カーナビの誘いも楽し 備中路

カーナビの誘いも楽し 備中路 岡山県高梁市柳平

廃村 柳平(やなびら)では,湖畔から少し上がった場所に大きな廃屋を見つけた



2015/7/13 高梁市(旧備中町)柳平

# 20-1
「500か所超えへの道」の旅は,同時に22都府県の完訪を目指して進めている。平成27年6月末現在,完訪は全部で18都府県。「できるだけ達成しやすいところから行きたい」と思うのはとても素直な心理だろう。
残りひとつになっている岡山県(全5か所中4か所訪問済)と鳥取県(全3か所中2か所訪問済)は隣り合わせの関係にある。当初は「岡山・鳥取は,ひとつの旅で完結させよう」と思っていた。しかし,岡山県で残ったのは広島県寄りのダム建設関係の旧備中町柳平(Yanabira)。これに対し,鳥取県で残ったのは兵庫県寄りの旧八東町横地(Yokoji)。「分けてじっくり味わったほうがよい」との結論は,迷わず出た。

# 20-2
平成27年7月のこの旅も,土日の大阪出張の流れを使った。出張の1日目(7/11(土)),父孝昭は皮膚がんの治療のため家近くの病院に入院した。JR新大阪駅発朝8時17分発のひかりが福山駅(広島県)に到着したのは9時38分。プランターにはたくさんのバラ(福山の市の花)が植えられている。
福山駅からレンタカーで目指す柳平は,50km超先にある。下調べはほとんどしておらず,適当にカーナビをさわると,岡山県井原市方面に進むルートが出てきた。神辺を通過し,「ローカルなお店で一服したいな」と思っていると,市街地が続くR.313から少し入った道に「渡辺ストアー」という看板が見えた。 寄り道すると,店の目の前には大きな碑が建っていた。碑文を読むと,大正8年建立の広島県(備後)と岡山県(備中)の管轄境界標だった。

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広島県福山市と岡山県井原市の県境は,家々が続く町角にあった       旧芳井町では石灰鉱山(JFEミネラル芳井鉱業所)を通り抜けた


# 20-3
井原市街を通過すると,カーナビは旧芳井町へ向かうよう指示を出した。どういうわけか,同じ形のいかめしいトラックが列をなして向かってくる。「何があるんだろう」と思ったら,その先には石灰鉱山があった。後で調べると,福山の製鉄所で使用する石灰石の採掘を行っていることがわかった。
その後もカーナビは旧芳井町の山中,旧川上町の山中と,意外な方向へ私をいざなった。旧川上町では,高山という吉備高原上にある集落で一服。集落にある弥高山は,観光地のようで,小さなお店と,大きな駐車場があった。そばに立派な校舎の小学校があったので立ち寄ったら,案の定休校になっていた。高山小学校は,平成15年休校,閉校となったかどうかは不明。後で調べると,へき地等級無級,児童数194名(S.34)だった。

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高山小学校校舎は平成11年新築(平成15年から休校)    長谷小学校跡の木造校舎は,地域の集会所として使われている      .

# 20-4
旧川上町−旧備中町間では,カーナビは一車線で草いっぱいのマイナーな道を選んだ。ようやく谷が広くなった長谷という集落には,一目でそれとわかる小さな学校跡の校舎があった。後で調べると,長谷小学校は,昭和52年閉校,へき地等級無級,児童数210名(S.34)だった。
成羽川沿いにたどり着いたのは正午頃。主要道から枝道への分岐からダムが見えたので「新成羽川ダムに着いたかな」と思って写真を撮った。しかし,これは田原ダムという手前のダムで,新成羽川ダムは渓谷沿いを3qほど上がったところにあった。田原ダム−新成羽川ダム間に人家は見られず,クルマもほとんど走っていなかった。

