巳年の旅のはじめは紀州路へ

巳年の旅のはじめは紀州路へ 和歌山県古座川町宇筒井,大桑,_______
__________________________________________田辺市谷野口,日高川町串本

廃村 西大谷(にしおおたに)のスギ林には,石垣と廃屋が入り混じっていた



2013/1/12〜13 古座川町宇筒井,大桑,田辺市(旧大塔村)谷野口,日高川町(旧美山村)串本
[ 1/13 田辺市(旧大塔村)九川,西大谷 ]

# 3-1
これまで年初の廃村への旅は,雪国行きが続いていた。12年間を振り返ると,H.13=岐阜県黒津,H.14=秋田県合津,H.15=北海道東美唄,H.16=山形県野頭(冬季分校),H.17=京都府八丁(未到),H.18=栃木県五十里,H.19=新潟県藤沢,H.20=長野県沓津,H.21=岐阜県跡津川,H.22=新潟県大池,H.23=山梨県滑沢,H.24=京都府大原大見と,大なり小なり雪がからんでいる。
年が明けて平成25年(巳年),50代初めての年初の廃村は,あえて雪国から離れて,温暖な和歌山・南紀の廃村(古座川町宇筒井,大桑)を選んだ。JR紀勢本線古座駅からコミュニティーバスを使って滝ノ拝まで行き,ここに宿を取ると「宇筒井,大桑には自力で行ける」と画策した。

# 3-2
ネットで滝ノ拝の民宿「やまびこ」のことを調べた頃,「和歌山まで行くなら,盟友 村影弥太郎さんにお会いしたい」と思い始めて連絡した。すると「了解です」との嬉しいお返事。そうなると「飲み会をして,和歌山で再訪したい旧大塔村谷野口,あと一つ残る旧美山村串本にも足を運びたい」と,欲張りになるのはいつものことだ。
平成25年1月12日(土),起床は未明4時半頃。東京から新幹線に乗り,名古屋で特急「南紀」に,新宮駅で普通電車に乗り換えて,古座駅に到着したのは午後12時27分。まぶしい日差しを浴びていると,軽トラが到着した。村影さんとの再会は,奈良・十津川の廃村以来,2年3か月ぶりのことだ。

まぶしい日差しのJR古座駅で,村影さんと待ち合わせ

# 3-3
当初は滝ノ拝まではコミュニティーバスで出かけて,道の駅「滝ノ拝太郎」での待ち合わせを考えたが,時間の効率が悪いため,直前でボツとなった。立ち寄った「滝ノ拝太郎」は,土日のみ営業の小さな道の駅で,いきなりだが土産のポン酢を購入した。片隅には門柱が残っており,小川中学校の跡地に作られたことがわかった。
宇筒井(Udutsui)は,滝ノ拝から約4q,戸数3戸の高度過疎集落。三差路にクルマを停めると,そばの家のおばあさんがやってきた。お話しをすると,ご挨拶に来てくれたようで,嬉しいことしきり。分校跡のことを尋ねると,「そっちに少し歩くと見えてくる」とのこと。

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宇筒井分校跡の平屋建て木造校舎が見えてきた                    分校跡の建物には,イヌが構えていた   .

# 3-4
小川小学校宇筒井分校は,へき地等級2級,児童数17名(S.34),明治11年開校,昭和43年閉校。事前に分校の情報は持ち合わせておらず,村影さんと歩く道の先,一目でそれとわかる分校跡の建物にはとても驚いた。建物の横にはイヌがいて,少々吠えられたが,これはご愛嬌。分校跡の対面の家の方に出会えたので,お話しをすると,建物は物置として使っているそうで,入口の場所には現役の郵便ポストが立っていた。
分校跡からは単独で先へと進むと,眼下に手入れがなされた吊り橋が見えて,その先には家屋と作業をされるおじいさんと出会った。ご挨拶をして,庭先でお話しをしていると,日差しのせいもあってか冬とは思えない暖かさで,庭先の柱についた温度計を見ると13℃を示していた。

# 3-5
分校跡に戻ると,校舎の真下の校庭では村影さんとおばあさんが並んでお話しをされていた。私もその輪に加わり,青空の下,古い木造校舎を見ながら,おばあさんから宇筒井分校が開かれていた頃のお話しをうかがった。お話しの中,おばあさんの「そこのゆず,鳥がついばむだけだから,取っていきなさい」というお言葉に甘えて,木に登って3個ほどちょうだいした。宇筒井では,3戸の集落とは思えない生活の匂いが感じられた。
次の目標 大桑(Ooguwa)は,宇筒井から約4q進んだ場所にあり,1戸だけ現住の家がある。地形図では尾添谷と記された場所に建つその家を過ぎて,土井まで走ると,分校跡へ続く道が分岐していた。枝道に入り古びた橋(大桑橋)を渡ると無人の家屋が建っており,その先には山道が続いていた。

