辰年の旅の終わりは遠州へ

辰年の旅の終わりは遠州へ 静岡県森町中塚

廃村 中塚(なかつか)には分校跡の校舎が残されていた



2012/11/25 森町中塚

# 2-1
「廃村千選」の静岡県のポイントは8か所。うち,唯一未訪の森町中塚(Nakatsuka)は,「廃校ノスタルジア」Webの華咲枯美さんからの情報で,平成23年7月に追加した。それほど山深くではない森町に廃校廃村があるというのは驚きだった。廃校の名前は天方小学校嵯塚分校。嵯塚(Saduka)という名称は,嵯峨野と中塚という2つの集落の合成名で,古くは炭焼(Sumiyaki)と呼ばれていた。
平成24年11月25日(日),関西への旅の帰途は,新幹線を掛川で下車して,中塚を訪ねる計画を立てた。メンバーは華咲枯美さんの友達で,「廃墟フリークOFF」でなじみがある世来直人さんと,この4月に宮崎県から東京に転居しためいこさんと私の3名だ。

# 2-2
新大阪を朝8時40分のひかりで出発し,浜松で乗り換えたこだまが掛川へ到着したのは午前10時29分。すっきりとした秋晴れの中,駅北口では世来さん,めいこさん,世来さんのクルマ(ジムニー)が待っていてくれた。
温暖で険しさがない静岡の山間には茶畑がよく似合う。だいぶ山に入り,途中,通過した掛川市のいちばん北の端,明ヶ島(Myougashima)には,キャンプ場や「山女魚里親分校」と看板がある養魚場が見当たったが,人の気配はなく,後で調べたところ,明ヶ島の戸数はゼロだった。
明ヶ島よりもさらに山の奥,中塚の駐車場に到着したのは午前11時50分。丁寧にも「中塚」と記された手作りの看板が立っていた。

駐車場に立っていた「中塚」と記された手作りの看板


# 2-3
世来さんが嵯塚分校跡を訪ねるのはこれが3度目。先導していただき山道を上がると,駐車場から10分ほどで中塚集落の家々が建っていた。中塚には1戸住まれる家があって,あと3戸ほど無人の家屋があり,屋根が光っている特徴がある建物は,製茶工場の跡とのこと。工場跡の前にはクルマが停まれるスペースがあるが,車道の先は藪になっている。どうやら,車道は崩落して,その後復旧しなかったようだ。
集落の一角をかすめる山道を歩き,コンクリート製の飲料水の水槽を横目にしながら,さらに7分ほど山道を上がると分校跡の門柱が見えてきて,その先には小さな木造校舎が建っていた。

山道を歩いて上がると,嵯塚分校跡の門柱が見えてきた

# 2-4
吉川小学校嵯塚分校(のち天方小学校嵯塚分校)は,へき地等級2級,児童数25名(S.34),明治23年開校,昭和52年休校,平成2年閉校。校舎の中にはいろいろな物が残っており,世来さんによると廃墟好き,廃校好きの仲間には人気がある廃校とのこと。ピンクの服のめいこさんがカメラを持って動いている様子は,枯れ草に包まれた景色によく映える。私の黒系のスーツは,全然さまになっていない。
校庭の一角には遊具や倉庫とともに鳥居があって,石段の上には拝殿が建っていた。分校と神社(八幡社)はほぼ尾根にあって,往時は来た道の反対側に,谷を一つ越えて嵯峨野へと続く山道があったはずだが,その道筋はわからなかった。

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      校庭の一角(谷側)には金網,遊具が残っていた          校庭の一角(山側)には鳥居があって,石段の上には拝殿が建っていた

# 2-5
戻り道,「ご挨拶をしておこう」と思いつき、1戸住まれるお家を訪ねた。応対してくれたおじさん(三浦さん)は私と同世代の方で,集落に続いていた車道は完成してまもなく崩れて使えなくなったこと,神社の本尊は数年前に里へ下ろしたことなど,いろいろな話をうかがうことができた。
家の向かいの山に広がる紅葉は見事なもので,三浦さんにそのことを話すと,「いつもの風景だけどなあ」と,素っ気ないお返事だった。中塚集落を後にして,藪をこいで車道跡をたどり,駐車場に戻った後は予定を立てていなかったので,三浦さんお勧めの近くの名所,友田家(ともだけ)と大尾山(おびさん)を訪ねることになった。明ヶ島を過ぎて,川沿いの狭い道を通って森町柿平に出て,まず西亀久保の友田家を目指した。

# 2-6
友田家住宅は,亀久保地区で代々庄屋を務めたという茅葺屋根の旧家で,国指定の重要文化財とのこと。普段は公開されているが,この日は修繕中で中の見学はできなかった。柿平に戻って少し下手の落合の古い地形図に記された文マークの場所に立ち寄ってみると,そこは「カワセミの里」というキャンプ場になっており,その一角には「森町立吉川小学校跡」の記された石碑が立っていた。
友田家の反対側(掛川市側)にある大尾山は,山の頂手前に建つお寺(顕光寺)の屋号でもある。千手観音が祀られた観音堂は,寺から歩いて7分ほどの山頂のすぐそばにある。三浦さんは「大尾山の山頂からは富士山が見える」と言われていたが,山頂は結構な茂みになっていた。

大尾山・顕光寺は,山の頂手前にもかかわらず大きなお寺だった

# 2-7
大尾山に向かう途中,「柚葉林道 通行止」という看板がある三差路があって,古い地形図を見るとその先には柚葉(Yuzuppa)という集落が記されている。「もしかすると柚葉は廃村なのかも」と思いつき,大尾山からの帰路の途中,立ち寄ってみることになった。
たどり着いた柚葉には,ちょうど農作業のおじさん(杉本さん)が居て,話をすると,「いま集落に暮らしているのは私の家だけ」とのこと。
畑を囲む電気を流した柵(電柵)は,山里をめぐっているとなじみになるが,世来さんは初めて見るとのこと。確かに,地域の方と話をする機会がなければ,しっかり見るものではないかもしれない。

帰り道・4月に開通したばかりの新東名 静岡SAに立ち寄る

# 2-8
簡単な探索の後,柚葉を出発したのは夕暮れの午後5時頃。町に下って,森掛川ICからこの4月に開通したばかりの新東名に入って,一路東京を目指した。新東名は快適な流れだったが,東名は「渋滞60km」という恐ろしい状況になった。渋滞開始の鮎沢PA付近は午後7時25分。終了の大和BS付近は午後10時5分(正味2時間40分)。鮎沢PA−大和BSは52kmなので,平均時速は約20km/h。市街地の一般道を流しているようなペースとなった。
世来さん,めいこさんとは,この5月,伊豆諸島八丈小島行きを計画して失敗しており,年内に別の探索でご一緒できたのはよいことだった。
辰年の廃村探索はこれにて打ち止め。「廃村千選」の累計訪問数は342か所,新規訪問数は37か所/年(前年と同じ数)となった。



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