梅雨の中 暑い晴れ間の越前へ

梅雨の中 暑い晴れ間の越前へ 福井県南越前町神土,菅谷,
__________________________________________岩谷,芋ヶ平


廃村 菅谷(すげのたに)には,往時からの家屋が残っていた



2013/7/8 南越前町(旧河野村)神土,菅谷,(旧今庄町)岩谷,芋ヶ平

# 5-1
平成25年1月中旬,南紀の村影弥太郎さんとの飲み会の中で「福井県旧河野村に神土(Jindo)という分校があった廃村がありますよ」という話が出てきた。ノーマークの廃村の出現は,嬉しさとあせりがになって感じられる。
浦和に戻ってから資料を調べたところ,神土は日本海のすぐそばにあり,分校のへき地等級は無級だった。しかし,住宅地図を調べると家は見当たらず,廃村に違いはなさそうです。村影さんが平成24年11月に福井の廃村をめぐられたとき,神土は「「河野村誌」でその存在はわかったが,訪ねることはできなかった」とのこと。比較的訪ねやすい場所でもあり,「大阪出張の際には,あわせて訪ねよう」とねらっていた。

# 5-2
そして平成25年7月8日(月),前日までの2泊3日の大阪出張の後を受けて,神土を目指すことになった。旧河野村にはもう一か所 菅谷(Sugenotani)という未訪の廃村があるので,この2か所を目標とした。隣接する旧今庄町にも岩谷(Iwaya),大河内(Ookouchi)という未訪の廃村があり,この2か所をオプションと位置づけた。さらに平成3年夏に訪ねた芋ヶ平(Imogadaira)も「あわよくば…」という感じで見ていた。
この日,大阪の天気は快晴で,関西地方は例年よりも早く梅雨が明けた。JR大阪駅発朝8時12分の特急「サンダーバード」は,関西から北陸方面へ出かけるときの定番となっている。最寄りの武生駅に到着したのは9時59分。ガソリンスタンドが本業のレンタカー店で,トヨタのヴィッツを借りた。

越前市と南越前町の境目,神土入口の分岐

# 5-3
「家にもできるだけ早い目に帰れるとよいな」という中途半端な気持ちから,「夕方6時までには戻ります」と言ってレンタカー店を出発したのは午前10時25分。ツーリングマップを横目に,日本海沿いの越前町米ノ(Komeno)を記す看板を追いかけてクルマを走らせると,午前11時に神土入口の分岐に,その2分後に神土集落跡に到着した。
隣の集落 安戸(Yasudo)から2km弱の距離ながら,神土には古びた3戸ほどの家屋が見当たるだけで人の気配はなく,なぜかお墓が目についた。五万地形図(鯖江,S.43)には鳥居マークが記されており,この神社(医王神社)を訪ねると,石段を登りつめたところにコンクリート製の祠がかまえていた。

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3戸ほどの家々が残る神土集落跡(左手に分校跡と神社がある)              コンクリート製の祠が構える医王神社         .

# 5-4
糠小学校神土分校は,へき地等級1級,児童数71名(S.34),明治34年開校,昭和45年休校,昭和48年閉校。医王神社を訪ねたとき,神社の手前,「入口に防火水槽の看板があがった平地が分校跡ではないか」と推測したが,後に「河野村誌」で医王神社のことを調べたところ,裏付けが取ることができた。神土の江戸末頃の戸数は15戸,昭和53年10月,神社の改遷で祠がコンクリート製になった時は1戸になっていたようだ。
先の集落 杉山(Sugiyama)に向かうゆるい上り坂をクルマで進むと,左手に別荘が見当たった。日本海を見下ろせる別荘の玄関には「神土」「雪中花」と記されていた。杉山には数戸の新しい家があり,参議院選のポスターも貼られていたが,集落の方に出会うことはなかった。

