リベンジでたどり着いた越前の廃村

リベンジでたどり着いた越前の廃村 福井県南越前町板取,大河内

廃村 大河内(おおこうち)には,神社跡の鳥居が残っていた



2014/10/4 南越前町(旧今庄町)板取,大河内

# 17-1
平成26年10月上旬,大阪・堺の実家に法事で帰る機会があった。「この機会に」と,移動の合間に訪ねやすい廃村を訪ねる運ぶ計画を立てるのはいつものことだ。目的地には,平成25年7月上旬,道に迷って行き損ねた福井県旧今庄町大河内(Ookouchi,昭和41年離村)を選んだ。
大河内へは,keiko(妻)とふたり,行きの新幹線を米原で途中下車して,レール&レンタカーのクルマで出かけた。keikoは「クマが出そうな山中には行きたくない」と引き気味だったが,大河内はクマが出ても不思議でない山中だ。そこで,「週末はどこへ行こう」とSNSに書き込みがあった愛知県在住の井手口さんに声をおかけしたところ,「友人と同行ですが,良いですか」という返事が来たので,急きょご一緒することになった。

# 17-2
平成26年10月4日(土),天気は曇時々晴。起床は未明4時45分。JR東京駅発朝7時33分のひかりが米原駅に到着したのは9時45分。7時間借りたクルマは三菱の軽自動車。まず立ち寄った,かつての北国街道の旅籠町の廃村 板取(Itadori,昭和57年頃離村)は,平成19年11月以来2度目の訪問だ。
北陸道を使うと米原IC−敦賀IC(46q)は32分ほど。R.476で木ノ芽トンネルを超えると,敦賀市内−板取(15q)は20分ほど。思ったよりも板取は近く,11時には着いていた。keikoとふたり,板取宿(上板取)の石畳道を歩いていると,右手の往時の家屋に目が停まった。扉が開いていたので覗いてみると,中は整然としていて,囲炉裏やタイル張りのかまどが見当った。前回気にならなかったのは,扉が閉まっていたからなのかもしれない。

板取・石畳道沿いの家屋では,囲炉裏やかまどが見当たった


# 17-3
なじみがある甲造り型萱葺き屋根の家屋のうち,1軒からほのかに煙が上がっていて,入口には「いい大人の火遊びクラブ」という標札が掲げられていた。「ごめんください」とご挨拶をしたところ,家の方(赤星弘毅さん)が出てきてくれて,部屋にお邪魔してお話を伺うことになった。
赤星弘毅さんは昭和27年今庄生まれの62歳。平成25年1月から今庄から通って家の手入れをされていて,NPO法人「みんなのふるさと 板取の宿」を立ち上げて,「子供に火の起こし方を教える」,「囲炉裏で煮炊きの経験をする」,「吊るし柿をつくる」などの活動を進められているとのこと。赤星さんの「萱葺きの家で囲炉裏を囲んだ暮らしがあったことを,使うことで後々の世代に伝えたい」という言葉から,民俗知を伝えることの大切さを感じた。

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板取・甲造り萱葺き屋根の家屋(右側が赤星さんの家)              二階から外を見ると,井手口さん達が歩いていた .

# 17-4
板取では,井手口さん達と待ち合わせることになっている。ちょうど家屋の二階を見学していたときに気配がしたので,窓から「おーい」といって手を振るという展開で待ち合わせが成立した。谷口さんは井手口さんの大学の頃の仲間で,4月には三重県の廃村 北布引に一緒に行かれたとのこと。
話の輪に井手口さん,谷口さんが加わったタイミングで,私は外に出て家屋の写真を撮ったが,今庄365温泉・スキー場方面には今回も行かなかった。赤星さんの家を後にしたのは正午頃。駐車場に戻る途中,家屋跡の敷地の隅に残るタイル張りの五右衛門風呂を発見した。クルマを走らせて通過した下板取には,そば処のノボリが上がっていた。廃村にそば屋とは思いもよらず,時間があったら立ち寄りたかったところだ。

