開拓の影を求めて讃岐路へ

開拓の影を求めて讃岐路へ 香川県小豆島町段山開拓,____________
__________________________________________________さぬき市上野開拓

廃村 段山開拓(だんやまかいたく)の施設からは,小豆島の入江(内海湾)が見下ろせた



2014/6/30〜7/1 小豆島町(旧池田町)段山開拓,さぬき市(旧志度町)上野開拓

# 16-1
私の勤務先では,毎年梅雨時に土日出勤でスクーリングの立会いがある。近年,実家がある大阪でのスクーリングを任されるようになっていて,その帰路は,心当たりの廃村に立ち寄るには良い機会といえる。
大阪土日出張の機会を使った廃村めぐり,平成25年は福井県を訪ねたが,平成26年は四国・香川県を選んた。目的地の小豆島町段山開拓(Danyama-kaitaku),さぬき市上野開拓(Ueno-kaitaku)は,ともに存在感が薄い戦後開拓集落の廃村で,地味な探索になることが予想される。それでも,服装,カバンは宅配便を使って切り替え,事前には「池田町史」や「志度町史」を調べて,現状の確認とともに「何かしら痕跡を見つけたい」と思って出かけた。

# 16-2
平成26年6月30日(月),天候は晴,岸和田の妻の実家で起床したのは朝6時頃。朝の通勤ラッシュ時に大阪の電車に乗るのは久しぶり。新大阪駅からのぞみに乗った時点では,小豆島には新岡山港−土庄(Tonoshou)のフェリー(両備・四国フェリー)を使う予定だったが,バスの便が悪いため,急きょ宇野−土庄のフェリー(小豆島フェリー)に変更した。しかし,JR宇野線の便も悪かったため,岡山駅から宇野には両備バスで向かった。
小豆島フェリー「としま丸」は,途中,直島諸島の島々を抜けて,豊島の家浦,唐櫃に寄港する。ゆるやかなスピードが心地よいのは,普段の慌ただしさの裏返しだろうか。右手にかどやのごま油の工場を見て土庄港に到着するまで,私はずっと展望デッキで海と島が交わる風景を眺めていた。

土庄港・往路は宇野発のフェリーで

# 16-3
小豆島を訪ねるのは今回が初めて。観光施設は目立たず,セブンイレブンが構える港近辺の様子に個性は感じられない。港から土庄市街までは意外に遠く,レンタバイクがある「石井サイクル」までは歩いて小1時間かかった。
借りたのは50ccのスーパーカブ。「6時には戻ってくださいね」というお店の方の声を受けて土庄を出発したのは午後12時半。「左側のレバーってないのかな」と思ったぐらいだから,カブに乗るのも初めてのようだ。こわごわカブを走らせていると,中山という棚田が広がる集落を通った。中山には農村歌舞伎の舞台,古い家屋を活かしたお店,そうめんの製麺所,「湯船の銘水」という湧水があったので,銘水を目指して寄り道した。

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中山集落には棚田が広がっていた                         段山開拓・「小豆島ヴィラ」の入口にて

# 16-4
この日の目的地 段山開拓の跡地に「小豆島ヴィラ」という別荘地が造成されたというのは,ずいぶん前から知っていた。中山でのんびりするうちに島の空気になじんできて,気分良くR.436を走らせていると,ヴィラ左折を示す案内板が見当たった。
五万地形図(草壁,S.37)には,標高550mの高原上に「開拓」という地名があって,麓からここに通じる道筋は,今とあまり変わらない。カブでこの道をたどっているうちに,路面が荒れていることや,クルマがほとんど見られないことが気になり始めた。「これはもしかすると…」と思いながらヴィラ中心部のロータリーにカブを停めて,管理事務所に向かうと,入口は閉ざされていて「破産」の公示(平成25年11月1日付)が貼られていた。

# 16-5
池田小学校嶮岨山分校は,へき地等級3級,児童数5名(S.34),昭和23年開校,昭和36年休校,昭和44年閉校。嶮岨山という名称は,北東方向にある瀬戸内一高い山(標高817m)に由来する。五万地形図に記された文マークと,「地理院地図」Webの二万五千図と見比べると,分校跡は管理事務所がある辺りだが,その痕跡を探す術はなかった。すぐそばの10階建てリゾートマンションにも「破産」の貼り紙があって,人の気配はまったくなかった。
段山の戦後開拓は,昭和21年から香川県相生村出身の満州開拓引揚者が中心となって行われたが,季節風の影響が強いなどの悪条件のため,昭和38年には全戸離農。跡地に造成された「小豆島ヴィラ」の分譲開始は昭和45年11月のこと。段山は高原一帯の名称で,地内に小さなピーク(標高541m)がある。

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嶮岨山分校があったと推測される「小豆島ヴィラ」管理事務所付近          運営会社が破産して,雑草が生え始めたテニスコート    ..

