TVロケ「ホビーの匠」で石見路へ

TVロケ「ホビーの匠」で石見路へ 島根県益田市大鳥,赤谷

廃村 大久保休(おおくぼやすみ)の古い分校跡付近には,赤い旗が立っていた



2013/6/30 益田市(旧美都町)大鳥,(旧匹見町)赤谷
[ 6/29 山口県岩国市(旧錦町)高木屋,右穴ヶ浴,6/30 益田市(旧美都町)大久保休,(旧匹見町)芋原 ]

# 4-1
平成25年5月,広島ホームテレビのディレクターの方(若林さん)から取材依頼のメールがあった。番組は「ホビーの匠」(隔週土曜深夜25時45分〜26時),「さまざまな趣味にただならぬ情熱を傾けている方を紹介するプログラム」ということで,雰囲気はNHK-BSの「熱中時間」と似ている。テレビは平成21年2月のBSイレブン「オタイジリー」以来,4回目。交通費,宿泊費等も用意していただけるということで,喜んで出演承諾した。
数回の若林さんとのメール・電話でのやり取りの結果,ロケの日取りは平成25年6月29日(土)〜30日(日),場所は土曜日が3度目の山口県岩国市(旧錦町)高木屋・右穴ヶ浴を,日曜日が初めての島根県益田市(旧美都町)大久保休・大鳥,(旧匹見町)赤谷・芋原を訪ねることになった。

# 4-2
番組は,広島ローカルタレントの中島尚樹さんという進行役の方が,匠の世界に迫るという形で構成されている。「山口編と島根編で2回分つくる」ということで,充実したものとなりそうだ。若林さんからの事前情報によると,廃墟好きの中島さんはこの企画をかなり楽しみにしているとのこと。
ロケ1日目(6月29日(土))は,前日午後半休で大阪・堺の実家に泊まり,新大阪から新幹線で広島へ向かった。広島駅着は午前9時42分。梅雨時で心配された天気は,幸いにも晴れ。広島駅北口のロータリーで,スタッフ(若林さん,中島さん,カメラ,マイクの方)と合流し,山陽道広島IC,中国道六日市IC経由で山口県旧錦町へと向かった。さらに,昼食の道の駅「ピュアラインにしき」で,参加希望があった島根県のおきのくにさんと合流した。

ロケ1日目,天気には恵まれ,道の駅「ピュアラインにしき」で昼食休み

# 4-3
山口編では,参道,門,石碑がひそかに残る右穴ヶ浴(Unagaeki)の浄土真宗明専寺の跡を目指した。調べものをしているうちに,明専寺の最後の住職のご子息(岡崎公隆さん)が,錦町中心部(広瀬)にある善教寺の住職をされていることがわかった。
若林さんから岡崎住職へ取材を依頼したところ,承諾いただけたとのこと。無事に現地へ行けたら,面白いストーリーができる。梅雨時にたどり着けるかどうか不安だったので,私は普段持ち歩かない剪定用のハサミを持参した。さらにおきのくにさんにはナタを持ってきていただいた。
R.434平瀬トンネル付近から入った高木屋(Takagoya)へ向かう市道(舗装道)はとてもか細く,スタッフは「この先何があるのか」と思ったことだろう。

高木屋・高所の家屋から見下ろした穏やかな廃村の風景

# 4-4
高木屋到着は午後1時半頃。視野が開け,数戸の家屋が見られたが,人の気配は感じられない。「なぜ,こんなところに集落があったのですか」という中島さんの問いかけに,私は「徒歩交通の時代の道は,クルマ社会の今の道とは別物だったからなんですよ」と答えた。「徒歩交通は昭和30年代ぐらいには残っていたのだろうか」とか思いながら,高木屋では分校跡から集落一の高所の家屋まで,穏やかな廃村の風景を楽しんだ。
少し前まで患者輸送バスの看板があった高木屋の離村時期は平成20年頃。対して右穴ヶ浴の離村時期は昭和50年頃。時代を分かるように,高木屋−右穴ヶ浴間の2qの道はダートとなっている。右穴ヶ浴に到着したのは午後3時頃。ロケは景色撮りも同時進行で行うため,結構時間がかかっている。

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右穴ヶ浴・草むした明専寺跡が見つかった          広瀬・善教寺の住職に往時の右穴ヶ浴のお話をうかがう   .

