黒潮の海に切り立つ無人島

黒潮の海に切り立つ無人島 東京都八丈町(八丈小島)
__________________________旧宇津木村,旧鳥打村


八丈小島の廃村 宇津木の小中学校跡から見た八丈島(八丈富士)です。



2004/9/18 八丈町(八丈小島)旧宇津木村,旧鳥打村

# 32-1
東京都心からほぼ真南に290km,伊豆諸島の八丈島のすぐ隣の八丈小島に宇津木(Utsuki)と鳥打(Toriuchi)という二つの廃村があることは,学生時代から知っていました。八丈島(八丈町)は東京都であり,離村の時(両集落とも昭和44年3月)に挙島離村として報道されたり,島の方が残していったヤギが繁殖したことが話題になったりしているので,どこからともなく頭に入ったようです。
八丈小島は,八丈島から西に約4km離れた 面積3.1ku,周囲6.5kmの小さな火山島ですが(ちなみに八丈島は面積70ku,周囲51km),島の中央にそびえる太平山は標高617mもあり(八丈富士は854m),海の中に切り立ったその姿は,小島とはいえない存在感があります。

# 32-2
私は平成8年8月,八丈島に亡き妻とふたりで2泊3日の旅をしたことがあり,そのとき南原千畳岩の海岸から夕陽が沈む風景とともに黒いシルエットの八丈小島を見ています。そのときはあまりに近くに感じるその姿に,半分行ったような気持ちになったものでした。
そして,その後,往時と無人島になってからの八丈小島の様子を記した「黒潮の瞳とともに」(漆原智良さん著,たま出版刊)と「無人島が呼んでいる」(本木修次さん著,ハート出版刊)を読んで,改めて「いつか足を運ばねば」と思うようになりました。漆原さんは鳥打小中学校に赴任した教師,本木さんは全国の島を巡る旅人であり,読み比べるとよい塩梅で島のイメージを想像することができます。

# 32-3
特に「無人島が呼んでいる」に詳細が記されている,鳥打村の最後の村長(鈴木文吉さん)が島を離れる時に鳥打小中学校跡の廊下の壁に赤ペンキで記していったという「惜別の詩」は強いインパクトがあり,ずっと「残っているうちに見ておきたい」と思っていました。
「五十世に暮らしつづけた我が故郷よ 今日の限りの故郷よ かい無き我は捨て去れど 次の世代に咲かせて花を」
「ともしびの如く消え去る故郷かな 花咲く色は変りなく ちりて誰かを待つごとし」(出だしのみ)
高度成長期の時代の波のため,挙島離村を余儀なくされた島人の気持ちの象徴として,後世に残したい詩です。

# 32-4
当初八丈小島行きは,平成16年7月31日(土曜日)に羽田出発の予定で,チケット,宿,渡船の手配もしていました。しかし台風10号の影響で8月28日(土曜日)出発に延期,今度は台風16号の影響で9月4日(土曜日)に延期,さらに台風18号の影響で9月17日(金曜日)に延期と,三回も延期を繰り返しました。渡船の「不動丸」の宮崎岩一さんによると「波の高さが2mを越えたら,小島への上陸は難しい」とのこと。
宿は船の港がある大賀郷がよいだろうと,「無人島を呼んでいる」に登場する旅荘「ぽんぽこ」へ連絡したところ,宿は営業休止になり,焼鳥屋になったとのこと。結局「ぽんぽこ」の奥さんの紹介のペンション「さくら」へ行くことになりました。

# 32-5
四度目の挑戦の9月17日(金曜日)の天気は晴れ。仕事を午後半休で終えて,羽田発午後4時10分発の飛行機で八丈島へ。フライト時間は45分。八丈島近くの上空からは,親子のような二つの島がはっきりと見えました。
八丈島空港では「さくら」のご主人桜田康次さんに出迎えていただき,宿に着くとすぐに同宿の方のレンタカーに乗り換えて南原千畳岩の海岸へ夕陽を見に行きました。8年ぶりの夕陽が沈む八丈小島の風景を見ながら,明日の海が凪いでくれることを祈りました。
この日の「さくら」の宿泊は5名。夜には光るキノコを見に行ったり,樫立の温泉に行ったりしながら,旅のひとときを楽しみました。

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# 32-6
翌18日(土曜日,旅2日目)は午前5時に起床。天気は穏やかな晴。朝食の用意にあわせて桜田さんは2リットルの飲料水を用意してくれました。八重根港には5時50分到着。港には太公望の姿が20人ほど。宮崎さんにご挨拶をすると,時折島の探索で乗られる方もいるとのこと。この日は「不動丸」は動かず,代わりに「海女屋丸」という3.2トンの45人乗りの船となりました。料金は7000円でした。
「海女屋丸」は6時10分八重根港を出発。海は幸いベタ凪ぎです。太公望の中には,小島から200mほど離れた小さな岩に降りられる方もいて,少々びっくり。島を時計回りにほぼ一周して,鳥打近くの磯を経由して,宇津木の船着場に着いたのは6時50分でした。