大桑集落跡に続く古びた橋(大桑橋)

# 3-6
小川小学校大桑分校は,へき地等級2級,児童数9名(S.34),明治11年開校,昭和35年閉校。分校跡は山道を少し上がって右手の方向にあり,跡地には蜂蜜採取の樽が置かれていた。村影さんは前回訪ねたとき,「宇筒井に住まれる方に大桑分校の所在について尋ねた」とのことで,場所は間違いなさそうだ。分校跡にはそれらしい痕跡は見られなかったが,その周囲にはお地蔵さん,庚申塚などが見当たった。
分校跡の反対方向には,立派な石垣に囲まれた広い敷地があって,村影さんによると「伊東屋敷」と呼ばれるとのこと。スギ林になりながらも堂々と残る門と階段に「庄屋など,地域の実力者の家だったんだろうなあ」と想像した。

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大桑・スギ林の中に堂々と残る「伊東屋敷」の門と階段                 東山神社に新年の飾りは見当たらなかった   .

# 3-7
クルマに戻って少し先,進行方向左手に神社の入口標柱があったので,単独で訪ねた。「東山神社」と記された標柱は新しいものだったが,山道を歩いてたどり着いた神社には,新年の飾りは見当たらなかった。年配の方がお参りするには,この山道は少々厳しいかもしれない。
探索を終えて大桑を出発したのは午後3時少し過ぎ。この日の泊まりは旧中辺路町近露の村影さんのお家。古い地形図には記されていない車道を通って下露に抜けて,左はすさみ町,白浜町を経るルート。右は旧熊野川町,旧本宮町を経るルート。右ルート上には平成15年10月,夕方の駆け足の探索で強く記憶に残った畝畑があり,「ここまで来たら,畝畑に再訪したい」と思ったが,右ルートは進んでしばらくすると通行止の表示が立っていた。

# 3-8
左ルート沿いの古座川町,すさみ町の山間もめったに来れる場所ではない。立派な石垣が目を引くいくつかの集落を過ぎているうちに,「いかにも昭和の学校跡」という建物が視界に入ったので,クルマを停めて確認した。入口に立つ記念碑から,学校名はすさみ町立大巳小学校,閉校年は昭和45年とわかった。しかし,ただの廃校に示す興味は,典型的な枝葉であり,興味の対象は,できるだけ絞りたいものだ。
すさみ市街からは太平洋沿いのR.42を走って,白浜空港近くの「おさかな市場」で刺身を,上富田町のスーパーで酒とつまみを買って,夜の宴に備えた。滝ノ拝の民宿で泊まっていたら違う良さもあっただろうが,やはり盟友と過ごす夜は良いものだ。

# 3-9
旅2日目(平成25年1月13日(日))の起床は朝7時頃。天気は晴のち曇。朝の冷え込みはなかなかのもので,外は霜が降りて白くなっていた。午前中に訪ねる旧大塔村は,高度成長期,集落再編事業が積極的に行われた村で,その中でも旧三川村の区域には,小規模な廃村が数多く存在する。
道中はR.371は,未開通区間が2か所あるローカル道です。旧三川村の中心集落 合川から前の川沿いを3kmほど走ると,谷野口(Taninokuchi)という2戸の高度過疎集落の地内に入り,「おおとう山遊館」という学校跡を使った公共の建物が視界に入った。三川第一小学校は,へき地等級1級,児童数118名(S.34),明治35年開校,昭和51年閉校。私が平成15年10月,旧三川村の廃村をバイクでめぐったときは,気にしないで通過していた。

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三川第一小学校跡の碑と「おおとう山遊館」バス停           山遊館の建て物の左脇にある三川中学校の碑       .

# 3-10
その後,学校跡には三川中学校が移転してきて,学校は平成5年まで存続した。「おおとう山遊館」は,中学校跡を改装した建物で,中に入るとストーブは点いていたが,施設の方には出会わなかった。
五万地形図(栗栖川,S.48)の文マークの場所には清水と記されているが,もともと集落というほどの戸数はなさそうだ。少し上手には谷ノ口と記された集落があり,住宅地図にはR.371から少し山に入った場所に1戸住まれる方のお家と,谷を挟んだ場所に4戸ほどの無人家屋が記されている。単独で,か細い階段を上がって谷ノ口を目指すと,日差しが当たる高台に無住となってそれほど経たない様子の家屋が残されていた。