# 20-5
新成羽川ダムから約2km上流側には,佐原目という備中湖畔のわずかな平地に移転した集落が見当たった。湖畔の集落ができたのは,ダム竣工(昭和43年)と同じ頃。地域の方(男性)に出会ったので,お話をすると「現在佐原目には4戸7名が住んでいる」とのこと。家の数は10数戸あり,過疎化が進んでいることが想像された。ダム湖に下る道があったので,昼食休みは佐原目でとった。
佐原目から2kmほど,柳平には午後1時頃に到着した。湯野小学校柳平分校は,へき地等級2級,児童数43名,明治42年開校,昭和40年閉校。二万五千図(吹屋,S.41)に記された文マークは成羽川の流れの近くにあり,水没していることは100%間違いない。

柳平分校跡に行くことは,水が抜かれることがない限り無理だろう

# 20-6
二万五千図には,湖に沈まない山中に点在する家屋が記されている。心当たりの場所にクルマを止めてあたりを歩くと,路側溝にまたぎ網があって,その先に石段が続いている箇所を見つけた。草をかき分けけもの道を上がっていくと,石垣の上に建つ大きな家屋が見つかった。
家屋はすっぽりと緑に囲まれており,とてもしっかりと建っていた。「おじゃまします」と挨拶をして,家屋の中を見てみると妙なデザインのカレンダーがかかっていた。年を確認すると1987年(昭和62年)だった。「廃村千選」では,柳平の閉村年は分校の閉校年にあわせて昭和40年としていた。その後22年もずれがあるとは思いもよらなかった。「現地にいくことは大切だなあ」と強く感じたひとときだった。

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柳平の廃屋には,昭和62年のカレンダーが残っていた                 「柳平部落 ここに沈む」,昭和53年建立の石碑

# 20-7
湖畔に建っている石碑(昭和53年建立)は個人が建てたもので,表面には「ダム沿いに 野菊が咲いて 秋ふかし 柳平部落 ここにしずむ」という歌碑が刻まれていた。裏面には「昭和43年,新成羽川ダムの建設の議起こり,部落民は時代の流れに従い幾百年幾世代を経にし祖先墳墓の地を後にして各地に離散のやむなきに至った。今,萬感の思をこめてここに記念の歌碑を建て,郷里柳平の名を永遠に偲び伝えんとする」との旨が刻まれていた。
昭和43年にダム建設が始まり,「故郷はダム湖に沈んだ」というのが一般的な認識と見てよさそうだ。「高台の家が一二軒残った」状態を廃村と見てよいかどうかは何ともいえないところだが,「廃村千選」では,柳平の閉村年は昭和43年としたい。

# 20-8
柳平から福山駅までは,新成羽川ダムに沿った県道を走って広島県神石高原町旧油木町を経由して帰る予定だった。しかし,柳平からおよそ3km,橋を渡った三差路付近で「全面通行止」の看板に出くわした。「行けるところまで行く」のも手だが,時間のロスがあると困るので,撤退することにした。
折り返して柳平,佐原目を通過すると,カーナビは新成羽川ダムの堤体を渡るよう指示した。こんなルートがあるとは思いもよらず。おかげで,通行止めのダメージは小さくて済んだ。県境の神石高原町旧豊松村からは,旧油木町の南側をかすめて旧三和町に入った。R.182沿い,視界の右側に二階建ての古びた校舎が見える。立ち寄ってみると,「学校食堂」という看板が出ていた。どうも廃校の校舎が飲食店として再利用されているらしい。

井関小学校跡の校舎は「学校食堂」として再利用されていた

# 20-9
入口の手前には「井関小学校之跡」という碑があった。後で調べると,井関小学校は昭和59年閉校,へき地等級無級,児童数207名(S.34)だった。
福山駅には,予定よりもやや早い夕方4時50分帰着。福山からは久留米まで「さくら」に乗って,この宿がある熊本県荒尾市を目指した。荒尾・大牟田は,三井三池炭鉱(平成9年閉山)のお膝元,三池炭鉱関連資産が世界遺産に登録されて,これからどのような展開があるのだろうか,興味深い。
荒尾市四ツ山の旅館「長崎屋」は,平成21年11月以来6年ぶり。すぐそばの角打ち「かいせん」では,6年ぶりにママと常連の藤島さんと再会できた。藤島さんからは「幽霊やないやろな」との声がかかった。居合わせたお客さんとともに集合写真を撮ったのは,夜11時頃だった。



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