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# 32-7
島への上陸は船の舳先に着いたタイヤをクッションとして岩に飛び移るというもので,なかなかスリルがあります。船を見送ると集落跡には私ひとりです。コンクリートを敷いて階段状にした往時からの道を登ると,ほどなく小高く見晴らしのよい丘にたどり着きました。そこには浜小屋の跡や,コンクリート造の建物,拝所の石垣があり,宇津木に到着したことが実感できました。
行政村 八丈支庁宇津木村は,昭和22年10月の地方自治法の制定とともに成立。漁業の村だったといいます。50人ほどの極小村のため,村議会が置かれず,20歳以上の住民による総会で諸事の取決めをする「直接民主制」が取られていました。

# 32-8
昭和30年4月に八丈村に大賀郷村と宇津木村が編入されて八丈町が成立。しかし,経済の成長に伴い自給自足の生活は成り立たなくなり,昭和41年3月,島民の総意として「全員離島請願書」を八丈町議会に提出,その3年後に挙島離島に至りました(離島時の規模は9戸,31名)。
このとき,東京都が島民の土地の買上げを行ない,これを移転費の一部としたため,現在,島の管理は東京都によりなされています。
丘から海岸線に沿って北向きに歩くと,丸石の石垣やお墓らしきものが見当たりました。どこまでも背の低い草と枯草と溶岩,それを包む空と海だけの風景は,どこか神々しく感じられます。緩い上り坂を左にカーブしたところで,学校跡の門柱と建物が目に入りました。

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# 32-9
学校跡の建物は,廃村から35年に渡って外海の風雨にさらされており,崩れかかっていましたが,屋根も残っていました。割れずに残ったガラスがあるのは驚きです。校庭の草の高さが歩けるぐらいに揃っているのは,都の委託業者の方が定期的に草を刈るからのようです。
昭和34年の宇津木小中学校は,小学生9名,中学生3名,教師6名のへき地5級校。スレート葺きの屋根の校舎は,昭和28年施行の離島振興法による給付を利用して建てられたもので,往時は八丈島のどの学校よりも立派だったとのこと。生活環境が厳しい八丈小島において,村人は子供達の教育にはとても熱心だったといいます。

# 32-10
学校跡の門柱には植物を植えるくぼみがあり,南の島らしい情緒があります。海の向こうの八丈富士はすぐ近くに見えますが,この4kmほどの海の隔たりが八丈島と小島の暮らしを分けました。海峡の流れはとても早く,泳いでは渡れないとのこと。
学校跡の敷地を横切り,さらに海岸線沿いを北に行くと,石垣や住宅跡の敷地がありました。門柱のところに戻って山へ向かう急な階段を進むと,行き着いたところに為朝神社跡がありました。源為朝終焉の地という伝説があるこの神社の奉納品は,廃村とともに大賀郷の為朝神社に移されています。敷地には,コンクリート造の小さな建物や「八丈嶋取締 高橋長左ェ門」と刻まれた石碑がありました。

# 32-11
「海女屋丸」の迎えが来る予定は午前10時半。余った時間の大半は学校跡でのんびりと過ごしました。帰り道に船着場のほうを見下ろすと,驚くほどの海の青さです。船が予定時間に着かずぼんやり待つ船着場でも,海を泳ぐ黄色い熱帯魚や,数百匹の魚の群れを見下ろしていると,飽きることはありませんでした。釣りをしたら,素人でもたくさんの魚を獲ることができそうです。
船の迎えが着いたのは午前11時15分。鳥打の船着場までは8分ほど。島への上陸はやはり船の舳先からでしたが,宇津木に比べると港に近い雰囲気で,視界も広く圧迫感はありませんでした。

# 32-12
鳥打の釣り場は別の場所で,やはり船を見送ると集落跡には私ひとりです。船曳場のスロープを登り切ると,そこにはやはりコンクリート造の浜小屋跡や,拝所の石垣がある見晴らしのよい平地がありましたが,その広がりは宇津木よりずっと広く,段々畑の跡も見えます。
行政村 八丈支庁鳥打村は,昭和22年10月の地方自治法の制定とともに成立。半農半漁の村で,八丈島が直接見えない場所に位置します。常に宇津木村の倍ぐらいの規模を保ったという鳥打村ですが,昭和29年10月に三根村など八丈島の四村と合併し,八丈村となりました。往時の村役場は学校の敷地内にあり,合併後もしばらくは八丈村(八丈町)の支所が置かれたといいます。

# 32-13
漁村の宇津木と半農半漁の鳥打とはあまり交流がなかったらしいのですが,行政の指導もあり,挙島離村では同じ歩調で動きました。離島時の鳥打の規模は15戸,60名でした(八丈小島全体では24戸,91名)。
往時は三輪自動車も走ったという集落跡への道は,傾斜が急な部分にはコンクリートが敷かれています。ただ,右へカーブして集落跡に上っていくあたりは崩れた箇所があり,気を緩めることはできません。コンクリート製の雨水をためる水槽や酒のかめ,かまどなどを確認しながら,あちこちに石垣が残る緑の道を歩いていくと,右手に学校跡の門柱が現われました。