# 4-5
まず道なりの山道から明専寺跡を目指したが,茂みが深く断念した。葉っぱの上ではとぐろを巻いたヘビが構えている。スタッフは,途中で見かけた倉庫のようなブロック塀が何なのか,気になった様子だ。改めて上り傾斜の山道を選び,草をかき分けて進むと,参道が見つかり,明専寺跡にたどり着くことができた。中島さんからは,「匠,高木屋は初心者向けの廃村だとすると,右穴ヶ浴は上級者向けですね」という声があがった。
帰路のダートではロケ車がパンクというアクシデントが起こったが,何とかクリアして広瀬の善教寺に到着したのは夕方5時45分。岡崎住職が持参された往時の写真の中の明専寺の鐘(昭和30年再鋳)は,善教寺に受け継がれていた。また,ブロック塀は,タバコを貯蔵する施設だったとのこと。

# 4-6
ロケ2日目(6月30日(日)),広島市内のホテルで目覚めたのは朝5時半。コンビニで朝食を調達し,スタッフ(若林さん,中島さん,1日目とは別のカメラ,マイクの方)とは朝6時半に合流。山陽道広島IC,中国道戸河内IC経由で午前中の目的地 島根県旧美都町へと向かった。
大久保休(Ookuboyasumi)到着は午前9時15分。入口は鎖が施されたゲートで閉ざされていた。大久保休には,紙すきで栄えた農家が1軒残り,「かみの宿」(大久保広兼石州和紙資料館)として活用されている。美都町中心部(都茂)に住まれる宿の方(広兼紀子さん)とは連絡を取っているので,私はまず「かみの宿」を訪ねるイメージでいた。

# 4-7
しかし,若林さんから「まず探索をして,その後に「かみの宿」を訪ねましょう」という注文がついた。手元の資料は,古い五万地形図(三段峡,S.42),新旧の二万五千図(出合原,S.44,H.11)と古い住宅地図(S.45,S.59)。このうち,住宅地図(S.59)には4戸の空家が記されている。ロケ車を停めた場所から「かみの宿」までは1km弱,私は「空家を探しながら,歩いて「かみの宿」を目指しましょう」と判断した。
道は環状になっており,「保安林内伐採 許 島根県」という赤い旗を挟んで右側ルートをたどると,3戸の空家にアプローチできる予測した。しかし,ゆるやかな下りのダートを歩いても,空家など,集落跡の気配は感じられなかった。

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ロケ2日目,林業関係の赤い旗が立つ大久保休の入口               路傍にブロックで囲まれた小さな祠が見つかった   .

# 4-8
先へ進むと行く手にユンボが現れて,道筋が変わっているような気配がしてきた。中島さんは「先に何かないか」と積極的に動いてくれたが,私は「ここは潔く撤退しましょう」とスタッフに提案した。初訪の地で行うぶっつけ本番のロケは緊張感があり,若林さんはそれをねらったのだろう。
赤い旗の場所まで戻り,左側ルートのダートを歩くと,路傍にブロックで囲まれた小さな祠が見つかってホッと一息。さらに歩くと整備された神社(崎所神社)があって,行く先に「かみの宿」が見えてきた。地図に見間違いがなかったことがわかり,匠の面目を保つことができた。「かみの宿」では,広兼さん夫婦,お子さんとその友達が待っていて,「何かを探す」大久保休フィールドワークは終了となった。

大久保休に残る古くからの家屋「かみの宿」(大久保広兼石州和紙資料館)

# 4-9
「かみの宿」のご主人(広兼重継さん)によると,広兼家(屋号は大久保)は,江戸時代,和紙を浜田藩へ卸していたこの地域を代表する農家で,和紙づくりは明治初期まで行われたとのこと。その後,炭焼きや養蚕など山の暮らしを続けていたが,高度成長期を迎えて個別に山を下りていき,広兼さんも昭和50年に大久保休の家を後にされたとのこと。そして,平成5年,荒れていた家を改装して「かみの宿」が開業した。
崎所神社はご主人の祖父の方が個人で建てたもので,「かみの宿」の開業にあわせて整備されたそうです。また,道中の祠のブロックは,雪を防ぐためのものかと思ったが,ご主人は「クマが祠を倒す悪さをしたので,それを防ぐためにつくった」と話されていた。

