山中にラジオが響く飛騨の廃村

山中にラジオが響く飛騨の廃村 岐阜県高山市大原

廃村 大原(おおはら)には,冬季分校跡の校舎が残っていた



2013/10/12 高山市(旧上宝村)大原

# 7-1
「廃村全県踏破」の達成後初めてとなる旅は,平成25年10月,飛騨・富山・上越方面,3泊4日で17か所(うち新規15か所)の廃村をBAJA(平成2年から乗っている250ccのオフロードバイク)でめぐることになった。予定の内訳は,飛騨5か所(うち新規3か所),富山9か所,上越3か所。計15か所の新規にまわることができたら,「廃村千選」年間51か所新規訪問となり,自己ベストを更新できる(従来は平成21年の年間50か所)。
最初に目指すことになったのは,岐阜県高山市(旧上宝村)の農山村の廃村 大原(Oohara)だ。この日の宿泊は飛騨神岡の旅館「向月荘」。浦和から神岡には中央道,安房峠経由で向かうので,立ち寄りやすくて実態がわからない大原を選ぶことになった。

# 7-2
「角川地名大辞典」には,「大字鼠餅(Nezumochi)の本村,蓑谷,大原は,昭和50年前後に廃絶した」と記されているが,その他,これといった情報は見出だせなかった。情報が薄いほうが興味が湧くというのは,天邪鬼ならではかもしれないが,このところ,その指向性は強くなってきている。
ツーリング1日目(10月12日(土)),浦和の家出発は朝8時半。空は晴れており,フェーン現象で各所の最高気温は30℃超えと真夏並み。八王子料金所から相模湖ICあたりの渋滞の中央道は,長袖のシャツ1枚で走っていた。BAJAでの廃村めぐりは2年ぶり。ガス欠の心配から勝沼ICで一時下道に出たのはご愛嬌。ほぼ満車の諏訪湖SAで昼食休みをとって,松本ICで高速を降りたのは午後1時10分だった。

諏訪湖SA(下り線)から諏訪湖を望む


# 7-3
上高地,安房峠に向かうR.158はクルマの流れでいっぱい。「早くこんな道脱出したいな」と思いながら古くて小さなトンネルが多い山間の道を走ると,標高が上がるとともに気温はぐんぐん下がってきた。上高地行きシャトルバスの発着点沢渡(標高約1000m)まで走って入った足湯では,気持ちの良さと人の賑わいが頭に刻まれた。
手元のツーリングマップ(平成2年発行)には,「上高地への道は7月〜9月は一般車両進入禁止」と書かれているが,今は通年一般車両進入禁止の様子だ。廃村という目指すべき場所が全国各地に見つかり,かつリゾートは苦手な私が上高地に行くことは,おそらくこの先もないことだろう。

# 7-4
安房峠道路のトンネルを越えて岐阜県旧上宝村に入り,神岡へ向かうR.471が分岐する平湯温泉の標高は1300m。カッパまで出す重装備になりながら,「やっとクルマの列とはおさらばかな」と思いきや,旧上宝村は奥飛騨温泉郷をかかえる観光地。R.471もクルマは多く,走りは快適とはいえない。
長倉でR.471と分かれ,県道に入ると空気は一変。ようやく山の穏やかな雰囲気に包まれホッとひと息。大原がある大字鼠餅で,現在住まれる方が居るのは高原川に近い古橋のみ。古橋から山に入った県道沿いの高原川の支流 沢入谷(そうれだに)には,ナメと呼ばれる一枚岩が随所にあって,バイクを停めて様子を見ると,川底は滑らかなコンクリートで固めたみたいになっていた。

