400か所超えをめざして日向路へ

400か所超えをめざして日向路へ 宮崎県西都市久野,片内,吹山

廃村 吹山(ふきやま)には,分校校舎の基礎が残っていた



2014/5/2〜3 西都市久野,片内,吹山
[ 5/2 西都市吐合 ]

# 14-1
平成26年GW,九州への5泊6日の旅,4日目(5月2日(金))から5日目(5月3日(土祝))にかけては,宮崎県西都市の廃村をめぐる計画となった。宿は昨夏に引き続き,片内(Katauchi)の農家民宿「かたすみ」,いちばんの目的は「集落の記憶」片内の取材だ。
これに加えて初訪の廃村 久野(Kuno),昨夏訪ねることができなかった東陵中学校跡,猿ノ囲(Sarunokakoi)の片内分校跡,吹山(Fukiyama)林業集落跡の分校跡に足を運ぶ予定を立てた。調整の結果,昨夏に引き続き,大分県在住のかもしかさんに同行していただくことになった。
埼玉・浦和からはとても遠い日向路だが,「こんなことをしたい」とイメージできると,意外と簡単に行けるものだ。

# 14-2
5月2日(金),日豊線佐伯駅近くのビジネスホテル出発は朝6時頃。天気は晴。1日3往復の佐伯発延岡行きのローカル気動車(1両編成)と延岡発西都城行きでローカル電車(2両編成)を乗り継いで,高鍋到着は朝8時42分。延岡−高鍋間は,高校生や通勤の方などで混んでいた。高鍋駅構内の土産物のお店で朝食を調達してから宮崎交通のローカルバスに乗車。公共交通機関を使った旅は「遠くに来た」感じがしてよいものだ。
西都バスターミナルでかもしかさんと合流したのは朝9時45分。かもしかさんのクルマに便乗して,まず目指した久野は,西都市街から約13km,自転車でも行ける距離だ。しかし,山へ向かう道はか細く,現王屋敷(久野の2km手前,2戸が現住)では「よくこの山中に家があるなあ」と思えた。

2戸の整った家屋が並んでいる久野集落跡

# 14-3
やがて空が広くなって,車道の終点,久野に到着したのは午前10時25分。2戸の整った家屋が並んでいて,離村からそれほど経たないことが伺えた。
穂北小学校久野分校は,へき地等級3級,児童数37名(S.34),明治29年開校,昭和41年閉校。分校跡は,車道より一段高い場所にあって,ツツジが咲く平地の片隅には,「偲 母校」と刻まれた分校跡の碑が建っていた。碑の銘文を読むと「昭和37年電灯設置,昭和38年テレビ設置,過疎減少により生徒数減少,昭和40年中学校閉校,電話設置,昭和41年小学校閉校」と,町の暮らしが入ってきた頃,過疎が進んだことがよくわかった。
碑の建立は昭和57年。銘文には「母校の会である久野会一同が建立した」との旨が刻まれていた。

....

 久野・分校跡の平地の片隅には碑が建っていた               「偲 母校」と刻まれた久野分校跡の碑は昭和57年建立

# 14-4
1時間ほどの探索の間,地域の方には出会わなかったが,分校跡の少し先にはトタンで囲われた祠があって,飾りがなされていた。記念すべき400か所超え(累計訪問数401か所目)の廃校廃村は,久野となった。
久野からは,片内「かたすみ」に立ち寄って昼食休みをとり,宿主の佐藤純一さんと話して「集落の記憶」の取材スケジュールを確認し,午後一番は片内の児童が通った中学校である東陵中学校跡を目指した。吐合(Hakiai)の岩井谷小学校跡からクルマが通れる道を1.5kmほど行った山の尾根にあるが,小学校跡のすぐそばには錠が施された鎖があったので,クルマを停めて,先の道はかもしかさんと二人で歩いていった。

# 14-5
25分ほど歩くと,しっかりした門柱が構えていて,門をくぐるとすっきりした校庭と落ち着いた風情の校舎(木造と鉄骨造)と体育館が建っていた。
東陵中学校は,へき地等級1級,児童数70名(S.34),昭和22年開校,昭和62年閉校。片内地区でも民家を間借りして三納中学校片内分校が設立されたが,4qほどと距離が近かったことから,昭和24年には村境を越えた併合が行われている(片内は旧三納村,吐合は旧東米良村)。
同じく尾根の上にある片内小学校(昭和41年閉校)には車道は通じなかったが,東陵中学校には昭和50年に車道が通じた。それまでは,先生も生徒も十五番というバス停から600mの山道を歩いて通ったというから驚くべきことだ。

....

東陵中学校跡は,麓から歩いて25分の尾根にある(かもしかさん撮影)           東陵中学校の教室には往時の机が残されていた      .

# 14-6
校舎にはいろいろなものが残っており,中でも「1982 東中」と校庭に文字がある航空写真のパネルは印象的だった。「かたすみ」の佐藤さんは昭和45年の東陵中学校卒業生で,「このGWには還暦祝いの会を中学校跡で行う」と言われていた。
東陵中学校跡からは,片内を語るには欠かせない猿ノ囲の片内分校跡を目指した。猿ノ囲までは「かたすみ」から山道を歩くと3qほどだが,クルマだと,一度西都市街(穂北)に出て,三納,長谷観音を経由して行かねばならず,吐合からだと35kmほどの距離がある。長谷観音を過ぎてからの車道は整ってはいるが,碑の位置が分からないので,地形図とにらめっこしながら悪戦苦闘した。

....

