400か所目は 長崎・音浴博物館

400か所目は 長崎・音浴博物館 長崎県西海市古田開拓,大村市箕島

廃村 古田開拓(ふるたかいたく)の分校跡は,「音浴博物館」になっている



2014/4/29〜5/1 西海市(旧大瀬戸町)古田開拓,大村市箕島
[ 4/29〜30 佐賀県唐津市(旧浜玉町)山瀬 ]

# 13-1
冊子「廃村と過疎の風景」第8集(平成26年12月発行)に掲載する「集落の記憶」で取り上げる集落は,九州・佐賀県唐津市(旧浜玉町)の再生した農山村集落 山瀬(Yamase),長崎県大村市の離島集落 箕島(Mishima),宮崎県西都市の発電所関係の集落 片内(Katauchi)の3か所を候補とした。このうち箕島は現在の長崎空港で,集落跡地(空港内)への立入りは制限されている。
箕島出身者の会(箕島会)の代表の方(大島弘美さん)とのやり取りで「空港内で行われる慰霊祭の日取りは毎年5月1日」とわかったことから,この日を軸に九州へのGWの旅を計画した。煮詰めているうちに,山瀬の取材は難しそうだったので,宿に泊まって一夜過ごすだけとなった。

# 13-2
平成26年GW,九州への5泊6日の旅,初日(4月29日(火祝))から3日目(5月1日(木))は,「集落の記憶」箕島の取材を中心として,西海市(旧大瀬戸町)の戦後開拓集落 古田開拓(Furuta-kaitaku)と山瀬,佐世保市(旧小佐々町)の日本本土最西端の地 神崎鼻に出かける予定を立てた。古田開拓の学校跡は「音浴博物館」という公共施設として使われており,レコードの所蔵は約16万枚。音を目指して行くだけでも面白そうな施設だ。
4月29日,南浦和の自宅出発は朝5時頃。天気は曇。羽田からの飛行機(ソラシドエア)が長崎空港に到着したのは朝8時40分。長崎空港は平成24年4月以来,6回目。「いきなり目的地である箕島に到着した」と思うと,不思議な気分になる。

到着する度に「箕島にやって来た」と思う長崎空港

# 13-3
迎えに来てくれたレンタカー店のマイクロバスで長崎空港を出発。箕島大橋を渡ってすぐのレンタカー店で,軽自動車(ミライース)を借りて,まずは西彼杵半島の山中にある「音浴博物館」を目指した。色はスカイブルーとあるが,青空ではなく曇り空という感じだ。
クルマの運転は今年2回目。大村ICに出るのに失敗して諫早ICまで走ることになり,さらに多良見の分岐で長崎バイパスに入るのに失敗して長崎市街を走ることになった。立て続けに失敗が2つ続いたが,角力灘沿いのR.202を走っているうちにだいぶ落ち着いてきて,池島がよく見える道の駅「夕陽が丘そとめ」で一服。しかし,「音浴博物館 6km」という看板に気がゆるんだためか,雪浦で音浴博物館に向かう道を見逃し,大瀬戸まで走ってしまった。

# 13-4
雪浦から音浴博物館に向かう道はか細いもので,途中,河通ダム,県民の森西ゲートと,行止まりの道を2つも選んでしまった。河通ダムでは「まあいいか」と,少し歩いてつがね落としの滝を見に行った。
何とか古田開拓「音浴博物館」にたどり着いたのは午後12時20分。空港からの道のりは,なかなか遠かった。雪浦小学校開拓分校は,へき地等級2級,児童数43名(S.34),昭和32年開校,昭和51年閉校。分校の校舎は昭和55年から平成7年まで,日本赤十字社大瀬戸寮(ベトナム難民援護施設)として再利用された。その後,平成13年に「音浴博物館」が開設され,今ある建物は平成16年に修復,改築されたものとのこと。

古田開拓・分校の面影を残す「音浴博物館」の建物

# 13-5
「音浴博物館」では,スタッフの方が2名にお客は最初が私を含めて2名,途中から4名。スタッフの高島正和さんの案内で,手回し蓄音機,各時代のレコードプレーヤーで,いろいろな音楽を聞かせていただき過ごすひとときは,とても贅沢なものだった。リスニングルームに置かれているスピーカーには,歴代の逸品と称される名機も含まれているとのこと。首都圏で類似の施設があっても,この雰囲気は成り立たないことだろう。
音浴博物館の創始者 栗原榮一朗さんは,岡山から移り住む際,10トントラック4台分の所蔵品を移送したとのこと。栗原さんは平成17年,57歳の若さで他界されたが,「レコードはその場で聴いてこそ意味がある」という想いは,今もしっかり受け継がれていると感じた。

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「音浴博物館」には約16万枚のレコードがある                    各種スピーカーに囲まれたリスニングルーム

# 13-6
開拓分校の校区は,地内北側の古田,南東側に少し離れた久良木(ともに現戸数1戸)の2か所だが,探索は古田に特化した。高島さんとお話をすると,古田に住まれる1戸は「ごん窯」という窯元の方(林田耕三さん)で,数年前までおばあさんが住まれていたとのこと。
「音浴博物館」で2時間半過ごした後,「ごん窯」に林田さんを訪ねて,廃村探索のことをお話しすると,「面白いものがあるから」と,少し行った山中の猪垣(猪を除けるための石垣)を案内していただいた。おばあさんが住まれていた家は,「ごん窯」と猪垣の間の道沿いに静かに残っていた。江戸期に作られたという猪垣は,西彼杵半島の山中に張り巡らされているもので,谷を越えて連なるその姿は山城を連想させるものだった。

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古田開拓・おばあさんが住まれていた家              谷を越えて連なる江戸期に作られたという猪垣     .