# 5-5
神土分校の本校があった漁業集落 糠(Nuka)には小さなスーパーがあったので,昼食用のパンを調達。糠からは,窓を開けたクルマで日本海に沿ったR.305を河野村中心部へと走り,河野からは山に向かい,桜橋交差点でR.8をまたいだ。さらに,小集落 河内を過ぎると,R.305は菅谷で行止まりになっている。
河内を通過後も道は良く,楽に行けるかと思いきや,「活魚料理 渓流荘」というお店から先はダートで,道の真ん中に店のイヌが横になっていた。心配になったのでお店の方に「菅谷へ行くには,この道でよいですか」と尋ねたところ,「大丈夫ですよ」とのお返事。渓流荘から国道とは思えないダートを2kmほど進むと家々が見えてきて,午後12時45分,菅谷に到着した。

8戸ほどの家々が残る菅谷集落跡

# 5-6
菅谷には8戸ほどの古びた家屋が見当たったが,人の気配は感じられなかった。古い地形図(今庄,S.42)には集落の入口に文マーク,その横には鳥居マークがある。神社(八幡神社)を訪ねると,川を隔てた所に倒れた鳥居があって,石段を登りつめると小さなコンクリ製の祠が佇んでいた。
桜橋小学校菅谷分校は,へき地等級3級,児童数9名(S.34),明治40年開校,昭和46年休校,昭和48年閉校。村影さんからちょうだいした「河野村誌」の写しには,川を隔てた橋の左手に建つ分校校舎の写真が載っており,その場所は簡単に特定できたが,跡地には夏草が茂るばかりだった。菅谷の戸数は26戸135名(T.9),18戸94名(S.30),1戸2名(S.63)。集落跡を探索すると,造花が飾られたお墓やお地蔵さんが目についた。

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     菅谷分校は橋を渡って左手にあった                          菅谷・造花が飾られたお地蔵さん    .

# 5-7
探索の後,集落跡の道の日影で昼食を食べたが,この日の北陸は梅雨が明けたような青空と暑さだ。窓を閉めたクルマに戻ってお茶を飲むと,河野で買った冷茶は,温茶に変わっていた。桜橋からR.8に入り,道の駅「河野」近くで見た温度表示は34℃だった。
道の駅で休憩して,お土産を買って,先の行程を検討したところ,「行けるところまで行きましょう」と結論が出た。出発時には迷っても,フィールドに出てしまうと積極的に動くのは,根っから廃村めぐりが好きな証拠といえる。だた,炎天下なので,さらりと流すことになりそうだ。道の駅からは,敦賀市杉津(Suidu)まで出て,狭い幅のトンネルが続く北陸線の線路跡を使った県道で今庄を目指した。

北陸線の線路跡を使った県道で杉津から今庄を目指す

# 5-8
トンネル群を抜けてすぐ,信号所跡がある山中(Yamanaka)は,高度成長期の頃に生じた廃村だが,学校との係わりがないためリストには入っていない。信号所跡の案内を見ると,北陸線旧線は昭和37年に廃止になったとのこと。
信号所からは,大桐駅跡を見て,今庄町中心部をかすめて,平成19年秋に廃村 板取(Itadori)を訪ねた時にも立ち寄った堺小学校跡の二宮金次郎像にご挨拶。そして,日野川沿いの県道を山に向かって走り,広野ダムの奥にある廃村 岩谷(Iwaya)へと向かった。ダムの先の道は一部ダートがあるが,全般に走りやすく,4qほどで集落跡らしき場所に到着した。しかし,ひとまず通過して,行止まりの夜叉ヶ池登山口までクルマを走らせた。

岩谷の先,夜叉ヶ池登山口にある「幽幻伝説 夜叉ヶ池」の碑

# 5-9
クルマを折り返して川向こうの青少年旅行村跡に橋を渡って足を運ぶと,道には草が茂っており,閉鎖されてから時間が経っている様子だった。集落跡はやや下手の川向こう。橋に「立入禁止」の札があったので,「お邪魔します」とご挨拶をして先に進むと,往時からの土蔵が迎えてくれた。
堺東小学校岩谷分校は,へき地等級3級,児童数6名,大正13年開校,昭和39年閉校。「福井県今庄町誌」と「角川日本地名大辞典」を組みあわせた情報によると,菅谷,大河内,芋ヶ平とともに木地師由来の製炭を生業とする山村で,「毎年8戸で1万俵以上の炭を生産した」とのこと。岩谷の戸数は8戸58名(M.24),6戸35名(S.30)。三八豪雪の翌年(昭和39年)には多くの住民が村を去り,無住になったのは昭和50年とのこと。

