行政村のなごりを求めて備後路へ

行政村のなごりを求めて備後路へ 広島県福山市藤尾堂前

廃村 藤尾堂前(ふじおどうのまえ)には,郵便局跡の家屋が残っていた



2014/2/11 福山市(旧新市町)藤尾堂前

# 10-1
平成26年,2番目の廃校廃村への旅では,市街地の近くにもかかわらず,規模が大きい広島県・備後の農山村の廃村 藤尾堂前(Fujio-dounomae)を目指した。藤尾堂前は,福山駅からクルマで1時間ほどの山間地(標高約450m)にあり,最寄りのバス停(中国バス)板橋から3kmほどの距離にある。
藤尾堂前は,平成25年12月,「村影弥太郎の集落紀行」Webに堂前として取り上げられていることから,その存在を知った。「旧藤尾村役場や学校があった」という記述が気になり調べると,芦品郡藤尾村は昭和34年7月に大部分が新市町に,一部が三和町に編入となった行政村で,堂前はその中心部にある集落ということがわかった。「廃村千選」が定着してきたこの時期,村役場が所在していた廃村を新たに発見するとは,思いもよらずだった。

# 10-2
昭和25年の藤尾村は,222戸・1283名。これに対して新市町藤尾は,89戸・422名(S.43)が53戸・179名(S.60)。さらに福山市藤尾は,20戸・41名(H.24)。今残る家々の多くは,堂前からは離れた川沿いの父尾の戸数と思われる。つまり,旧藤尾村は,行政村の廃村に準ずる存在なのだった。
年末には五万地形図(井原,1965と2001)と二万五千図(金丸,1973)の写しを揃え,大阪への帰省の流れで出かけようと備えていた。
この旅では,東京から実家がある岡山に戻った「ムサシノ工務店」Webの管理者 武部将治さんをお誘いした。武部さんと廃村探索をご一緒するのは,群馬県小串以来,7年7か月ぶり。待ち合わせは「藤尾小学校付近で午後1時頃」と,おおざっぱなものだった。

藤尾・板橋バス停近くにある昔ながらの商店

# 10-3
平成26年2月11日(火・祝)の起床は朝6時頃。堺の実家から,新大阪に出て,さくらに乗って福山駅に到着したのは午前11時1分。賑やかな福山駅前バスターミナルから油木行きの中国バスに乗って,旧藤尾村の一角 板橋に到着したのは午後12時26分。バスの乗客は,私を含めて2〜5名ぐらいだった。
板橋には2軒の現住家屋があり,うち一軒は昔ながらの商店だ。「ご挨拶をしておこう」とお店(小田商店)の中に入ると,店主のおばあさん(小田さん)とお客さんがいて,ストーブを囲んでコーヒーを飲まれていた。「バスで来たのかね」,「はい,藤尾の山間に残る小学校を訪ねてきました」とお話すると,私もコーヒーを飲んで一服することになった。そのうちに武部さんのクルマがお店に到着して,期せずして待ち合わせ成立した。

# 10-4
小田さんから「小学校は,火事で燃えてしもうてのう」というお話があって,不審火があったのかと心配になったが,それは昭和20年代のことで,そのときの建て直しで今も残る校舎が建てられたようだった。気になっていた村役場の所在地を尋ねると,「神社の下のほうにあったが,ずいぶん前につぶれてしもうた」とのこと。昭和の匂いに包まれたお店で,おばあさんからうかがえた藤尾の話は探索のウォーミングアップには最適だった。
オロナミンCを買って,お店を出発したのは午後1時頃。武部さんのクルマに乗って堂前のほうに進むと,やがて路面が雪のため白くなってきたので,梶屋の三差路でクルマを停めて,先は歩くことになった。梶屋まででも十分雪道であり,武部さんのクルマがスタッドレスなのは幸いだった。

藤尾・梶屋の道近くにある廃屋


# 10-5
梶屋には1軒整った家屋があるが,道近くにある2戸は明らかに廃屋だ。気温が低いからか雪は比較的乾いていて,まずまず快適に歩くことができた。
武部さんは私よりもひと回り下の寅年で,付き合いはかれこれ13年目。「ムサシノ工務店」サークルでは「ランズエンド」という廃墟写真集などをコミックマーケットに出展されていて,カメラの腕には定評がある。また,冊子「廃村と過疎の風景」をコミケに結び付けてくれた恩人でもある。
「廃墟探索は久しぶりなんですよ」,「学校以外にもいろいろありそうで,楽しみですね」などと話をしながら歩く雪道の足取りは軽く,梶屋荒神社にご挨拶をして,さらに堂前荒神社にもご挨拶をしたが,車道をそのまま門木方面まで進んでしまい,10分ほどロスをした。

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    藤尾・堂前に着いたことを示す堂前荒神社                         小屋と壊れた車庫が構えていた      .


