貸し切りのおれんじ汽車で 薩摩路へ

貸し切りのおれんじ汽車で 薩摩路へ 鹿児島県阿久根市本之牟礼

廃村 本之牟礼(ほんのむれ)の廃屋は,南国らしい緑に包まれていた



2015/7/14 阿久根市本之牟礼

# 21-1
薩摩の廃村 本之牟礼(Honnomure)は,ネットの横つながり ガッチャマンさんから平成26年1月に教えていただき,その存在を知った廃村である。その流れの検索から,齋藤晋さん,林直樹さんがまとめた「鹿児島県阿久根市本之牟礼地区における集落移転」という記事にたどり着いた。それから8か月後,つくばの国立環境研究所の講演で林直樹さんと出会い,その後の共同研究につながった。縁とは面白いものである。
また,平成27年4月,桜島の北東にある離島の廃村 新島(Shinnjima)で,出身の方が立ち上げた「新島再生プロジェクト」が進んでいると,鹿児島県在住の探索仲間むっちーさんの情報から知った。鹿児島市街 天文館の居酒屋のママが中心人物として活動しているとのことだった。

# 21-2
「目標が2つそろえば動く」は行動の定石。岡山県の柳平へ出かけた後,熊本県荒尾市で宿をとったのは,続いて鹿児島へ出かけるための布石である。林さんの仲介で,阿久根市在住の花木雅昭さんと連絡を取ることができ,むっちーさんの紹介で,天文館の居酒屋「柿の実」のママ 酒元ひろ子さんとも連絡を取ることができた。
平成27年7月14日(火),鹿児島県の廃校廃村への旅,熊本県荒尾市四ツ山の旅館「長崎屋」起床は朝5時頃。外は夜半からの強い雨が降っている。JR荒尾駅まで行くバスはまだなく,「出だしから覚悟がいるなあ・・・」と思いながら,雨の中ひたすら,駅へと続く道を歩いた。

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     雨のおかげでしっかり記憶に残ったJR荒尾駅                  貸し切りで乗った肥薩おれんじ鉄道の気動車(新水俣駅にて)


# 21-3
荒尾駅を出発したのは朝5時54分。ローカル電車で熊本駅に出て,新幹線に乗り継ぎ新水俣駅で下車した。心配された雨は 熊本−新八代間で上がり,幸いなことに新水俣駅に着いた頃には青空が出てきた。平成16年にできた新水俣駅では,なぜかドリカムのポスターが迎えてくれた。
新水俣駅からは,肥薩おれんじ鉄道という三セク線に乗り換えて,本之牟礼の最寄り駅である薩摩大川駅を目指した。おれんじ鉄道の車両はオレンジ色かと思いきや,それは銀河鉄道999特別仕様のラッピングを施したものだった。水俣駅を過ぎ,県境を越える1両編成の気動車の乗客は私ひとりだった。ホームから東シナ海が見える薩摩大川駅に到着したのは午前10時38分。無人の改札をくぐると,花木さんが待ってくれていた。

# 21-4
花木さんは本之牟礼出身で,阿久根市役所勤務の頃,市職員として集落の集団移転事業にかかわられた。移転が実施されたは平成元年(1989年)。林さんによると,平成になってから,国が施した集落の集団移転事業は本之牟礼を含め全国で5例しかないという。薩摩大川駅から本之牟礼まではおよそ5km。花木さんのクルマに乗って,お話をうかがいながら目指すと15分後には分校跡にたどり着いた。
大川小学校本之牟礼分校は,へき地等級無級,児童数39名(S.34),大正3年開校,昭和51年閉校。分校跡は集落跡のいちばん手前に位置しており,校舎は陶芸の方(Hさん)の作業所兼住居として使われている。花木さんと一緒にご挨拶をすると、Hさんは作業場(元教室)を案内してくれた。

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      屋根まで緑に包まれた本之牟礼分校跡の校舎           「山中に広い校庭を作るための智恵」で,校庭下は暗渠になっている

