上手な廃村の探し方 教えます

上手な廃村の探し方 教えます 和歌山県古座川町楠,樫山,___________
_______________________________那智勝浦町奥中野川,直柱,高野,
____________________________樫原,熊野川町滝本,鎌塚,畝畑


畝畑の旧集落にある小学校跡です。校門の近くには数戸の廃屋が残されていました。



2003/10/4 古座川町楠,樫山,那智勝浦町奥中野川,直柱,高野,樫原,熊野川町滝本,鎌塚,畝畑

# 23-1
さてさて,「上手な廃村の探し方」ですが,手っ取り早いのはネット上に掲載された情報を元に探すことではないでしょうか。
有名な廃村というと,伝統的には京都府京北町の八丁,長野県飯田市の大平宿,栃木県藤岡町の旧谷中村あたりでしょうか。廃墟フリーク的には,東京都奥多摩町の峰,倉沢,滋賀県多賀町の向之倉,保月(旧脇ヶ畑村)あたりが東西の双璧でしょうか。
鉱山関係では,長崎県高島町の端島,岩手県松尾村の松尾鉱山,ダム関係では,岐阜県藤橋村の旧徳山村,福井県大野市の旧西谷村,離島では,長崎県小値賀町の野崎島,東京都八丈町の八丈小島あたりが,よく名前が出てくるところかと思います。

# 23-2
しかし,私には多分に天邪鬼の血が流れているらしく,ネット上でレポートがたくさん上がっている廃村・過疎集落に対する興味は薄れます。例えば奥多摩の倉沢は,浦和からなら日帰りで行くことができるのですが,どうも出かける気持ちが起こりません。
そのあたりのこともあって,一箇所を深く取り上げた書籍・ホームページに加えて,地形図,住宅地図,分県地図,道路地図,ツーリングマップ,「角川日本地名大辞典」,「へき地学校名簿」などを使って,下調べを進めて,およそどんなところかアタリを付けて廃村・過疎集落へ出かけるという旅のスタイルが好みになってきました。未知のものに対する探求心が,旅への欲求へとつながるようです。

# 23-3
そしてとても重要なのが,地域の方と直接お話をすることです。私の場合,事前に連絡を取ることもありますが,多くは訪ねたときに偶然出会った方とのお話です。同じ廃村・過疎集落に行っても,係わりのある方がいるのといないのとでは,事情がまったく異なります。
例えば,同じ学校跡でも,地域の方に教えていただいて訪ねるのと,手持ちの資料と勘だけで訪ねるのとでは,実感が全然違います。
人の縁は,天候と同じく時の運に支配されますが,廃村と過疎集落を比べると,地域の方がいる確率は過疎集落のほうが大きいことは間違いありません。その意味では,廃村よりもわずかに人が住む過疎集落(高度過疎集落)のほうが,往時の匂いを体感しやすいといえます。

# 23-4
10月4日土曜日(旅2日目)の南紀の天気は晴れ。紀伊大島の民宿「利左衛門」をお母さんに見送られて出発したのは朝7時50分。ここまで来たらお約束ということで,本州最南端の潮岬を再訪しました。潮岬からは古座まで海沿いR.42を走り,古座からは古座川町の中心 高池を経て少しずつ山の奥へ。途中,池野山の小学校では季節柄賑やかに運動会が行われていました。
池野山を過ぎると,急に人気がなくなり,最初の目標 楠にたどり着いたのは9時15分頃。楠は20戸・102名(明治24年)が,昭和59年では11戸・33名。家屋が散らばって所在するため,集落として捉えにくく,高台の集会所前でひと休みしただけで先に進みました。

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# 23-5
楠と樫山の間の県道沿いは,明るい雰囲気の林業地が広がっています。見かけた看板には「三井農林(株)国王山社有林」とありました。また,道沿いのコンクリート壁の上には,重石を載せた樽が数多くあり,「何だろう」と思ったのですが,後で地元の方に尋ねたところ,野生のハチから蜜を採取するための樽とのこと。
二番目の目標 樫山到着は9時45分頃。樫山は古座川町の最奥地で,23戸・129名(明治24年)が,昭和59年では2戸・3名に激減しています。往時は小中学校がありましたが,後に見た「さらば学舎」(平成2年発行)には,建物は「現存せず」と記されていました。

