民泊で うだる暑さの因幡路へ

民泊で うだる暑さの因幡路へ 鳥取県八頭町横地,____________
__________________________________________________鳥取市板井原,杉森

廃村 板井原(いたいばら)の離村記念碑が建つ学校跡は,川の流れのそばにある



2015/8/7〜8 八頭町(旧八東町)横地,鳥取市(旧用瀬町)板井原,杉森

# 22-1
平成27年7月6日(月),長崎の軍艦島の世界遺産登録が決まった。その流れで,軍艦島つながりの西日本新聞の記者から廃村をテーマとした記事の寄稿依頼があった。長崎の箕島を主とした記事のゲラが完成したのは8月上旬。完訪では19番目になる鳥取県への旅は,記事のゲラを持って出かけた。
鳥取県でひとつ未訪で残った旧八東町横地(Yokoji)は県東部 因幡にあり,4年前(平成23年10月)に両親と出かけた旧用瀬町板井原(Itaibara),杉森(Sugimori)ともほど近い。父孝昭は,7月11日(土)から皮膚がんの治療で入院している。「月に一度はお見舞いに行こう」と決めると同時に,その前後に回りやすい廃村へ行くことを決めた。両親への話題にしたかったこともあり,横地行きは板井原,杉森の再訪とあわせて1泊2日で計画した。

# 22-2
平成27年8月7日(金),天候は晴。浦和・東京は8月に入ってから猛暑の日々が続いており,未明4時30分頃の起床時,すでに暑かった。東京駅発朝6時30分ののぞみに乗って,新大阪乗換えの特急「スーパーはくと」が鳥取駅に到着したのは午前11時57分。うだるような暑さは鳥取も変わらない
おにぎりを調達して,駅近くのGSでクルマを借りて,若桜鉄道線に沿った姫路に向かうR.29を走っていると,「隼駅→」という看板が見当たった。駅に立ち寄ると,赤い屋根の木造駅舎が迎えてくれた。その名称から「ライダーの聖地」として名を馳せた駅には,多摩ナンバーの大型バイクのライダーがいた。おにぎりは,隼駅の待合室で食した。

隼駅の駅舎は昭和4年建築で,登録有形文化財に指定されている



# 22-3
横地は山間とはいえ若桜鉄道線丹比(Tanpi)駅から5kmだから,町からそう遠いわけではない。しかし,積雪が多い町の近隣地はむしろ離村を招きやすく,隣の妻鹿野(Megano)とともに,昭和47年,町の主導で集団移転(移転先団地あり)がなされた。
ふるさとの森(扇ノ山登山口)が奥にあるためか,まずまずクルマが走る細見川沿いの車道を進むと,「横地橋」があって,とりあえず横地に到着した。集落跡は橋の先から少し上がったところにあるが,登り口はわからない。丹比小学校横地分校は,へき地等級1級,児童数18名(S.34),明治15年開校,昭和41年閉校。おきのくにさんから教えていただいた分校跡は,横地と妻鹿野の間の旧道沿いにあって,車道よりも30mほど高い山中だ。

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     細見川に架かる横地橋                              妻鹿野から横地分校跡へ続く山道

# 22-4
「この上にあるんだろうなあ」と見上げても,入っていけそうな雰囲気はない。二万五千図(若桜,1975)には,妻鹿野側から分校跡へ続く山道が記されている。心当たりの道の入口を探し出すことはできたが,間もなくササ藪に阻まれた。30℃を超える暑さの中,ササ藪と戦う気力は湧かなかった。
大字横地(横地,侭山(Mamayama),園の3小集落からなる)と,大字妻鹿野(妻鹿野,柞原(Tarawara),滝谷の3小集落からなる)は,ともに横地分校の校区だ。まず川沿いの妻鹿野,柞原,滝谷を回ると,クルマが走る車道に沿いに風通しがよい廃村の風景が広がっていた。続いて山の中腹にある侭山,園を目指したが,稗谷(最寄り集落)からの道を間違えてしまい,未達に終わった。猛暑の中の廃村めぐりは,気力が乏しくなるようだ。

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妻鹿野・人工林の中に神社の建物が見られる                     柞原・人工林の中に家屋跡が見られる  .