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# 32-14
学校跡の建物は,平成10年頃に屋根が落ちたことはわかっていましたが,その後の外海の風雨により,コンクリートの基礎の部分を残して瓦礫の山になっていました。しかし,よく見ると「惜別の詩」が書かれた廊下の壁は,ちょうど出だしが書かれた部分が残っており,赤ペンキは薄れてはいましたが,一部は読み取ることができました。
昭和34年の鳥打小中学校は,小学生20名,中学生3名,教師5名のへき地5級校。狭い島にして敷地は広々としており,村人が学校を大切にしていた様子がわかります。校舎の入口のところに座り込んで,パンとミルクの昼食です。

# 32-15
学校を過ぎてからも,集落跡は細長く伸びていました。いちばん上の家の敷地にはブロックを組んだ建物があり,覗いてみると五右衛門風呂がありました。さらに道が続いていたので,草をかき分けながらゆっくり進むと視界は広くなり,小さな渓谷がありました。しかし,そこには水はなく,桜田さんが用意してくれた2リットルの水も少なくなってきました。普通に歩ける道はここで途切れていました。
折り返して来た道を戻ると,学校の手前には「無人島が呼んでいる」にも載っている祠があり,「昭和32年9月15日 浅沼甚ノ助 栄作之工事」と刻まれていました。茶碗が落ちていたので,洗って水を供えました。

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# 32-16
「海女屋丸」の迎えが来る予定は午後5時半。初秋の快晴の南の島はとても暑く,学校跡に戻ってからは1時間ほど昼寝をしました。
夕方が近付いた4時頃から再び動き出し,主に学校よりも海寄りを探索すると,「黒潮の瞳とともに」にも載っているコンクリートでブロックを固めた教職員住宅跡を見つけることができました。あと,印象に残ったのはかまどと大きな水がめ,島のあちこちに咲いていたセンニンソウという白い花でした。この頃には,手持ちの水は完全に尽きていました。
八丈小島の探索を終え,屋敷跡の石垣の上に座って水平線の丸さが感じられる海を見下ろすと,雄大な気持ちになることができました。


# 32-17
船の迎えが着いたのは午後5時40分。船着場を出てまもなく夕陽が海に沈みました。小島での滞在時間はおよそ11時間。趣味のない方には苦痛を感じるに違いない長い時間でしたが,趣味人としては,至福の時間でした。これは,太公望の世界も同じなのでしょう。
あと,八丈小島といえば必ず話題になるヤギですが,都による捕獲が進んだらしく,集落跡ではフンのひとつも見かけることはありませんでした。ただ,船から崖をみると,点のように小さいヤギの群れを見つけることができました。ヤギも捕獲の手から逃れるため,崖っぷちで懸命に生きている様子です。

# 32-18
夜の帳が下りた八重根港から歩いて「さくら」にたどり着いたのは午後7時ちょうど。食事に間に合ってホッと一息。この夜は浦和から持ってきた三線も弾きましたが,八丈小島探索はあまりにも突飛な話題であり,疲れもあって早々の就寝となりました。
翌19日(日曜日,旅3日目)は曇り時々雨。桜田さんにガソリンスタンドまで送ってもらい,自転車を借りて午前中は図書館で小島の資料探し。
午後からは,本木修次さんに紹介いただいた大賀郷にお住まいの浅沼孝則さん(鈴木文吉さんの娘婿の方)に電話をして,「惜別の詩」の石碑があるという鈴木家のお墓の場所を尋ねると,クルマでお墓まで同行していただけることになりました。

# 32-19
浅沼孝則さんは昭和16年 八丈小島鳥打生まれの63歳。昭和31年の高校進学時まで鳥打に住まれて,昭和42年 教師として鳥打に戻られ,昭和44年の廃村時まで過ごされています。本木さん,漆原さんの書籍では,ともに八丈島の中学校の先生として登場されています。
お墓の横には「今,小島を去らん我が想い」と題された石碑と供えられた花があり,浅沼さんと一緒に私も手を合わせました。浅沼さんからは,往時の学校のこと,船着場近くの拝所のこと,鳥打と宇津木を結ぶ道のこと,鳥打集落の水場のことなど,いろいろなお話しを伺いました。昭和42年頃の集落の電気は,40ワットの白熱灯が灯るよう各学校にある自家発電機から時間を限って給電していたとのことです。

# 32-20
ガソリンスタンドで浅沼さんと別れてからは,「為朝神社の奉納品がある」という八丈島歴史民俗資料館に足を運びました。しかし,図書館や民俗資料館での調べよりも,浅沼さんに話していただいた小島の話はずっと参考になりました。どうもありがとうございました。
民俗資料館からは自転車を走らせて,大里の玉石垣のあたりから改めて八丈小島を眺めて,八重根港を経由して前日見つけた「さくら」の近くの園芸店でソテツの苗木を買うなど,ひととき観光客気分の時間を過ごしました。
八丈島から羽田までの飛行機は午後5時30分発。keikoさんへの土産は黄八丈(八丈島特産の織物)のティッシュケースを買いました。



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