# 23-6
地元の方がいたら学校跡のことなどを尋ねたかったのですが,表札がある家にも人気はありません。30分ほどの探索の間,樫山は通過するクルマさえありませんでした。探索では廃屋の前に置かれた大きな唐箕が印象に残りました。
樫山からは太田川沿いに下流へ向かう大部分がダートの林道。素掘りの小さなトンネルがいくつかあり,その荒れ方はオフロードバイクがやっと通れるという感じです。当初は高野川の合流点の分岐から高野に向かうつもりだったのですが,その入口には「高野方面 通行止」の看板があったため,予定を変更して,小匠ダムから小匠まで下って,中野川沿いの奥中野川を目指すことになりました。

# 23-7
西中野川から奥中野川へ行くの道の分岐入口には,またも「通行止」の看板。「まあ,大丈夫だろう」とバイクを走らせて,三番目の目標 奥中野川への到着は11時45分。ここは大字西中野川に含まれる字のため,角川の辞典には集落の規模のデータは載っていません。
住宅地図には数戸の空家が記されており,山の深さから考えると,荒涼とした風景を想像していたのですが,そこは畑として整備されており,集落内に植林はなされていませんでした。手入れされている家と荒れた家屋の割合は半々でした。
奥中野川では,薄雲がかかった晴天の中,30分ほど探索をしたのですが,地元の方とお会いする機会には恵まれませんでした。

# 23-8
奥中野川からさらに進むと籠に抜けることができるのですが,ほどなく舗装工事の現場に遭遇し,「通行止」の突破は断念しました。
西中野川戻りの迂回ルートは悔しいところでしたが,途中の旧色川村(昭和30年に合併により那智勝浦町)の中心の大野には,小学校,中学校が現存し,高台から見下ろす広い棚田はとても綺麗でした。旧色川村は那智の滝のほど近くにして,観光の匂いは皆無です。
2ヶ所の通行止のため,大幅に遅れた籠到着は午後1時。昔ながらの商店でパンを買うと,お母さんは「まあ,休んでいきなさい」とお茶を入れてくれました。また,小学校跡は「籠ふるさと塾」という研修施設として使われており,校庭からははるかに太平洋が臨めました。

# 23-9
籠から高野方面に坂を下り,途中にあるのが四番目の目標の直柱。ここは大字ながら元々の規模が小さく,明治24年で4戸・34人。昭和59年では3戸・7人。直柱でも家はあるものの人気はありません。時間が押していることもあり,少し休憩しただけで先に進みました。
直柱を過ぎ,しばらくすると道にはダートが交じり出し,高野川沿いとなってからほどなく五番目の目標の高野に到着しました。高野は,明治24年で13戸・78人。角川の辞典でも人口ゼロと明記されている廃村です。廃村時期は昭和50年頃とのこと。
高野では,家々の敷地跡に見られた直径1.5m・深さ1mほどの穴が印象的でした。貯蔵庫だと思うのですが,実態は何なのでしょうか。


# 23-10
高野からは一度籠に戻って,熊野川町方面への県道へ進みました。籠は大字 田垣内の中の字なのですが,高野,奥中野川,大野(那智勝浦町方面),熊野川町方面への道に加え,古座川町方面への県道もある五差路で,この地域の交通の要所です。
六番目に訪ねた樫原の家屋は,県道沿いにまばらに展開されていました。樫原は42戸・209名(明治24年)が,昭和59年では12戸・27名。
道沿いには使われている家と廃屋が入り混じっており,赤い郵便ポストが妙に目立ちます。あと,家の軒に無造作に立てかけられていた「世界長地下タビ」のホーロー看板が印象的でした。熊野川町との境の峠の近くは字 小麦となるようです。

# 23-11
熊野川町に入って最初の集落が七番目の目標の滝本。到着は3時10分だったのですが,陽はすっかり西に傾いていました。
滝本は明治24年で50戸・251名が,昭和59年では24戸・59名。小口川が集落の真ん中に流れる小盆地で,山間部らしくない空の広がりがありました。昭和62年まで存続した小学校跡の建物は綺麗に手入れされており,西陽を浴びた赤い屋根はとても良い雰囲気です。
また,滝本は,集落名の由来でもある「裏那智の滝」という異名を持つ大きな滝(宝竜の滝)の入口なのですが,交通の便の悪さのため観光の方の目に届くことはほとんどない様子です。私も時間の余裕がないため,滝には足を運べませんでした。

