2万2千歩 友と刻んだ飛騨の廃村

2万2千歩 友と刻んだ飛騨の廃村 岐阜県飛騨市栃洞,跡津川,_______
___________________________________________________________佐古,大津山

廃村 大津山(おおつやま)に向かう道中,覆道には窓があった



2013/10/13 飛騨市(旧神岡町)栃洞,跡津川,佐古,大津山
[ 富山市(旧細入村)加賀沢 ]

# 8-1
平成25年10月,飛騨・富山・上越ツーリング2日目(10月13日(日)),起床は朝6時半頃,天気は快晴。山間の町 飛騨神岡の朝はよく冷えていて,朝食時には石油ストーブがついていた。神岡には「廃村千選」のポイントが4か所あって,この日はこれらを一日ががりで探索する予定を立てた。昨夜の酔っぱらい電話の成果で,探索には愛知県在住の佐合さんも加わることになった。佐合さんに会うのも,平成21年11月の名古屋以来4年ぶりだ。
まず,神岡市街から比較的近い鉱山関係の廃村 栃洞(Tochibora)を目指した。平成21年2月のCBCのラジオロケでは,神社や学校跡がある前平には行けなかったので,今回はそのリベンジだ。

# 8-2
「向月荘」の女将さんによると,前回「お戻りください」となった日油 神岡出張所では,爆薬を製造しているとのこと。佐合さんから入った電話では,「栃洞はパトロールが厳しいからお気をつけて」という声があがった。
神岡鉱山は,養老年間(717〜723年)からの歴史がある鉱山で,主要鉱物は亜鉛,鉛。明治期以後は三井財閥によって近代的技術が導入された。高度成長期を迎え,全国の金属鉱山が衰退する中,大規模で採掘技術が高い神岡鉱山は永らく稼働したが,平成13年6月に鉱石採掘を中止。現在跡地には研究施設スーパーカミオカンデや廃バッテリーからの鉛リサイクル施設などがあって,採掘場跡をデータセンターとして活用する構想もあると言われている。

「向月荘」の駐車場に並ぶ3台のバイク(CBR,DUCATI,BAJA)

# 8-3
宿出発は午前8時45分。CBR1100,DUCATI899,BAJA(250cc)の3台のバイクで,神岡市街(標高400m)から山を目指して上り坂の県道を進むと,右手に神岡鉱業の事務所や堆積池などの鉱山施設が見えてきた。手前の集落 和佐保を過ぎて1kmほど,火の見やぐらと社宅跡が視界に入り,南平に到着した。
栃洞小学校は,へき地等級無級,児童数842名(S.34),明治29年開校,昭和58年閉校。五万地形図(有峰湖,S.46)には標高870mの高所に,大きな鉱山町があった様子が記されている。栃洞は神岡鉱山の社有地で,各所に「部外者立入禁止」という看板が立っている。できればパトロールの方には出会いたくないので,探索は短時間,道から深入りはしないことを原則として進めることにした。

火の見やぐらと社宅跡が視界に入り,南平到着

# 8-4
鉱山神社の入口付近にバイクを停めて,学校跡に向かって歩くと,まず左手に「栃洞非常部第一班器具庫」があって,その裏手にはRC造二階建ての保育所跡が見られた。栃洞保育所は,昭和61年まで開園していたとのこと。鉱山集落が無住となったのは,平成4年と言われている。
「この辺に信用金庫,対面に郵便局があったはずなんですよ」などと話しながら,住宅地図のコピーを片手に先へと歩くと,ブルーシートが掛けられたたくさんの廃バッテリーが置かれた場所に着き,無事学校跡まで到達した。学校跡地はすべて舗装されていて,旗掲揚ポールのそばには「栃洞学校碑」という閉校記念碑が建っていた。また,裏手には「銀嶺会館」という福利厚生施設の大きな建物が残っていた。

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栃洞学校碑(閉校記念碑)と銀嶺会館跡                         理容室跡と鉱山労組の事務所跡   .