# 13-7
目指していった「音浴博物館」に加えて,現地で知った大規模な猪垣がある古田開拓は,「廃村千選」の累計訪問数400か所目という節目にふさわしい,印象的な廃校廃村だった。
古田開拓からは,パールライン,西九州道,長崎道,厳木多久道路など,有料道路を積極的に使って唐津市(旧相知町)に入り,天徳の湯,見帰りの滝を経由して,山瀬の民宿「どさんこミラファーム」に到着したのは,ほんのり明るさが残る夕方7時。この日の走行距離は230km。食事前に,平成24年4月に訪ねてお世話になったそば処「狐狸庵」のご主人(溝部昭さん)を訪ね,再訪のご挨拶をした。

# 13-8
「どさんこミラファーム」は,平成24年春開業,古民家を改築してできた山暮らしが体験できる民宿で,イヌ,ネコに加えてウマの姿もある。宿主の豊田さん夫妻,ネコ6匹とともにとった夕食では,フジの花のてんぷらがとてもおいしかった。
翌4月30日(水),起床は朝6時頃。天気は曇。箕島会の大島弘美さんとの待ち合わせは,長崎空港そばのサンスパに午後3時。山瀬から長崎空港への移動の間に,日本本土最西端の地 神崎鼻には,立ち寄る予定を立てた。宿での朝食の後,浜玉小学校山瀬分校跡を訪ねたが,滞在は5分ほどとなった。盛りだくさんな行程の中,山瀬の取材は見送りになって,ちょうどよかったかもしれない。

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山瀬・古民家を改築した民宿「どさんこミラファーム」             2年ぶりに訪ねた山瀬分校跡の建物           .

# 13-9
山瀬出発は朝8時半。旧相知町から旧小佐々町までは,県道,R.202,R.498など,一般道をつないでいった。一般道を走ると,ローカルな風景の中,JR筑肥線駒鳴駅,世知原線跡自転車道など,道草したくなるものに遭遇できるので,有料道路よりも俄然よい感じだ。
神崎鼻(こうざきばな)は,本土最北端(宗谷岬),最東端(納沙布岬),最南端(佐多岬)と比べると明らかに知名度が低い。「どんなところだろう」と訪ねると,ここは海岸がある丘を使った公園になっていて,丘の上にはタイル張りの日本本土の地図がありった。静かなこともあり,「訪ねてよかった」と思わせる場所だった。宗谷岬,納沙布岬を訪ねたのは平成元年8月のこと。四半世紀がかりで,日本本土東西南北端を全部踏破できた。

神崎鼻に立つ日本本土最西端の碑

# 13-10
九十九島漁協で「日本本土最西端訪問証明書」をちょうだいして,神崎天主堂,JR大村線南風崎駅,同千綿駅に立ち寄りながら,長崎空港近くのレンタカー店に戻り着いたのは午後2時35分。この日の走行距離は153km。有料道路を使ったのは佐世保市街を抜ける西九州道だけだった。
「集落の記憶」箕島の取材では,移転交渉の際,島民代表として知事と交渉された大島誠さん,山口実さんから,往時のお話をうかがった。
この日の宿は,大村市街の老舗宿「出雲屋旅館」。往時の写真や資料をたくさん預かったこともあり,夜の食事はR.34沿いの中華屋でビールも飲まずに済ませ,宿で記事のたたき台を書いて,翌日の慰霊祭に備えた。

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  箕島・長崎空港の敷地内に建つ「法界萬霊碑」                  箕島・毎年5月1日に行われる慰霊祭に取材参加する

# 13-11
翌5月1日(木),起床は朝6時頃。天気は晴。宿に迎えに来てくれた大島弘美さん,誠さんは正装をしている。「空港のゲートから(慰霊碑がある)花文字山まで歩いていく」という誠さんの声を聞き,私も「歩いて行きたい」と手を挙げ,2kmほどの道のりを二人で歩いた。
箕島会・法界萬霊慰霊会は,午前11時開始。厳かな空気に包まれた会に一見の私が取材参加できたことは,とてもありがたいことだった。会の後は,バスで前舟津の「箕島記念館」と,玖島の大村市役所を訪ねた。市役所では,窓口になっていただいた秘書広報課の松尾直記さんにご挨拶した。
JR大村駅出発は午後2時56分。諫早駅で特急「かもめ」,博多駅で特急「ソニック」に乗り換えて,この日の宿がある日豊線佐伯駅を目指した。



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