# 16-6
別荘地運営会社の破産は,現地を訪ねたことでわかったことで,思いがけず廃墟探索が始まった。テニスコートには雑草が生え始めていたが,数百軒分の敷地があるうち,数軒の家屋は使われている様子だった。ロータリーに看板がある「ライハのツボ」は,ライダーズハウスのようだ。「破産」の貼り紙がある「石の館」という施設から見下ろした内海湾からは,立体的な景色を望むことができた。
意外な展開に驚かされた段山開拓に続いては,小豆島一番の観光スポット,「二十四の瞳」の舞台,岬の分校がある田浦(Tanoura)を訪ねた。途中の苗羽(Nouma)にはマルキン醤油の蔵があって,佃煮屋が並ぶ町並みは,時間があったら立ち寄りたかったところだ。

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   田浦分校跡の校舎は明治35年建立                     「二十四の瞳」の舞台で,ひとときのんびり過ごす

# 16-7
苗羽小学校田浦分校は,へき地等級無級,児童数44名(S.34),明治7年開校,昭和46年閉校。手前にオリーブの木がある分校跡の建物は明治35年建立という。梅雨時の平日,夕方の分校跡には係の方と私ひとり。「こんな木製の机を使ったなあ」などと思いながら,のんびりしたひとときを過ごした。
神戸からのフェリーが着く坂手(Sakate)には「いかにも島」という風情が感じられた。土庄への帰り道は,島を時計と逆方向に回り,採石場がある島北東部を通過し,「石井サイクル」には夕方5時55分に戻った。夕食は土庄市街のはずれの食堂で,そうめん定食を頼んだ。
この日の宿は,土庄港近くのビジネス民宿「マルセ」。市街からは遠いため,外飲みはあきらめたが,セブンイレブンに近いのは重宝だった。

# 16-8
翌7月1日(火),天候は晴,起床は朝5時半頃。いろいろと見所がありそうな小豆島を後にして,朝一番の土庄−高松のフェリー(小豆島急行フェリー)に乗って四国本土に向かった。このフェリーは通勤・通学でも使われており,船内では高校生の姿が見られた。
香川県はうどん県,美味しい讃岐うどんを食べたいところだ。とりあえず,3軒ハシゴすることを目標とした。高松に足を運んだのは,男木島からの帰りの平成7年以来19年ぶり。JR高松駅は港のすぐそばだと思ったのですが,内陸に300mほど入ったところへ移設されていた。駅構内に良さげな雰囲気が感じられなかったので,1軒目のうどん店は,駅近の「公楽食堂」を選び,かけうどん(かつお出汁の関西風のもの)を頼んだ。

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 土庄港・復路はオリーブラインで                   JR高松駅は,内陸に移設されていた       .

# 16-9
高松市街のガソリンスタンド兼業のレンタカー店は,中央通り沿い,県庁のそば。6時間借りたクルマは三菱の軽自動車。高松市街を抜けてからは,瀬戸内海に沿った道を選んで,石材店が多く並ぶ庵治(Aji)で一服した。穏やかで綺麗な浜辺が,市街の近くにあるのはうらやましい限りだ。
この日の目的地 上野開拓の跡地に「讃岐カントリークラブ」というゴルフ場が造成されたというのも,ずいぶん前から知っていた。四国八十八ヶ所・志度寺がある志度(Shido)から讃岐カントリーまでは,R.11を避けて,海辺の集落 小田(Oda)を回る道を選んだ。坂道を上り,ゲートを越えてゴルフ場の敷地に入り,クラブハウス前に着いたのは午前11時頃。普通に営業しているゴルフ場に,自由に探索できる雰囲気はなかった。

上野開拓集落があった「讃岐カントリークラブ」のクラブハウス

# 16-10
鴨部小学校上野分校は,へき地等級2級,児童数14名(S.34),昭和23年開校,昭和38年閉校。五万地形図(三本松,S.35)には「上野」という地名はあるが,文マークは記されていない。「国土院地理」Webの二万五千図と見比べると,グラブハウスは標高306mの北山山頂付近にあるようだった。
上野山の戦後開拓は,昭和21年から行われ,入植農家30戸を数えたが,耕土が浅く農地としては不適であり,やがて全戸離農。その跡地は牛の放牧場(大仙牧場)になり,さらに「讃岐カントリークラブ」となって開業したのは昭和49年10月のこと。地元では,この一帯を上野山と呼ぶようだ。
「何かしら手掛かりはないか」とクラブハウスの駐車場付近を歩いていると,「関係者以外立入禁止 大仙農事組合」という看板が見当たった。

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   なぜかゴルフ場の中で見つかった「大仙農事組合」の看板         訪ねてみると,トマトのビニールハウスと箱詰めの施設が建っていた

# 16-11
看板に小さく「大仙トマト直売店は坂を下り左折ください」と記されていたので,その通りクルマを走らせると,ゴルフ場の真ん中にビニールハウスが建っていた。二万五千図(讃岐津田,S.46)の上野開拓跡地は,ゴルフ場ではなく大仙牧場となっている。農事組合の方にお話を伺うと,この施設はパークゴルフ場の跡を使って平成11年に完成したもので,大仙牧場,カントリークラブとは経営者の流れがあるとのこと。
2軒目のうどん店は,旧津田町,海沿いの県道とR.11の交点にある「麦わら」のぶっかけうどん。3軒目のうどん店は,レンタカーを返して,琴電バスで着いた高松空港,「はやし屋製麺所」のしょうゆうどんを食した。飛行機は乗ってしまえばあっという間,午後5時半には羽田に着いていた。

(追記1) 何かの縁なので,この旅の会社への土産は大仙トマトを三箱購入した。

(追記2) 後日,さぬき市の市史編さん担当の方と連絡が取れて,上野分校の跡地は,讃岐カントリークラブのゲートとクラブハウスの間,切り通しがある辺りということがわかった。



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