# 22-5
この日の宿,智頭町民宿協議会(山村再生課)を通して手配した「いず味」という農家民宿は,JR因美線那岐駅の近くにある。智頭町には,農家民宿が40軒もあるとのこと。「民泊」ということで,ふつうの民家に泊まりに行くという感じだ。 宿には夕方6時少し過ぎに到着。 6時半ぐらいから,3時間ぐらい宿のご夫婦,ご近所のご夫婦と5名で飲んで食べてした。何かの縁なので,初めてのふるさと納税を智頭町で行った。
翌8月8日(土),起床は朝5時半頃。朝食の前に宿から500mほど離れたJR那岐駅まで散歩に出かけた。赤い屋根の古い木造駅舎と,広い構内の駅は,とても風情がある。駅舎は月2回の巡回診療所として,活用されており,地域の方が駅を大切にしている様子が感じられた。

# 22-6
宿を出て,「板井原集落」として伝統的建造物群保存地区に指定されている智頭町の農山村集落 上板井原にまず足を運んだ。六尺道の中央あたりで水道管の工事があって,残念ながら静かな山里という感じでなかった。「住民は2戸4名まで減少している」とのことだったが,古民家の補修をしている若い方の姿が見られた。
六尺道を歩くと,道沿いに六地蔵があったが,「確かに,昔の集落の道ってこんな感じだったよなあ・・・」と,お地蔵さんよりも道のほうに興味を感じた。駐車所のそばには「智頭小学校板井原分校跡」の石柱があり,隣の公民館の建物が往時の分校校舎で,国登録有形文化財とのことだ。

上板井原・なつかしさが感じられる六尺道と六地蔵

# 22-7
上板井原に続いて,旧用瀬町の廃村 板井原に足を運んだ。板井原というと,一般には上板井原(智頭の板井原)を指すが,「廃村千選」では用瀬の板井原となる。ともに「板井原」なので,双子のようだ。離村記念碑「板井原の里」には「昭和50年4月離村22戸」と刻まれている(平成17年建立)。
4年前(平成23年10月)は「金婚式祝いの旅」の一環で,父母と一緒に訪ねた。今回は単独でややのんびりできるが,正午頃,鳥取駅に戻らばければならない。9月から始まる秋田県廃村フィールドワークの備えもあって,「30分ぐらいで見れるところまで見よう」と制限時間付きの探索となった。2回目の板井原では,集落跡の小道を丹念に歩くことができた。家屋や土蔵が10戸ほど残るこの小道,しっかりと残っていたのは驚きだった。

板井原・今回見つけた整った土蔵

# 22-9
興徳小学校(のち用瀬小学校)板井原分校は,へき地等級2級,児童数11名(S.34),明治15年開校,昭和49年休校,昭和54年閉校。分校跡は駐車場となっており,その一角に離村記念碑が建っている。分校跡から歩いて3分ほどの古い土蔵には,4年前にも単独で訪ねている。そのとき父母は,分校跡付近でのんびり過ごしていたはずだ。集落跡には苔が生えた枝でできた橋があって,「あぶなっかしいなあ・・・」と思いながら2往復した。
少し山に入った宮小谷神社に参ってから,山際の個人の墓所跡の碑を横目に見ながら,耕地(耕作放棄地と現役の水田)の様子を観察して,画像を撮った。板井原の探索に要した時間は50分だった。

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板井原・集落跡北側の水田                             板井原・集落跡南側の休耕田

# 22-10
板井原に続いて,杉森にも足を運んだ。興徳小学校(のち用瀬小学校)杉森分校は,へき地等級2級,児童数 14名(S.34),明治12年開校,昭和50年休校,昭和54年閉校。分校跡は土蔵そばの平地になっている。分校跡から200mほど先にある離村記念碑「杉森の郷」には「昭和50年4月離村17戸」と刻まれている(平成13年建立)。
碑の横の家屋は崩れてガレキになっていた。4年前は両親と記念写真を撮った場所だけに,時の流れを強く感じた。クルマ止めの少し先のダート沿いには,かろうじて輪郭が残った壊れた家屋が建っていた。板井原,杉森の冬は雪深く,「近々ガレキになるんだろうなあ・・・」と思った。

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杉森の離村記念碑と4年前には建っていた家のガレキ                     杉森・スギが植えられた棚田跡     .

# 22-11
杉森でも耕地の様子を観察して,画像を撮った。水田はなく,耕地跡にはスギが植えられていた。二つ比べると,杉森のほうが板井原よりも集落の痕跡,旧住民の方の影は薄くなっていた。杉森の探索に要した時間は30分だった。
鳥取から大阪への帰路では,明石の母方の親戚宅に立ち寄り,4月に亡くなった叔父の位牌に手を合わせた。大阪・堺の実家近くの病院に入院している父は,1か月近くの間にすっかり衰えてしまい,ICUの部屋に移されていた。「金婚式の旅の軌跡を追って鳥取の廃村に出かけた」ことは,残念ながら伝えることができなかった。それでも西日本新聞の廃村の記事のゲラを見せると「長い間やっていると,いろんなことがあるもんやな」と答えてくれた。

(追記) 西日本新聞の廃村の記事は,2015年8月7日(土)に「ライフワークとしての廃村探訪」という見出しで掲載された。モノクロ記事の掲載紙は鳥取への旅が終わってから浦和で読んだ。また,地方紙の連携で,カラー,顔写真入りになったこの記事は,2015年9月8日(火)の東京新聞に「廃村探訪15年」という見出しで掲載された。



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