# 8-5
「この学校を卒業された方は,このような緊張感を伴いながら跡地に行っているのでしょうか」という水上みなみさんの声には,「悪さをしなかったら,問題はないはずですけど・・・」と,中途半端な返事をした。さらに鉱山労組の事務所跡,理容室跡,栃洞坑入口あたりまで歩いていったが,選鉱場跡や鉱員アパート跡に近づくことはなかった。
住宅地図に「栃洞学校碑 駐車場」と記された場所には,碑の台座が残されていた。「なぜ,碑は移転したんでしょうね」とか話しながら,台座を囲んで3人の集合写真を撮った。栃洞の鉱山集落跡,鉱山施設跡はたいへん広く,短時間のつもりの探索でも1時間15分かかった。

# 8-6
栃洞に続いては,農山村の廃村 跡津川(Atotsugawa)を目指した。平成21年2月のラジオロケでは,雪の中,アナウンサーの方と探索して,1軒だけ住まれる家のおばあさんとお話をしたものだ。オンエアでは,跡津川ではなく「飛騨の山奥のとある場所」とされていた。
南平からは水上一歩さんのCBR1100に乗って,神岡鉄道 奥飛騨温泉口駅跡に立ち寄り,クルマ(スズキ・エスクード)で来られた佐合さんと合流。R.41を走る分にはリッターバイクは気持ちいいけれど,路面が荒れた枝道に入ると同時に緊張感が走る。「この辺で一服したいな」と思ったあたりで家々が視界に入り,跡津川に到着した。

跡津川・緑に包まれた常盤神社

# 8-7
漆山小学校跡津川分校は,へき地等級2級,児童数28名(S.34),明治7年開校,昭和40年閉校。五万地形図(有峰湖,S.46)の文マークは川沿いに記されており,集落との間には20mを超える高低差がある。ロケのときも道を確認したが,それらしきものは見当たらなかった。
住宅地図を確認し「下流から回り込みましょう」と決め,水上さん夫妻が乗ったエスクードとBAJAで現地に向かうと,案の定道はダートだった。
吊り橋がある場所の対面の左手に,それらしい広がりがあって,「学校跡に到着した」と感じた。工事作業の方がいたので「跡津川の分校はここでしょうか」と声をかけたが,ピンと来ない様子だった。草が生えた広がりを探索して見出すことができたのは,往時とは無関係のカメラカバーだけだった。

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ダートの左手に跡津川分校跡らしき広がりがあった            跡津川・神岡鉱業の水力発電所の施設           .

# 8-8
跡津川の家々の中にはクルマが停まっている家もあり,一見では廃村という感じはしない。ロケで訪ねておばあさんと話した家にもクルマが停まっていたので,ご挨拶をして家の方(私よりやや年配の女性)とお話をすると「私のところが跡津川の最後の家になった」とのこと。ロケのときが最後の冬の暮らしだったようだ。また「おばあさんは施設に入ったけど,元気にしている」と知らせていただいた。
分校のことを話題にすると「場所は川沿いで,急な下り坂の道があった」とのこと。帰路に確認したが,はっきりした道跡はわからなかった。このお家でお話をしている間,エスクードは水力発電所の施設が見えるカーブあたりで待っていてくれたようだった。お待たせして申し訳ない。

# 8-9
跡津川に続いて目指したのは,3kmほど奥にある廃村 佐古(Sako)で,ここは初訪問だ。この近距離に2つの分校があったのは,さらに奥に大多和という集落(廃村)があったためと推測している。しかし,後に大津山行き計画があるので,佐古で折り返し,探索ポイントは神社と学校跡に絞った。
漆山小学校佐古分校は,へき地等級3級,児童数16名(S.34),明治41年開校,昭和45年閉校。集落の閉村(冬季無人化)も昭和45年。地形図の文マークは鳥居マークと並んで記されている。神社(津島神社)の少し手前に地域の方(年配のご夫婦)の姿が見えたので,ご挨拶をして分校のことを話題にすると「神社の奥にあるが,何も残っていない」とのこと。お話をした場所では,ご夫婦はギンナンを拾われていた様子だった。

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    佐古分校跡は津島神社の奥にある                        佐古分校跡には,建物の基礎が見られた

# 8-10
津島神社の神様にご挨拶した後,足を運んだ分校跡には,建物の基礎が残っていて,探索すると錆びたミシンが見つかった。地図で見たら同じように見える跡津川と佐古だが,跡津川のほうが立体的で,かつ集落という感じがしたので,昼食休みは跡津川に戻って,常盤神社の参道の階段に座ってとった。秋の日差しの中,久しぶりの仲間と語らいながら食べるパンは,とても美味しかった。
跡津川からは,旧神岡町4つ目のポイント,神岡鉱山の鉱山町跡 大津山(Ootsuyama)へと向かった。地形図には標高820mの高所に鉱山町と軌道があって,軌道の先には「あえん」の添書きがある鉱山のマーク(池ノ山坑)が記されている。小学校の児童数から,最盛期の人口は1000名超と推計した。