# 21-5
本之牟礼は,川沿いで分校跡がある下本之牟礼,丘の上の上本之牟礼に大別される。分校跡に続いては,花木さんの案内で下本之牟礼集落跡の様子を見て歩いた。「撤退の農村計画」(林直樹,齋藤晋編著,学芸出版社刊)では,平成20年7月現在の下本之牟礼の家屋等の様子が記されている。
「撤退」の中には,「本之牟礼は降雪の少なさのせいか,移転して約20年経った今も,住居が比較的そのままの形で残っているところが多い」という一文がある。下本之牟礼を歩いて驚いたのは,7年経って,家屋の大部分が崩壊していたことだった。花木さんは,この心当たりについて,「元住民の高齢化が進み,訪ねる人がほとんどいなくなったこと」,「たびたび台風が襲来し,その際に一気に崩れたこと」を挙げられた。

市の水道施設の隣にはコンクリ造りの祠があった

# 21-6
上本之牟礼は,分校跡付近の三差路で北上する道を選んで1kmの場所にある。しかし,花木さんの「この道は荒れているので,回り込んで向かいましょう」という声を受けて,4qほど迂回する道で向かった。
上本之牟礼の家屋跡は散在しており,かつ家屋は見当たらない。しかし,家屋跡に向かう道にはクルマが通ることができる幅があるものもあり,下本之牟礼と比べると,明るい感じがした。上本之牟礼の目玉は,墓地を改造したという馬頭観音公園である。サクラの木が植えられた見晴らしの良い公園で,花木さんは「春には元住民の方が集って花見が行われる」と話された。

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  馬頭観音公園の祠の正面には丸十の紋が掘られている          限界集落 落の神社では,鳥居の向こうに錆びた遊具を見かけた

# 21-7
馬頭観音公園から薩摩大川駅までの帰り道,私の希望もあって,花木さんは落(Otoshi)という過疎集落(限界集落)に立ち寄ってくれた。落は平家の落人伝説がある集落で,その規模は13戸19名(男性6名,女性13名,H.27)で,阿久根市の集落では最小規模だ。
落でいちばんの若手は70代。長年自治会長をされている方は,早く引退したいが成り手がいないので,何とか続けているという。行政は集落の見回りなどをして,できるだけの支援をしている。そして,住まれる方はみな,「元気なうちは落に住み続けたい」と言っているとのことだった。落の集落を歩くと,石垣,岩肌,路面の一つひとつに歴史が感じられた。 神社(落平神社)の境内の錆びた遊具は,昔,ここに子供がいたことを物語っていた。

# 21-8
道の駅阿久根で昼食をとった後,薩摩大川駅で花木さんと別れたのは午後2時20分。おれんじ鉄道で川内駅,ローカル電車で鹿児島中央駅まで出てからは,すぐに路面電車で天文館電停を目指した。初めての天文館の街を歩いてたどり着いた「柿の実」では,ママと妹さんが待っていてくれた。
私は新島の旅行記が載っている冊子「廃村と過疎の風景(8)」を紹介した。ママは,新島の今の様子をタブレットで紹介してくれた。酔いが回ってくるうちに「桜島を見ておきたい!」と思い付き,ママに尋ねると「港まで行くと,きれいに見えるよ」と教えてくれた。お店から歩いて15分ほど,南埠頭にはトカラ列島に向かう十島丸が停泊している。埠頭の突端まで歩くと視界を遮るものがなくなり,どっぷり桜島の姿を堪能することができた。

南埠頭の突端から見た噴煙を上げる桜島

# 21-9
お店に戻ってから,私は「再生プロジェクト」の募金に一口のって,森進一の「港町ブルース」を唄った,福山(広島),柳平(岡山),四ツ山(熊本),本之牟礼(鹿児島)と続いた 1泊2日の長い旅を締めくくるには最高のひとときだった。
天文館からは鹿児島中央駅前まで1kmほどの道を歩き,リムジンバスで鹿児島空港へと向かった。ソラシドエアの最終羽田行きの出発は夜8時35分。夜の便を使うとき,「大空食堂」で軽く一杯の芋焼酎は定番になっている。「大空食堂」のメニューには「泣こかい 翔ぼかい 泣こよか ひっ翔べ」,「あれこれ考えずに,思い切って,行動してみること!」と書かれていた。「面白い方言だなあ・・・」と思って,私はこれをカメラに収めた。



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