滑らかなコンクリートのような沢入谷の川底

# 7-5
手前の廃村 蓑谷から大原に向かうダートに入ってすぐ,川釣りの方(男性)の姿が見えたので,ご挨拶をしてお話をうかがうと,蓑谷出身のこの方は時折休日にこの辺りの山や川で遊ぶそうだ。大原についてお話をうかがうと「今はなにもない。クマが出るから行かないほうがよい」とのお返事だった。
しかし,行かないと話が始まらないので,お礼を言って4q先の大原を目指すと,道中はカモシカが走る姿が見られるほどの山の中。それでもキノコ取りらしい地域の方のクルマと出会うことができた。中に2人の年配の女性が居たので,ご挨拶をして「大原に冬季分校があったということで,訪ねてきたのですが」とお話をすると,「分校は,傷んでいるが残っている」とお返事をいただいた。これは意外な展開だ。

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一目でそれとわかった大原冬季分校跡の建物                    意外な展開での発見は,とても嬉しいものです

# 7-6
長倉小学校(のち本郷小学校)大原冬季分校は,へき地等級3級,児童数9名(S.34),大正元年開校,昭和44年閉校。五万地形図(船津,S.37)には神社マークはあるが,文マークは記されていない。「どんな様子だろう」とわくわくしながらバイクを走らせると,道の終わりの手前右手に一目で分校の跡とわかる小さな赤錆びた屋根の木造家屋が見当たった。意外な展開での発見は,とても嬉しいものだ。
道の終わりにバイクを停めると,焚き火の煙が上がっていて,1軒残る家屋からは大音量でラジオがかかっていた。何とも妙な雰囲気の中,まず分校跡の建物をしっかり観察して,家屋は後回しにして,反対方向にある古びた木の鳥居がある神社にお参りに出かけた。

# 7-7
ラジオがかかっている家屋にも足を運ぶと,人の姿はなく,スピーカーは家の外に据え付けられていた。どうやらこのラジオは,サルやシカが家や畑に近づかないように鳴らしているもののようだ。よく耳を傾けてみると,北海道池田町からの中継でドリカムが出演しているようだった。
大原を探索しているとき,東京の友人より携帯にメールが入り,三線を教えていただいた葛飾区の沖縄居酒屋「かりゆし」のマスターが心筋梗塞でこの日亡くなられたことを知った。大音量でラジオがかかる無人の廃村で,現実の出来事とは思えない急な連絡が入ったことで,「大原は混沌とした廃村」という記憶が強く頭に刻まれた。振り返れば,山奥の廃村にメールが入ったこと自体が不思議なことだ。

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大原・スピーカーが家の外に据え付けられた家屋                    古びた木の鳥居がある神社も残っていた    .

# 7-8
秋の日暮れは早く,大原を出発した夕方4時25分にはすっかり日は傾き,旧上宝村中心部を経て神岡の宿「向月荘」に着いた5時40分には周りはすっかり暗くなっていた。今年初めて遠乗りをしたBAJAのこの日の走行距離は348km。東名に乗っていたら,名古屋ICぐらいまでの距離を走った。
飛騨神岡はいわずと知れた大きな鉱山町だが,今は落ち着いた佇まいの山間の街になっている。昭和の雰囲気が残る「向月荘」では,平成21年11月の名古屋以来4年ぶりに愛知県在住の水上さん夫妻と合流。今回はお二人もそれぞれのバイクだ。この日の夜は宿から歩いて5分ほどの「けやき」という店でとんちゃん(牛モツと野菜を炒める神岡のソールフードと呼ばれるスタミナ料理)を食べながら,再会を祝して乾杯した。

(追記) 平成25年は,10月12日に三線を教えていただいた「かりゆし」のマスター(島 保さん:享年58歳),7月11日に廃村の盟友 廃屋の猫さん(口岩宜徳さん:享年51歳)と,趣味の世界で大切な方々の訃報が続きました。
 お二人とも私と同じ50代。まだまだ先があったはずなのに,とても悔しく思います。

 人の命は限りがあるもの。日々与えられた時に感謝していきたいものです。島 保さん,口岩宜徳さん,ご冥福をお祈りいたします。



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