か細い階段を上がって着いた谷ノ口集落跡の家屋

# 3-11
谷野口からは,少し上手の九川(Kugawa)という廃村を目指した。九川は,平成15年10月,旧三川村の廃村をめぐったとき,ひときわ存在感を強く感じた廃村で,村影さんは「行ったことはない」とのことなので,ご案内する気持ちで出かけた。
R.371沿いの九川の地内には家屋が2戸あって,そのうち昔ながらの作りの家の様子を見に行ったところ,使われている感じはしたが,人の気配は感じられなかった。そして,R.371から枝道に入って九川の集落跡を目指したところ,枝道は道幅が広げられ,ダンプカーが走ったような荒れ方になっていて,10年前とはまるで別の道になっていた。やがて屋根付きの車庫が右手に見えて,九川集落跡に到着した。

なつかしさよりもその変貌に驚いた九川集落跡

# 3-12
車庫で行止まりだった車道は集落跡を通過しており,その先は大規模に樹が切られた山となっていた。道幅が広げられたことで「家屋の一部が取り壊されたのではないか」とも思ったが,うまく除けて広げた様子だった。
前回は隠れ里に迷い込んだようだったが,今回は樹が切られた山を背に,家屋が取り残されているような感じを受けた。集落跡では今回新たに墓地や石仏を見つけることができた。10年ぶりの九川で感じたのは,なつかしさよりもその変貌に対する驚きだった。全国の廃村をめぐる村影さんも,地元で新たな発見があったということで,喜ばれていた様子で,その後,九川は「集落紀行」Webにも加わった。

# 3-13
九川から近露へ戻る途中,寄り道した西大谷(Nishiootani)は合川から5kmほど北側,R.371から谷を入った林道沿いにあり,五万地形図では千ノ垣内(Chinogaito),中村,峯垣内の3集落名が記されている。10年前は,おそらく中村でスギ林に入り,石垣や風呂の跡などを見つけたものだった。
谷沿いの荒れた林道の先にある整備された「西大谷乳大師」という史蹟を訪ねた後は,「まとまった数の廃屋が残っている」という村影さんの勧めで,千ノ垣内を目指した。養魚場近くにクルマを停めて,はっきりしない山道を上がっていくと,スギ林の中に石垣が見えてきて,その上には複数の家屋が残っていた。集落跡の最上部までたどり着くと,お堂のような整った建物があって,覗くと中は綺麗に片づけられていた。

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西大谷(千ノ垣内)に残る寺社のような整った建物                    多くの家屋がスギ林の中に残っていた   .

# 3-14
集落再編事業による集団移転で,西大谷が無人化したのは昭和48年。スギ林となって薄暗い斜面に古い平屋建て木造家屋が残る様子を見て,私は「廃村千選」の開始(平成17年)以前の廃村めぐりのことを思い出した。廃屋で古い新聞の日付を見るのも,とても久しぶりのことだ。西大谷を出発したのは午後1時少し過ぎ。昼食は持ち合わせていたビスケットを軽トラの中で食べて済ませた。
午後訪ねる旧美山村串本(Kushimoto)は,平成22年10月,村影さんの軽トラでJR箕島駅から近露へ向かう途中,その存在を知らずに通過している。旧中辺路町から新しいトンネルを抜けて日高川沿いの旧龍神村に出て,川沿いのR.424を走ると,旧美山村に入ったあたりで椿山ダム湖が始まった。

# 3-15
串本小学校は,へき地等級1級,児童数64名(S.34),明治16年開校,昭和56年閉校。椿山ダムは堤高56.5m,総貯水量4900万立方m,昭和63年竣工。R.424から常盤橋へ向かう枝道のたもとには「串本小学校顕彰碑」が建てられており(平成3年建立),「椿山ダム建設により栄光の歴史は閉ざすとも建学の精神は永遠に消えず」と記されていた。碑のそばには「大志」「心」と刻まれた碑が寄り添うように建っていた。
常盤橋を渡って少し下手に進むと,18体の旧集落の石仏などが集められていた。「集落紀行」Webには,村影さんが平成23年2月に訪ねられたときの串本の様子が載っており,水が引いたダム湖内の旧集落の様子が紹介されているが,この日は水かさが高く,観察することはできなかった。

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常盤橋へ向かう枝道のたもとに建っていた串本小学校顕彰碑                   椿山ダム湖に架かる常盤橋          .

# 3-16
串本から日高川沿いを進んで,JR御坊駅に到着したのは午後4時頃。1泊2日の旅の道中,同行いただいた村影さんには,改めてお礼を言いたい。御坊駅から特急「くろしお」に乗って1時間20分,平成25年初めての大阪には,天王寺駅から入った。
年末年始にかけて,Web版「廃村千選」に,「学舎の風景」Web(管理者piroさん),「日本の過疎地」Blog(管理者成瀬さん),そして「村影弥太郎の集落紀行」Webの各廃村への直リンクを施し,全1000か所中,約560か所まで,どのような所か一目でわかるようになった。全県踏破達成後の「500か所超えへの道の旅」では,あまり知られていない,はっきりしない廃校廃村を積極的に訪問したいと思う次第である。



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