# 4-10
都茂小学校大久保分校は,へき地等級1級,児童数24名(S.34),明治7年開校,昭和39年閉校。「美都町史」には,分校は昭和29年に移転改築と記されている。広兼さんに確認したところ,古い分校跡(大久保休の分校)は,赤い旗が立っている場所の下のほうにあったが,痕跡は何もないとのこと。また,新しい分校跡(大鳥(Oodori)の分校)は,益田川沿いの道の三差路の一角にあり,跡地には林道竣工記念碑と「木魂碑」という碑があるとのこと。
改めてご主人の案内で,赤い旗がある場所に行きましたが,ここが分校跡だとは想像もできなかった。新しい分校跡は,五万地形図(三段峡,S.42)の文マークの場所とは異なる場所だった。校区の6つの小集落(大久保休,大鳥,嵯峨谷,炭山,葛根藪(Kanneyabu),内石)は,すべて廃村になっている。

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新しい大久保分校跡は,県道の三差路の角(大鳥の出合)にある       分校跡には「木魂碑」という碑が立っていた .

# 4-11
林道竣工記念碑は益田川沿いの道から見やすい場所にあり,すぐに見つかったが,「木魂碑」はなかなか見つからない。そのうちに若林さんから目配せがあって,視線の先をみると,草木の塊の中にわずかに碑らしきものを見ることができた。「剪定バサミが役に立つね」といって,碑面が見えるように草を刈っていくと,スタッフから「あまり刈りすぎないように」という声があがった。
碑の裏には「1975年 古稀記念 山根富士太」という名前が刻まれていた。分校跡は葛根藪の方の所有で,山根さんも葛根藪の方のようだ。葛根藪は分校跡から益田川沿い上手1kmほどにあり,「みと自然の森」という施設ができている。しかし,所在地名は「美都町史」に記述がある大鳥を用いることにした。

# 4-12
大久保分校跡からは,道の駅「サンエイト美都」で昼食をとって,午後の目的地 旧匹見町へと向かった。匹見町は,昭和38年の豪雪(三八豪雪)の被害が甚大なため,当時の大谷武嘉町長が「過疎対策」に尽力し,これが「過疎地域対策緊急措置法」(昭和45年施行)につながったことから,「過疎の町」という異名をもつ。赤谷(Akadani),芋原(Imobara)では,県および町が進めた「集落再編事業」により,昭和48年に集団移転が行われた。
R.191から少し入った移転先の集落 日の里(Hinosato)着は午後1時50分。若林さんは,ロケに備えて協力者を探してくれていたが,私,中島さん,スタッフと呼吸が合ってきた。そして「縁がある方に偶然出会ったら,その時協力をお願いしましょう」という,本当のぶっつけ本番ロケが始まった。

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       芋原・田んぼが広がる廃村の風景                   芋原集会所跡のそばには「畜魂碑」という碑が立っていた

# 4-13
赤谷・芋原は,赤谷川に沿った広範囲の谷地にあって,これまでの山の中にある廃村とはやや趣を異とする。田んぼがあって,家々が作業小屋として残る風景は,一目では廃村とは思えないかもしれない。中島さんからは「匠,廃村にはいろいろな形があるものですね」という声が上がった。
ロケは,芋原の奥まで行って,川下に向かって少しずつロケ車を動かすという形で進められた。まず,住宅地図(S.45)で芋原集会所と記された建物が残る三差路にロケ車を停めて,周囲を探索した。三差路のやや川上寄りには「畜魂碑」と刻まれた小さな碑が建っており,碑の裏には「昭和54年 三浦雅顕建立」と刻まれていた。小さな碑だが,「何かいわれがあるのかな」と思わせる存在感をもっていた。