    猿ノ囲・分校跡の碑は林道の脇に立っていた                 片内分校跡の碑は平成4年建立

# 14-7
折登林道の分岐を過ぎてしばらく走ると,道の左手に片内分校跡の碑が見つかって,ホッとひと息。碑には「三納小学校片内分校跡」「明治35年開設 三納小学校創立90周年を記念して之を建てる 1992年」と刻まれていたが,いつまで猿ノ囲にあったのかははっきりしなかった。碑の周囲には2か所ほど平地があったが,道の工事でできた残土が盛られているらしく,集落があったという雰囲気は皆無だった。
車道沿いで往時の雰囲気が感じられたものは,折登林道の分岐よりもやや長谷観音寄り,「喜右衛門 おさよ 比翼塚」の看板があるお地蔵さんぐらいだった。歴史に詳しいかもしかさんから「比翼塚とは,愛し合って亡くなった男女を一緒に葬ったもの」と教えていただいた。

# 14-8
「かたすみ」に戻ったのは夕方5時50分。ほどなく一ツ瀬発電所周辺の片内にもう1軒住まれる鈴木憲照さん夫妻のクルマが到着した。「どのように進めようかな」と思った取材だが,鈴木さんから「思い出の片内分校の足跡」という冊子が,佐藤さんから「私の古里 片内」という冊子が手渡され,目からウロコの思いをした。冊子の著者の外山和義さんは,埼玉県松伏町在住とのこと。浦和在住の私にとっては嬉しい偶然だ。
「かたすみ」があるのは本流瀬,鈴木さんが住まれるのが内平,地形図の上片内は尾之地(現住1戸),下片内は湯之内(無住)など,見当をつけながら進める取材はスムーズなものだった。鈴木さんが帰られ,お酒が入ってからは,佐藤さん,かもしかさんとまったりとした夜を過ごした。

....

 本流瀬・片内小学校跡は,麓から歩いて15分の尾根にある           片内小学校跡の碑は昭和53年建立 .

# 14-9
翌5月3日(土祝),起床は朝6時頃。天気は晴。朝一番に「かたすみ」の裏山の尾根にある片内小学校跡まで,門柱と跡地を目指して単独で山道を歩いた。
片内小学校は,へき地等級1級,児童数53名(S.34)。この取材で,猿ノ囲から本流瀬への移転時期は,昭和24年だったことがわかった。
佐藤さんの見送りを受けて「かたすみ」を出発したのは朝9時少し過ぎ。この日は,かもしかさんの主目的,吹山営林事業集落の分校跡を目指した。西都在住のかもしかさんの山仲間が,穂北から板子川沿いの林道の途中まで付き合ってくれた。山仲間と分かれた後は,昨夏も訪ねた「三納小学校吹山分校跡」の碑に立ち寄った。目指す集落跡・分校跡は,碑から高低差220mの谷底である。

....

林道の中,塚の上に立つ吹山分校跡の碑は平成4年建立                  荒れ放題の林道跡を少しずつ進む      .

# 14-10
三差路にクルマを停めて,一見クルマでも行けそうな林道跡を歩きはじめたところ,ヘヤピンカーブからすぐの場所に崩落箇所があって,その先は山歩きの領域になった。沢がある部分の道は完全に途切れていて,単独だったら諦めていたに違いない。
歩き始めて1時間20分ほど,およそ2kmで,道が南川の流れに近づき,吹山営林集落跡に到着したのは正午頃。まず見つかったのは大きな建物の基礎。そこから川の方向に歩くと,書籍「ここに学校があった」の吹山分校の記事に載っているプールが見つかった。位置関係から見て,大きな建物の基礎は分校の校舎に違いない様子だ。さらに先を進むと,林用軌道の跡が見つかり,南川を渡る地点では,両岸に鉄橋の一部が残っていた。

....

尾根から1時間20分歩いた吹山分校跡にはプールが残っていた          吹山集落跡では,林用軌道の鉄橋の一部が残っていた   .

# 14-11
三納小学校吹山分校は,昭和22年開校,へき地等級4級,児童数19名(S.34),昭和42年閉校。川べりにプール,二段目に校庭や校舎があったとすると,三段目に林用軌道,四段目に住宅という感じで,山中とは思えないほどの広がりがあって,住宅の基礎も多数見つけることができた。吹山の探索は,昼食休みを含めて2時間。往復の林道跡歩きを加えると4時間半かかったが,時間を費やすにふさわしい歯ごたえがあった。
かもしかさんとは高鍋駅で分かれ,宮崎駅まで特急「にちりん」,隼人駅まで特急「きりしま」と乗り継いだ。さらにローカル気動車と乗り継いて,この日の宿「西郷どん湯」の最寄駅 肥薩線日当山駅に到着したのは午後7時45分。駅の近くではホタルが見られた。

(追記) 「集落の記憶」片内編は,平成26年5月31日(土),浦和から松伏町までバイクを走らせ外山和義さんとお会いすることで,完成に漕ぎつけた。



「廃村と過疎の風景(12)」ホーム
inserted by FC2 system