村跡を消すかのような日南の廃村

村跡を消すかのような日南の廃村 宮崎県串間市新谷,_________________
______________________________________________日南市槻之河内,板谷

廃村 板谷(いたや)には,比較的新しい神社が建っていた



2014/5/4 串間市新谷,日南市(旧北郷町)槻之河内,板谷

# 15-1
平成26年GW,九州への5泊6日の旅,最終日(5月4日(日))は,宮崎県最南部の廃村,新谷(Shintani),槻之河内(Tsukinokawachi),板谷(Itaya)をめぐる計画となった。事前の調べて比較的訪ねやすそうだったので,さらっとした探索を想定して,鹿児島空港には午後3時頃に戻るスケジュールを組んだ。
前泊の日当山温泉(鹿児島県)の宿「西郷どん湯」到着は午後8時。ひとっ風呂浴びた後,前回(平成25年8月)に続いて足を運んだ居酒屋「蛍」では,お店の方が覚えてくれていて,鹿児島ゆかりの「港町ブルース」を唄ったりしながら,賑やかな夜を過ごした。

# 15-2
5月4日(日),起床は朝6時頃。天気は快晴。ひとっ風呂浴びた後,鹿児島県在住のむっちーさんと合流したのは朝7時30分。昨夏に引き続きむっちーさんのクルマに便乗して,まず目指した串間市の新谷営林事業集落跡は,都城市街から約32km。鹿児島と宮崎の県境をかすめて,山側から訪ねた。
五万地形図(末吉,S.45)には,心当たりの場所に「新谷」の地名も文マークも記されていない。書籍「ここに学校があった」(以下「学校」と略す)の新谷分校の記事には,往時の分校の写真が3枚,標柱が立つ跡地の写真が載っている。また,平成18年夏に愛知県在住の水上さん夫妻からいただいた探訪記「宮崎最南端の幻の分校跡を訪ねて」には,「青い屋根の分校跡らしき建物」が登場する。探索は,これらを参考として開始した。

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新谷分校跡推定地の地形は大きく変わっていた                山の稜線から「ここが分校跡だろう」と結論づける

# 15-3
赤池小学校新谷分校は,へき地等級2級,児童数32名(S.34),昭和24年開校,昭和41年閉校。まず「学校」掲載の簡単な地図から,分校跡は「車道に架かる2つの橋よりも少し上手にあった」と判断。心当たりの場所にはわずかな平地があるだけだった。しかし,往時とは道筋が大きく変わっている中,「学校」掲載の往時の写真の山の稜線が平地付近から見たものと重なったため,むっちーさんと話し合い「ここが分校跡だろう」と結論づけた。
新谷の探索は30分ほどで,地域の方には出会わなかった。「標柱が立つ跡地」は特定できず,「青い屋根の分校跡らしき建物」も見つけられずだったが,深追いはせず,先を急いた。往時とは道筋が大きく変わっていて,何も残っていない新谷だったが,その謎解きはとても面白かった。

# 15-4
新谷から槻之河内までは,R.222に戻って日南市酒谷を通るルートで向かった。串間,日南というと,海岸沿いの町のイメージが強いが,今回は海沿いには向かわなかった。広渡ダムを過ぎて少し走ると,目印のレイクサイド公園に到着。大きなプールがあって,夏場は多くの方で賑わう様子だ。
レイクサイド公園の先の道は急に頼りなくなり,舗装道とダートの境目がある三差路には「槻之河内集落学校想いの地」という木柱が立っていた。柱の裏に「北郷町 夢づくり活動助成事業 宮崎南部森林管理署 槻之河内ふるさと会 平成15年建立」とあることから,往時の住民の方の会があることがわかった。槻之河内営林事業集落跡は,日南市街(飫肥)から約23km。二万五千図(坂元,S.43)には「槻の河内」という地名はあるが,文マークは記されていない。

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         槻之河内の手前には,レイクサイド公園がある         三差路に立つ「槻之河内集落学校想いの地」の木柱

# 15-5
板谷小学校槻之河内分校は,へき地等級1級,児童数70名(S.34),昭和19年開校,昭和43年閉校。「学校」の槻之河内分校の記事には,往時の分校の写真が2枚,門柱,往時のトーテムポール,標柱の写真が載っている。訪ねてみると,分校跡は木柱から細い小道を上がった場所にあって,古びたコンクリ階段の上には門柱と新しい石碑が建っていた。また,根元が朽ちた標柱が門柱に立てかけられていた。
新しい石碑には「北郷町教育委員会 ふるさと会 平成21年建立」と記されており,住民の方の会は活発がことが伺えた。集落跡を見下ろせる分校跡の平地では,レンガ造りの焼却炉のようなものが見当たった。

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古びたコンクリ階段と門柱が往時の匂いを醸し出す                「槻之河内分校跡地」と刻まれた新しい碑があった .


# 15-6
槻之河内の探索は30分ほど,レイクサイド公園にはわずかな人影があったが,地域の方には出会わなかった。ふと「信州あたりでは山菜採りで山間が賑わって,地域の方には出会いやすい季節だなあ」と思いついた。南九州では,春休みぐらいが旬なのだろうか。
日南市街から広渡ダム,板谷,矢立トンネルを経由して都城市街へと続く県道は,手元のツーリングマップ(平成6年発行)には「山里探索向き」と記されている。しかし,矢立トンネルが新しいものになって,前後の道すじが変わっているなど,改良が進んでおり,まずまずの交通量はあった。
槻之河内から板谷農山村集落跡までは4kmほど。二万五千図(坂元,S.43)には「板谷」という地名とともに,文マークがしっかりと記されている。

板谷小学校跡の荒れた平地には,往時の匂いは感じられなかった

# 15-7
板谷小学校は,へき地等級2級,児童数75名(S.34),明治40年開校,昭和44年閉校。「学校」の記事には,往時の学校の写真が3枚,現状と標柱の写真が載っている。しかし,県道から少し入った心当たりの場所を訪ねても,荒れた平地があるだけで,気配は感じられなかった。
むっちーさん持参の道路地図には,地形図にはない鳥居マークがあったので,訪ねると整っているがどこか頼りなさげな神社が建っていた。神社近くの地形図に記された集落を訪ねると,家屋の敷地と思われる広がりはあったが,使われている匂いは感じられなかった。位置関係を考えても,学校跡は先に訪ねた荒れた平地以外に考えられない。再度訪ねてしっかりと歩いてみたが,標柱ひとつ見つけることはできなかった。

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   旧県道,広渡川に架かる板谷橋                          古い橋にわずかに往時の匂いが感じられた

# 15-8
住宅地図から見当をつけた板谷の離村時期は昭和59年頃。広渡ダムの竣工は平成5年なので,ダム関係の廃村のはずだが,離村記念碑の類も見当たらない。村跡を消すかのような板谷の探索は40分ほど,地域の方には出会わなかった。振り返れば,ダム資料館には足を運んでおくべきだった。
旧県道の板谷橋を訪ねて,ひと通りの探索が終わったのは午前11時45分。さくさく動いた結果,驚くほどの余裕ができたので,昼食は都城市郊外で九州でよく見かけるファミレス「ジョイフル」でのんびりととった。むっちーさんに鹿児島空港まで送っていただき,余った時間は足湯に浸かりながら絵はがきを書いた。ゆったり過ごすひとときはとても贅沢だ。飛行機は乗ってしまえばあっという間,午後5時半には羽田に到着していた。



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