# 23-12
滝本から旧小口村(昭和31年に合併により熊野川町)の中心の小口(西)までの小口川は渓谷(静閑瀞)になっていて,県道は山間を縫うルートになっています。ここに鎌塚という集落があるのはノーマークで,その名前は県道に記されている地名の表示から知りました。
結果として八番目に訪ねることになった鎌塚は,明治24年で36戸・150名が,昭和59年では21戸・60名。鎌塚では,集落を訪ねようと県道から分岐した坂を下り,下りきった行き止まりの家の前でおじいさんと幼稚園くらいの女の子に笑われたのが印象的でした。
昭和58年まで存続した小学校跡は良い雰囲気だったのですが,なぜか居合わせたイヌに吠えられてしまい,落ち着けませんでした。

# 23-13
少し町の匂いのする小口を通り過ぎて,最後に目指す畝畑は,小口から和田川沿いを遡ること12km。和田川は綺麗な渓谷ですが,陽が暮れてからでは先を急ぐばかりです。素掘りのトンネルがあるこの県道は古座川町に通じているのですが,畝畑以遠は通行止めでした。
何とか畝畑にたどり着いたのは4時45分。畝畑は明治24年で54戸・273名が,昭和59年では2戸・5名に激減しています。
昭和51年まで小学校があったのですが,今はそんなことが想像できないぐらいの静かな山の中です。橋の近くの家の方と顔を合わすことができたので,ご挨拶をして小学校跡について尋ねてみると,県道から少し山道を上がったところにあるとの返事をいただきました。

# 23-14
薄闇の中,古びた石段を上がっていくと,苔むした石垣に突き当たり,左に進むと「熊野川町立 畝畑小学校」というプレートの付いた校門が構えていました。しかし,門の内側の校庭にはびっしりと潅木と雑草が生え,すごい荒れ方です。雑草をかき分けて進むと,往時の小さな校舎(昭和44年建設)が,そのままの姿で残されていました。相当に朽ちていますが,しっかりと建っており,すごい存在感です。
校門を過ぎてさらに石段を上がっていくと,数戸の昭和40年代頃の匂いの廃屋が残されていました。また,校門を背にして少し進むと,ここにも数戸の廃屋が残されていました。つまり小学校跡を中心として,畝畑の旧集落は往時のままに廃墟となっていたのです。

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# 23-15
「さらば学舎」の木守小学校のコラムには「人為的に何となしに荒れ果てて行くよりも,自然崩壊の方が人間的だと思う」との旨が記されているのですが,私が畝畑の旧集落の雰囲気に圧倒されたのは,ほとんど人為的なものがないまま,自然に朽ちていたからのようです。
また,「さらば学舎」の畝畑小学校のコラムには「ここ程山奥は無い。まさしく秘境」と記されており,「この雰囲気は秘境ならではなのかもしれない」とも思えました。できれば,この雰囲気のまま静かに自然に朽ちていってほしいものです。
地元の方に出会わなかったら,小学校跡・旧集落にはたどり着けなかったように思います。振り返ると,この出会いは貴重でした。

# 23-16
小口に戻ったのは6時頃。ちょうど新宮行きのローカルバスが出発していきました。小口を過ぎるとあたりは闇に包まれ,川湯温泉の民宿「大村屋」に到着したのは6時25分。たっぷり廃村・過疎集落の雰囲気に浸ったこの日のバイクの走行距離は191kmでした。
10月5日日曜日(旅3日目)の南紀も快晴。この日は頭を切り替えて,熊野本宮へお参りした後,R.168を走って,奈良県十津川村,大塔村,西吉野村,五条市経由で,のんびりと堺まで帰りました。十津川村は秘境として名高いのですが,前日と比べるとはるかに町の匂いです。
2泊3日のツーリングの総走行距離は654km。気がついたら,大阪から東京・浦和を越える距離を走っていました。

(追記1) 有名な廃村は,ここでのリストアップすることで気になったこともあり,長野県飯田市大平,東京都奥多摩町倉沢,八丈町八丈小島,京都府京北町八丁には,その後1年半のうちの旅で足を運びました。

(追記2) その後,高野の穴について「さらば学舎」の中川秀典さんに尋ねる機会がありました。中川さんからは「水を溜める形の井戸ではないか」というお返事をいただきました。



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