まちのり自転車で 山の廃村を訪ねる

まちのり自転車で 山の廃村を訪ねる 石川県金沢市堂,菊水

廃村 菊水(きくすい)の分校跡の碑は,金沢市中心市街から22kmの山中にある



2015/9/26 金沢市堂,菊水

# 23-1
平成27年3月14日(土),北陸新幹線が金沢まで開業し,浦和−大阪間の往復に北陸経由のルートが組み入れやすくなった。大阪・堺の実家近くの病院に皮膚がんのため入院している父の見舞いでも,9月4日(金)発のものは北陸後回り,9月26日(土)発のものは北陸先回りで手配した。
金沢市には,廃校廃村が7か所もあり。うち4か所は未訪だった。9月は4か所の中から足を運びやすい内川沿いの堂(Dou),菊水(Kikusui)を訪ねる計画を立てた。金沢駅から堂を経て菊水までの距離は22km。「自転車でも行けそうだ」と思い,「まちのり」というレンタサイクルを使うことになった。
9月6日(日)はあいにくの雨模様。金沢駅では改札も出ないで長野駅に向かい,長野市在住の友人のら猫さんと市内で昼酒を嗜むことになった。

# 23-2
9月26日(土)の天候は晴。大宮駅発朝7時48分発の「かがやき」の金沢駅到着は午前9時52分。ピンとは来ないが,早く着くことはいいことだ。「まちのり」は,自転車をシェアするサービスとのことだが,山の廃村に向かうのに細かいルールは不要だ。借りる場所は駅高架下のわかりにくい場所にあり,探し出すまで20分ほどかかったが,利用可能台数は1台だった。待たされることなく借りれたのは,ラッキーだったのであろう。
金沢駅の標高は10mに対し,菊水の標高(学校跡)は295m。標高差は285mあり,自転車は電動アシストではない。乗りたい大阪行の「サンダーバード」の金沢駅発は午後4時1分。「5時間で44q,走ることができるかな」と少々不安に感じながらも,午前10時30分,駅高架下のポートを出発した。

金沢駅高架下のポートで借りた「まちのり」自転車

# 23-3
金沢一の繁華街 香林坊には,駅から12分でたどり着いた。しかし,寄り道は許されず,犀川大橋を渡るとすぐにR.157を左に折れて,川沿いの道へと淡々と走った。大桑橋で犀川から離れ,野田町,別所町と進むごとに傾斜がきつくなり,ギアなしのまちのり自転車は押すことが多くなってきた。
坂の途中の内川小学校を過ぎて,峠を下ってバスの終点小原町に着いたのは午後12時10分。13kmに1時間20分かかっている。
小原町から先は山の領域になるが,通るクルマもたまにある。「菊水 堂」を記された案内板を見ながら,内川ダムの堤体に到着したのは午後12時20分。堤体ではおにぎりとお茶で短い昼食休みをとった。内川ダム(昭和49年竣工)は,上水(水道用水)から治水,発電と幅広く活用されている。

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「菊水 堂」を記された案内板                    内川ダム堤体とダム湖を見下ろす     .

# 23-4
根気よくペダルを漕いで,無住の堂町の領域に着いたのは午後1時5分。内川小学校堂分校は,へき地等級3級,児童数25名(S.34),明治18年開校,昭和45年閉校。同年堂町閉町。二万五千図(鶴来,1972)を見たところ,分校跡は水没していないようだが,探索する時間は持ち合わせていない。
「惨死者紀念碑 大正9年1月22日 於風吹峠」という古い碑が見当たったので,これを「堂に着いた証し」と考えて先を急いだ。碑の近くには山の斜面で作業をする方が見当たったが,なぜか気が進まず挨拶はしなかった。後で調べたところ「鶴来から風吹峠を越えて堂に戻る時,雪崩に巻き込まれた7名の村人を祀った碑」とのことだが,「惨死者紀念碑」は強いインパクトがある名称だ。

雪崩に巻き込まれた村人を祀った堂町「惨死者紀念碑」

# 23-5
堂を通り過ぎ,「落石注意」の看板を横目に見ながら先に進むと,金沢市企業局,菊水郷友会,金沢中警察署の名前入りの「警告 この地域一帯は水道水源地域につき,ゴミ,空缶等の不法投棄を禁止します。違反した場合,法律で処罰されます」と記された看板が目立つようになってきた。同様の看板は堂にもあったが,数は菊水のほうがはるかに多く,これほど数多い例は他に心当たりがない。
耕された水田を過ぎると三差路があって,午後1時30分,目的地の菊水分校跡へ到着した。内川小学校菊水分校は,へき地等級3級,児童数59名(S.34),明治11年開校,昭和47年閉校。同年菊水町閉町。大きな石碑が建つ分校跡は,「菊水町ポケットパーク」として整備されている。

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    菊水町内で多数見かけた「警告」の看板                   分校跡は「菊水町ポケットパーク」として整備されている

# 23-6
二万五千図(鶴来,1972)を見ると,文マークは集落の入口にあって,少し先に卍マークと鳥居マークがある。これらを目指して先に進むと,お寺の跡は見つからなかったが,存在感があるトタンが掛けられた萱葺き屋根の家屋が見当たった。神社跡は集落跡の最奥で,自転車を下りて山へ入ると,石碑と鳥居が建っていた。「八幡神社 境内跡地」と刻まれた石碑(平成14年建立)には,合祀先と思われる市布神社の宮司の名前があった。
神社の手前には入口にホワイトボードが置かれた家屋があって,元住民の方が時々戻られている様子が垣間見れた。近くの畑の一角には「菊水 旧後谷」と刻まれた小さな石碑が見当たった。後谷は,昭和29年まで使われていた菊水の旧名である。見所が多い菊水だったが,探索は30分ほどで切り上げた。

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    菊水集落跡に残る古くからの家屋                      集落跡の最奥に神社跡の石碑と鳥居が建っていた

# 23-7
道中では,9月20日(日)から始まった秋田県廃村フィールドワークの影響で,従来よりも田畑や森林の様子,不法投棄禁止の看板などが気になった。水田の近くの家屋で元住民のご夫婦と出会ったので,ご挨拶をして「農作業の道具はどうしているのですか」と尋ねると,「市内の家から軽トラで運んでいる」とのお返事だった。しかし,9月23日(水)に秋田から浦和に戻り,3日後に金沢の廃村を訪ねるというのは,我ながら強行軍だ。
堂・菊水を訪ねて,これまでの「不法投棄禁止の看板を見る機会はあまりない」という認識は改められた。しかし,堂・菊水でも細かいものを除き,不法投棄自体を見ることはなかった。

# 23-8
菊水からの復路の坂は,堂町北側と小原町北側の上り坂を除くと下り坂の連続で,行きは3時間かかった22kmの道のりを1時間40分で走ることができた。高低差は往復すればプラスマイナスゼロだ。「どこか人生に通じるものがある」と感じた。順調に金沢駅に戻ることができたため,予定通り金沢駅発午後4時1分のサンダーバードに乗ることができ,新大阪駅には夕方6時32分に到着した。
翌27日(日)と28日(月)は三たび病床の父を見舞ったが,三度とも静かに眠っていた。「お父さん」と声をかけて返事がなかったのは残念だが,静かに眠っているのはよいことのように思えた。父と会う機会は,これが最後となった。



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