇喰に戻る道では栗拾いに付き合っていただいたり,大潟村ではお土産店やカントリー・エレベーター公社(農協)に付き合っていただいたり,さらに男鹿半島の寒風山まで案内していただいたりで,佐藤さんには本当にお世話になりました。
大潟村の採れたばかりの新米のあきたこまち「ソーラーライス」は,とても美味しかったです。
こぼれ話ですが,佐藤さんの郷里(東由利町)出身の小松耕輔さんという音楽家は,全国各地の校歌の作曲をされていて,佐藤さんが収集した校歌のリストの中に私の妻の母校の大田原女子高校が載っていました。縁とは意外なところで重なるものですね。




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