# 10-6
屋根が見えたところまで戻って,道を確かめると,地形図の郵便局跡方向にゆるやかに下る道があって,小屋と壊れた車庫が手前に構えていた。「もしかすると,郵便局跡の建物が残っているかも」と思いながら先を進むと,紅色の壁がいかにも郵便局という建物が視界に入った。
入口の扉が開いていたので,「お邪魔します」とご挨拶をして中に入ると,正面には1番から3番までの窓口,左隅には公衆電話のスペースがありました。椅子には「新市町有線放送電話番号簿」の本があったり,壁には「郵便貯金,簡易保険をご利用の方々へ」のいう案内や「昭和49年6月20日」という日付,郵政省貯金局長名が入った「賞状」の額があったりで,その空間は時が止まったようだった。窓口の中の部屋には,金庫まで残されていた。

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藤尾郵便局跡・3番窓口                    建物内には公衆電話のスペースがあった  .

# 10-7
郵便局跡の向かいには,大きなトタンをかぶった萱葺き農家の廃屋が残っていた。隙間を覗くとタイル張りの風呂が見られ,屋根の際から見上げるとトタンの奥の束ねられた萱を見ることができた。また,「ウェブマッピングシステム」Webにある1974年の藤尾付近の航空写真を見ると,郵便局付近の家屋の配置はほぼ今のままだった。後に新旧の住宅地図を比較すると,堂前は昭和55年頃に1戸を残すのみとなったようだった。
郵便局跡からは,車道を挟んで反対側,小山の上にある八幡神社へと足を運んだ。途中の明治26年と刻まれたコンクリート製の鳥居で,目的地に着いた気分になったので,二人ともここで折り返した。後日,村影さんのWebを確認すると,整った八幡神社の祠が載っていた。

# 10-8
八幡神社の次は,いよいよ藤尾小学校跡の探索だ。村影さんのWebでは,金網越しの校舎の遠望画像があったが,そこに廃村の匂いはあまり感じられなかった。学校跡の探索を後回しにしたのは,堂前集落が周囲と隔絶された山上近くにあることを実感した後に見てみたかったからだった。
二万五千図(金丸,1973)には,藤尾という大字名があって,中心に文マークと郵便マーク,鳥居マークがある堂前,取り囲むように西門木,中門木,東門木,白曽根,山崎,寺床,津賀,梶屋,山際,板橋,瀬原という地名が散らばっている。これが五万地形図(井原,2001)では,地名は藤尾だけ,中心に文マークと鳥居マークが残されただけになっており,この比較だけでも「どんな様子か,見てみなければ」と思わされた。

藤尾小学校跡には,体育館と校舎が残っていた

# 10-9
車道から枝道に入り,左手に廃屋を見ながら進むと,意外に大きな広がりとともに,金網越しに体育館と2階建て木造モルタル造の校舎が見えてきた。屋根や校庭が白くなっているが,山間とはいえここは山陽,普段は雪が少ない地域のはずだ。
藤尾小学校は,へき地等級1級,児童数130名(S.34),明治11年開校,昭和53年休校,平成12年閉校。最終年度(S.52)の児童数は4名。校庭の左隅にはプレハブ風の建物があり,様子をみると藤尾地区の公民館のようだったが,ずいぶん傷んでいた。後で小田商店のおばあさんに尋ねたところ,「昔はこの場所に中学校(藤尾中学校,昭和35年閉校)の校舎があった」と教えていただいた。

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  左脇に校舎への渡り廊下の入口がある体育館               床板にすき間ができた二階の教室

# 10-10
体育館に入ってみると,荒れてはいたが,新しい机や椅子があって賑やかな印象を受けた。舞台の左脇に渡り廊下の入口があったので,ここから校舎に向かうと,一階廊下の床板は腐って大きく抜けていた。二階に上がって教室を覗くと,床板がしなっていたり,すき間があったりで,危うい印象を受けた。荒れた校舎内部を眺めているうちに,窓から外の光が入るような構図の画像を撮りたくなった。
校舎の正面入口付近は雑木が茂って,その様子はわかりにくいものだったが,夏の草木の茂みの中では埋もれてしまいそうだ。私の眼では規模が大きい学校跡,武部さんの眼にはどのように映っただろう。いつか,武部さん制作の同人誌でも取り上げてもらいたいものだ。

ガレキの中にガラスが入った窓枠が見つかった藤尾村役場跡

# 10-11
探訪の最後には,村役場跡を訪ねた。建物は崩れていたが,雪が積もったガレキの中にガラスが入った窓枠が見つかった。後に住宅地図を調べたところ,昭和58年頃まで公民館として使われていたようだった。また,航空写真を見た分では郵便局よりやや大き目ぐらいの建物のようであった。
帰り道は再び小田商店に立ち寄って,おばあさんに探索の成果を話ししながらストーブに当たって一服した。ホーロー看板にある「ダルマ焼酎」,今は空き瓶をお店の棚に飾っているとのこと。武部さんには福山駅までクルマで送っていただき,散会したのは夕方6時。福山駅から東京駅までの3時間40分は,お酒を飲んでまどろみながら余韻に浸った。出発日(2月8日(土))には積もったらしい浦和の雪は,ほとんど残っていなかった。



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