# 17-5
なじみの二宮金次郎像がある堺小学校跡の角でR.365から県道に入ると,広野までの道沿いにはソバの白い花が見られた。広野ダムの堤体を過ぎ,二ツ屋の離村記念碑辺りではカモシカに遭遇。「クマが出ても不思議ではない」と思わせる山の中,クルマ2台で行けるのはありがたいことだ。
碑を過ぎてすぐの橋を渡った三差路,私は「左に行けば大河内」と思い続けていて,今回も左に向かったが,これは大間違い。私は前回迷い込んだのは鈴谷川沿いの道ではなく,一つ手前の川沿いの道だった。この三差路を右に進めば,鈴谷川の合流点には迷いようがない細い道があるだけで,大河内までは一本道だった。しかし,途中からダートになったのでレンタカーは道端に停めて,その先は井手口さんのクルマに便乗することになった。

「神社があったのかな」と思わせた木立と赤い屋根の作業小屋

# 17-6
「山火事注意」の横断幕と大河内国有林の標柱を過ぎ,「ずいぶん深い山だなあ」と思い始めた頃 視界が開けて,大河内に到着したのは午後1時35分。道沿いの作業小屋のそばにクルマを停めて,川沿いを歩き始めると,左側に「神社があったのかな」と思わせる木立と赤い屋根の作業小屋が見当たった。五万地形図(冠山,S.42)には道の左側に鳥居マーク,右側に文マークが記されているが,往時の道と今の道が同じという保証はない。
「右側はすぐ川だしなあ」と思いながら先に進むと,草刈り機のエンジンの音が聞こえてきた。「チャンスです」と言って,急ぎ足で歩くと,川の向こう側に草を刈る地域の方(山田儀一さん)の姿が見当たった。

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丸木橋を渡って地域の方(山田さん)にご挨拶(井手口さん撮影)          山田さんに分校跡を案内していただく(井手口さん撮影)  .

# 17-7
丸木橋を渡ってご挨拶をして「分校跡を訪ねて来たのですが」と話すと,「わかりにくい場所だから,案内しましょう」とのお返事をちょうだいした。山田儀一さんは昭和18年大河内生まれの71歳。「福井市内の家から時々大河内に通っている」とのことで,数戸の作業小屋がある集落跡には時々地域の方が来られる様子だ。山側の小道沿いが往時家々が建っていた場所で,先ほど神社跡のように見えたのは山田さんの屋敷跡とのこと。
堺東小学校大河内分校は,へき地等級4級,児童数9名,大正15年開校,昭和40年閉校。分校跡は山側の小道のいちばん下手の草むらの中にあり,錆びた旗ポールが残されていた。分校跡からかろうじてわかる草の中の小さな石段を上っていくと,その先には大きな石造りの鳥居が構えていた。

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大河内分校の跡を示す錆びた旗ポール          大河内神社の鳥居は草むらの中にしっかりと建っていた  .

# 17-8
鳥居の下に石造りの小さな水槽があると思ったら,それは「大河内神社」と刻まれた扁額だった。山田さんはこれを持ち上げて鳥居の足のところに立てて,私はペットボトルの水をかけて泥を落とした。鳥居の前のスペースは極めて狭く,全体をカメラで捕えることはできないほどだった。
屋敷跡(蔵の跡)まで戻ったとき,ふと思い付いて山田さんに「クマは現れますか」と尋ねたところ,「大河内では見たことはない」とのお返事をいただいた。お礼を言って山田さんと分かれてからは,そのまま蔵の跡で昼食休みとなった。4名で賑やかに過ごすひととき,クマの心配は不要だった。
堺東小学校跡の二宮像にご挨拶をして,堺小学校跡で井手口さん達と分かれたのは午後3時15分頃。帰り道は来た道そのまま,一路米原を目指した。



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