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岩谷の地内には夜叉ケ池青少年旅行村があった                   数戸の土蔵や作業小屋が残る岩谷集落跡

# 5-10
岩谷集落跡にはいくつか家屋が見当たったが,立入禁止の札のこともあったので,さらりと見るだけにした。道場兼用の分校跡が,集落跡のいちばん奥にあったというのは,後の調べ物でわかったことだ。あと,岩谷では,集落のやや下手に故陸軍兵長と記されたお墓が見当たった。
岩谷の後は,広野ダム堤体まで戻って,日野川本流沿いにある廃村 大河内を目指した。途中,ダム湖沿いには二ツ屋(Futatsuya)という集落の離村記念碑が建っていた。二ツ屋は広野ダム建設に伴ってできた戸数7戸(S.40)の廃村で,全戸離村は昭和46年。離村記念碑が見当たると碑文を読んでみるのはいつものことで,クルマを停めて一服した。

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        広野ダム湖沿いに建つ二ツ屋の離村記念碑               道に迷って大河内には行けずじまい    .

# 5-11
「二ツ屋の先は一本道」と思って気楽にクルマを走らせていると,坂は急になってきて,鎖で閉ざされた先の道は草が茂ったダートになっていた。「大河内はダートの先」と思って鎖を外してクルマを先に進めたが,これは見当違い。旅の後の調べで,どうやら鈴谷川沿いの道を選んだようだった。
「おそらくここが大河内への分岐点」という心当たりがある。かくして大河内はリベンジの対象となり,旧今庄町は訪問の対象のままとなった。
広野ダムまで戻って,長い階段がある白山神社にご挨拶をして,時計を見ると午後5時ちょうど。まっすぐ武生に戻るべき時間だが,陽が落ちるまでは探索を続けたくなるのは自然の流れだ。堺東小学校跡の二宮金次郎像の様子を見るためクルマを停めた時には,芋ヶ平に行くことを決めていた。

# 5-12
再び今庄町中心部をかすめ,燧橋から山に向かう田倉川沿いの道は,日野川沿いの道と同じく80km/hが出せるほどの高規格だ。いつの頃から,クルマもまばらな田舎道まで高規格になったのだろうか。このような移動は,岩谷や芋ヶ平に住民が居た頃は,ありえない動きのはずだ。
手前の集落 瀬戸から,狭くなった舗装道を4qほど走り,芋ヶ平に到着したのは夕方5時45分。まだ十分に陽差しは残っていた。
宅良小学校芋ヶ平分校は,へき地等級2級,児童数18名,明治35年開校,昭和42年休校,昭和47年閉校。五万地形図(S.42,冠山)に記された文マークから,集落跡入口の小高くて狭い平地を分校跡と考えた。芋ヶ平の戸数は26戸135名(S.30),2戸2名(S.50)。無住化したのは昭和55年とのこと。

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「蓮如の里 芋ヶ平」と記された大きな標柱                        芋ヶ平・蓮如上人と村人の石像  .

# 5-13
芋ヶ平は,蓮如上人が難を逃れて訪ねたという史跡がある場所でもある。集落跡入口付近には「蓮如上人御舊跡」という石碑,少し先には「蓮如の里 芋ヶ平」と記された大きな標柱があり,標柱の周辺は公園のように整えられていたが,ここでも誰にも出会わなかった。
芋ヶ平の神社跡は,探索後に「村影弥太郎の集落紀行」Webを見て気がついた。事前の情報収集は,できるだけしっかりしておきたいところだ。
探索後,宅良小学校跡からレンタカー店に連絡したのは夕方6時半頃。「今,宅良です」と話すと,店主は明らかにムッとしていた。急ぐため,今庄IC−武生ICを北陸道に乗って,夜8時終業のレンタカー店に戻ったのは夜7時15分。この旅で「レンタカーは終業時間まで借りるべき」という教訓ができた。

(追記1) 堺小学校跡と堺東小学校跡の二宮金次郎像を並べて紹介する。旅先の廃校でニノキン像を探すのもまた楽しい。

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(追記2) 大河内行きのリベンジは,1年3か月後(平成26年10月4日(土))に果たした。



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