500か所超えの道のはじめは近江から

500か所超えの道のはじめは近江から 滋賀県東近江市大萩,九居瀬

廃村 大萩(おおはぎ)の分校跡から門柱と集落跡地を見る



2012/11/24 東近江市(旧愛東町)大萩,(旧永源寺町)九居瀬

# 1-1
「廃村千選」の500か所超え(2分の1超え)の旅は北編と南編の2分割で進めることになり,南編の最初の一歩は近江から始まった。近年,毎年11月に行っている大学同窓会(堀田コンパ),平成24年は11月23日(金祝),奈良県の生駒で実施した。宝山寺「緑風館」で1泊し,「翌日はどのように過ごそうか」は白紙だったが,皆それぞれ予定があって,朝早い時間に分かれることになった。
そこで急きょ滋賀県の2つの廃村 東近江市大萩(Oohagi)と九居瀬(Kuize)を訪ねることになった。この2つの廃村は,平成23年10月16日(日)の東近江市茨川の現地取材の際,あわせて足を運ぶ計画を立てながら,時間がなくて行けなかった。つまり,時間があればいつでも行ける用意ができていた。

# 1-2
11月24日(土),宝山寺の宿の出発は朝8時頃。同級生3名で駅まで参道を下って,生駒駅にて解散。私は西大寺を経由して近鉄で京都に出て,東海道線近江八幡駅に向かった。良い天気の三連休(祝土日)の中日,電車はよく込んでいる。駅から歩いて5分ほどのレンタカー店は「100円レンタカー」(1500cc以下 100円/10分,3時間以降100円/30分)という個性的なもので,私は6時間2400円+免責1000円でホンダのライフ(軽)を借りた。
近江八幡市街を午前10時半に出発し,1年前も走った八風街道(R.421)を進み,八日市IC入口を過ぎたあたりで先に大萩を回ることに決めた。旧愛東町に入り,麓の集落 上山までは町と里の風景が続いたが,上山を過ぎてからの角井峠を越える細い県道は山の風景そのものになった。

「大萩茗荷村」という碑と家屋が見えてきた


# 1-3
道の傾斜が緩くなり「そろそろ到着かな」と思ったら,右手に「大萩茗荷村」という碑と家屋が見えてきた。大萩茗荷村は障害児教育の先駆者 田村一二が記した小説「茗荷村見聞記」に端を発し,昭和57年に設立された団体で,大萩集落跡では知的障害者の生活施設,作業場などが開かれている。
クルマを停めて大萩茗荷村の碑の反対側の枝道を歩くと,左横側には「三界萬霊塔」と刻まれた石碑や墓地があって,碑文からここにはお寺(大慈寺)があったことがわかった。少し先まで歩くと,大萩茗荷村の施設が見えてきた。関係の方にお話をうかがうと,「運営者・参加者は変動しているが,先日,福祉コミュニティとして開村30周年を迎えることができた」とのこと。

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      大萩・「三界萬霊塔」と刻まれた石碑                   枯葉が落ちた集落跡に,抜け殻の地蔵堂が見当たった

# 1-4
集落跡は,茗荷村を西端として先に広がっており,探索すると家々の敷地,抜け殻の地蔵堂,大きな神社(白鬚神社)が見当たった。その先では,金色の仏像と「大萩集落之址」「庚申供養塔」などの石碑,閉ざされた整った家屋,そして分校跡を見つけることができた。愛東北小学校大萩分校は,へき地等級3級,児童数45名(S.34),明治9年開校,昭和50年閉校。分校跡には門柱が残っていて,校庭には分校跡の碑が建っていた。
「三界萬霊塔」と「大萩集落之址」の碑文によると,「昭和47年9月16日の台風20号で山崩れ,人家倒壊などの大きな被害を受け,これを契機にして昭和50年4月,住民は愛東町内上岸本へ集団移住した」とのこと。多くの見所があった大萩には,昼食休みを含めて1時間40分滞在した。

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  大萩分校跡の碑の裏面には,沿革が記されていた            金色の仏像と「大萩集落之址」などの石碑が集められていた

# 1-5
大萩集落跡の東端から少し先には県道の三差路があって,左の道は犬上川に沿って多賀町へ,右の道は筒井峠を越えて旧永源寺町蛭谷へ向かっている。次に目指すのが九居瀬ということで,ここは迷わず右の道を選んだ。蛭谷とその隣の君ヶ畑は,木地師の総本山があることで名高い。なだらかな筒井峠の上には,惟喬親王御陵という木地師に関係する史跡があった。
峠を下った蛭谷は平成12年7月以来12年ぶり。長い付き合いとなった滋賀民俗学会の菅沼晃次郎さんと偶然出会った筒井神社は再訪することができたが,君ヶ畑の大皇器地祖神社(ロクロ神社)に立ち寄るへ向かう時間は捻出できなかった。

# 1-6
短い時間で蛭谷を出発し,政所を過ぎて合流した八風街道(R.421)はこれまでの数十倍の交通量がある。愛知川に架かる越渓橋手前には,永源寺ダム湖北岸を通る道への分岐があり,ここを通りたかったが,通行止の看板とゲートに行く手を阻まれた。
橋を渡ったところでクルマを停めて確認をすると,橋の付け根に「東近江市九居瀬」という看板が立っていた。歩いて橋を渡り,通行止の看板の写真を撮ると,そばには「小代」というバス停があった。後で調べたところ,小代は九居瀬の7つある字のひとつということがわかった。
九居瀬は永源寺ダム(昭和47年竣工)のダム湖に水没し,「何も残っていないのでは」と心配していたので,係わるものが見つかってひと息ついた。

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越渓橋の付け根には「東近江市九居瀬」という看板が立っていた             永源寺ダム湖北岸を通る道は,通行止だった     .

# 1-7
山上小学校九居瀬分校は,へき地等級1級,児童数23名(S.34),明治8年開校,昭和39年閉校。五万地形図(御在所山,S.32)の文マークは,現在の永源寺ダム堤体の少し上手に記されており,水没したことは間違いなさそうだ。
永源寺ダム湖北岸を通る道へのアプローチは,越渓橋と堤体と赤橋の3か所。堤体を歩いて渡ると,走るクルマの姿があったので,「赤橋のほうから行ける」と予測したが,こちらにも通行止の看板とゲートがあった。しかし,ゲートは簡単に開いたので「お邪魔します」と声をかけて北岸の道を入っていった。堤体を過ぎて,紅葉がきれいな湖畔などを探索したが,記念碑など集落があったことを示すものを見つけることはできなかった。

九居瀬・紅葉がきれいな永源寺ダム湖畔(分校跡付近)

# 1-8
九居瀬の探索を切り上げたのは午後3時。永源寺(紅葉の名所のお寺)近辺の八風街道は渋滞が起きていて少し焦ったが,山上(旧永源寺町の中心)からは八日市市街を避ける道を選んで近江八幡市街に戻り,レンタカーの使用は5時間50分,走行距離は91kmだった。
この関西への旅は,平成24年11月22日(木)午後から25日(日)までの3泊4日。出発日の午前中が仕事だったこともあり,別子銅山近辺以来のスーツ姿での探索となった。この夜は大阪・堺の実家に戻り,明日の静岡・掛川近辺の廃村めぐりに備えた。「廃村千選」の滋賀県のポイントは13か所。今回大萩と九居瀬に足を運んで,13か所すべてに足跡を残すことができた。

(追記) その後,高島市(旧今津町)に自衛隊の騒音対策で生じた廃村 北生見(Kitaumi)が見つかり,「廃村千選」の滋賀県のポイントは14か所になった。



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