「畜魂碑」の前で,単独行動を開始した中島さんを見送る

# 4-14
廃墟好きの中島さんは,移転から38年経った公共の建物に刺激を受けたのか,景色撮りになったとたん,「ちょっと単独行動してもいいですか」といって,川下へと歩いていった。廃墟好きの視点からすると,石碑よりも建物にアンテナが立つのかもしれない。
川下で中島さんを拾って,次にロケ車を停めたのは,赤谷小学校跡だ。やや川上側には「校元橋」という橋があって,写真を撮ろうとしていると「あぶない!」という声がスタッフからかかった。振り返ると,足元の真後ろにヘビが居て,「おおっ!」と声を上げるほどびっくりした。この「あぶない」は,私がヘビを踏んづけることかなと思ったが,「ヘビに咬まれるよ」という意味が大きかったのかもしれない 。

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 「ここに学校があった」ことを伝える赤谷小学校跡の門柱           小学校跡の門柱・景色撮りのひとこま

# 4-15
赤谷小学校は,へき地等級1級,児童数56名(S.34),明治15年開校,昭和49年閉校。学校跡は五万地形図(木都賀,S.42)の文マークの位置にあって,校舎の敷地や校庭は草に埋もれている中,門柱は「ここに学校があった」ことをしっかり伝えていた。
学校跡の景色撮りのとき,中島さんは「これ,貸してください」と私の手元にあった住宅地図のコピーを持って,川下のほうへと歩いていった。番組のディレクター歴1年の若林さんによると,「ここまで中島さんのノリがよいことは,これまでなかった」そうだ。小学校跡からロケ車を走らせると,中島さんが特徴がある廃屋の前で待っていて,「これ,何の建物だったんでしょう」と問いかけてきた。

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    赤谷の探索で見つけた特徴がある家屋                  特徴がある家屋をバックに中島さんと記念写真を撮る


# 4-16
確かに個人の家ではなさそうだが,何の建物なのかは想像できない。よいタイミングなので,若林さんに頼んで,この建物の前で中島さんとの2ショット画像を撮っていただいた。
私こと「廃村の匠」が中島さんのインタビューを受ける形のロケは,赤谷の日の里寄り,落ち着いた田園風景の中で行われた。私は「赤谷は「廃村千選」の中で365か所に訪ねた廃村になりました」など,いろいろなことを答えたが,その中で中島さんが言われた「はじめにいろいろ回って,謎に感じるものを見つけて,後で地域の方に話をうかがって,答えあわせをするのが面白い」という感想が,しっかり記憶に刻まれた。

# 4-17
「最後に,農作業をされているおじいさんに声をかけましょう」という若林さんの声にあわせて,見当たった方がいる場所でロケ車を停め,ご挨拶をすると,この方は三浦雅顕さん,そう,「畜魂碑」を建立された方でした。
すごい偶然に目を丸くしながら,中島さんが三浦さんに問いかけたところ,「畜魂碑」は集落移転後に進出してきた畜産会社がうまく行かず移転したときに建てたとのこと。特徴がある廃屋は,シイタケ栽培に係わる施設だったとのこと。また,赤谷・芋原から日の里へ集団移転したことについては,「移転がうまくいって,この年になっても田んぼに通い続けることができるのはありがたいこと」とのお返事だった。

日の里・最後に中島さんと一緒に歩いてご挨拶に出かけた祠

# 4-18
日の里の景色撮りの間に,私と中島さんは祠まで歩いて,ロケの終わりに感謝してご挨拶。しかし,広島駅に向かって走るロケ車の中,中島さんが「右足にマダニがいるみたいだ」と気付かれて,緊張感が走った。「おつかれさまでした」と広島駅北口前でスタッフと別れたのは夕方6時半。スタッフはその足で中島さんを病院へ送ったそうだ。
後におきのくにさんから,右穴ヶ浴で出会ったヘビはマムシで,「あんなにマムシを至近距離で見たのは初めて」との話をうかがった。パンク,マダニ,マムシと揃ったことを考えると,「梅雨時のロケは,危険と隣り合わせだったんだなあ」と,反省することしきりとなった。

(追記) 広島ホームテレビ,「ホビーの匠」,「廃村の匠」編は,平成25年8月10日(土)に前編(島根編),8月24日(土)に後編(山口編)がオンエアされた。



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