# 8-11
大きな鉱山町ということで,道には心配していなかった。しかし,この春にも訪ねたという佐合さんによると「茂住(最寄りの集落)の交番があるところでR.41から枝道に入ると,すぐにダートの林道になって,途中崩落箇所があるのでクルマはここまでで,あと1時間は歩きになる」とのこと。
林道の入口には「通行禁止」の看板があってバリアの柵が置かれていたが,施錠されたゲートではなかった。ただ,林道はリッターバークが走れる雰囲気ではなく,エスクードとBAJAで先を進むと,林道入口から4kmほどで崩落箇所となり,その先は4qほどの山歩きとなった。茂住峠への道の分岐を過ぎると,道は荒れ始め,背丈ほどの草をかき分ける箇所も出てきたが,行く手を阻むほどのものではなかった。

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大津山に続く道は背丈ほどの草が生えていた          火災が起きた集落跡に,一枚残された壁が見られた     .

# 8-12
道中の小さな覆道には窓があり,向かいの山の景色が綺麗に見えた。覆道の少し先,鉱山軌道の始点がある広い平地に到着したのは午後3時15分だった。
大津山鉱山集落の建物は閉山後の火災によって大半が焼けてなくなっていると目にしていたが,平地から下方の藪を見下ろすと,壁が一枚残っていた。古びた鉱山軌道の施設に比べると石垣の上のガードレールは新しく,「閉山後も道は使われていたのかな」と素朴な疑問が湧いた。
廃墟探索だと選鉱場跡や一部残るという鉱員アパート跡を目指すはずだが,廃校廃村探索でいちばんに目指すのは神社と学校跡だ。地形図の文マークは道(進行方向)の左側,集落の上部にあるので,平地からさらに坂を上がっていくと,途中に鉱山神社の鳥居と石碑が見つかった。

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    大津山に残る鉱山神社の鳥居                       学校跡推定地では,石垣と窓枠が見つかった

# 8-13
大津山小学校は,へき地等級2級,児童数209名(S.34),明治43年開校,昭和50年閉校。一つ目のヘアピンカーブを折り返し,二つ目まで行かない右手のほうには草むしている平地があって,探索すると石垣と窓枠が見つかった。秋の日暮れは早く,暗くなるまで(想定時刻は午後5時頃)には林道入口に戻らなければならない。佐合さんから「ここを学校跡としましょう」という声があがって,「そうしましょう」と3人とも納得した。
この年7月11日に亡くなられた盟友 廃屋の猫さんのWeb「旧日本紀行」には,神岡鉱山栃洞鉱,大津山鉱という記事が載っている(平成14年8月付)。共通の友人の水上さん夫妻と「きっと廃猫さんは,茂住駅から林道を歩いてここへ来たんでしょうね」などと話しながら,4人で集合写真を撮った。

鉱山軌道の始点がある広い平地で集合写真を撮る

# 8-14
バイクを使った廃村めぐりにもかかわらず,全般に歩く場面が多かったため,林道入口に戻ったところで見た携帯の万歩計は2万2千歩を数えていた。ツーリング用ブーツの水上さん夫妻はたいへんだったことだろう。ちなみに私は外反母趾矯正用の革靴風スニーカーを履いており,通勤もこの靴だ。
水上さん夫妻とは林道入口で分かれ,佐合さんと県境を越えた富山県旧細入村加賀沢(Kagasawa)を訪ねたときには,あたりは暗くなっていた。
佐合さんとも加賀沢で分かれ,単独に戻って,JR高山線 越中八尾駅の駅前旅館「やしろ館」に到着したのは夜6時45分。一日の走行距離は92km。天気にも仲間にも恵まれて,飛騨5か所(うち神岡4か所)の廃村,無事にめぐることができた。この夜は珍しく,旅先で休肝日をとった。

(追記) 「ウェブマッピングシステム」から見つけ出した昭和52年の大津山の航空写真と,二万五千図(東茂住、S.48)を組み合わせて推定した大津山小学校の所在地は,神社の北側,今は草むしるばかりの場所だった。位置的には,私達が推定した場所は,学校の一部だったのかもしれない。



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