申年の 旅の始めは四国まで(1)

申年の 旅の始めは四国まで(1) 高知県香美市上岡

廃村 上岡(かみおか),閉校から54年を経た分校跡の建物が残る



2016/1/10 香美市(旧物部村)上岡

# 25-1
「500か所超えへの道」の旅も5年目に入り,当初331か所だった累計訪問数は482か所(500か所超えまで残りあと18か所)まで来た。「今年中には達成できるであろう」という申年の旅の始めに目的地としたのは,高知県香美市の戦後開拓集落 上岡(Kamioka)だった。
上岡は標高825mの深い山の高原面にあって,行き着くことの難しさから「四国本土一番の難関」と呼ばれており,平成27年3月にも目指したが行くことはできなかった。今回のリベンジは,前回と同じく,高知県在住のネット仲間 大原さん(私の同世代の男性)と一緒に出かける予定を立てた。前回は往復鉄道を使ったが,今回は往路を飛行機,復路を鉄道(レール&レンタカー)とした。

# 25-2
平成28年1月10日(日),天候は晴,起床は未明5時頃。羽田から乗ったANAの飛行機が高知空港に到着したのは朝9時35分。空港には大原さんが待ってくれていて,約1年ぶりの再会。大原さんによると「今年の高知は1月上旬にしてはとても暖かい」とのこと。
旧物部村の中心集落 大栃でR.195から離れ,宇筒舞林道を川に沿って山へと向かうと,やがて人家は見えなくなった。すでに十分山の中なのに,見上げる稜線に分校跡の校舎が残る開拓集落跡があるとは,にわかに信じがたい。途中に架かっていた赤い橋から山道に入るルートもあるが,今回は廃村探索の仲間 おきのくにさんが用意してくれた物部村森林汎用図に詳細が掲載された,渓谷の合流点から主渓谷(川之瀬谷)を遡上するルートを選んだ。

渓谷の合流点付近の主渓谷(川之瀬谷)には堰がある


# 25-3
このルートは,渓谷を遡上する部分と急斜面のけもの道(往時の生活道)を登る部分に大別される。渓谷の合流点付近にクルマを停めたのは午前11時10分頃。合流点付近の標高は440m,上岡までの距離は2kmほどだが,高低差は385mある。歩き始めの川之瀬谷には高さ3mほどの堰があるが,向かって右側には森林軌道の跡があり,これを使って巻くことで,越えることができた。
堰を越えてからしばらくは,ときどき渡渉しながら川の流れに沿って歩いていたが,進行方向右側には森林軌道の跡が続いている。「軌道跡を歩きましょうか」という大原さんの声から,これを使って進むことになった。森林軌道のことは事前に察知しておらず,意外にして面白い展開と言える。

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森林軌道跡の石垣は,各所に残っていた                      川に沿った細切れの森林軌道跡を歩く

# 25-4
川之瀬谷では,川を歩くよりも,森林軌道跡を歩く時間のほうが長かった。ただ,軌道跡は各所で崩壊しており,連続しては使えない。崩壊箇所は川を歩くため,高さ5mほどの登り降りを繰り返さなければならず,距離のわりには時間がかかった。私は森林軌道跡をしっかりと歩くのはこれが初めて。大栃林用軌道の支線で,昭和30年代前半まで使われていたらしいが,その正体は不明である。
途中,落ちていた「山火注意 瑞穂公団造林地」の看板には「契約期間 昭和37年度から40年間」と記されていた。瑞穂は大字上岡の字名(分校の所在地)で,上岡の離村は昭和37年1月のこと。集落跡に係わる看板の登場に「このあたりから山を登るのでは」と思ったが,登り口はまだまだ先だった。

# 25-5
川之瀬谷の川歩き区間距離は1kmほどのはずだが,出発から1時間を経過してもまだ登り口にたどり着かない。「見逃して,先に行ってしまったのでは・・・」と心配になってきた頃,行く手の視界が少し広がって,川の左手に登り口を示すリスの絵入りの看板が見つかり,その先にはけもの道(往時の生活道)が続いていた。後の調べで,山でよく見かけるこのリスは,まといリスという名前の昭和47年に考案されたキャラクターということがわかった。
私は,ここで長靴から普段履いている革靴風スニーカーに履き替えた。山に詳しい大原さんは,スパイク付きの長靴を履いている。時間を考えると,大原さん単独で行ったほうが能率がよいはずだが,「これは,一人では行けないなあ・・・」と大原さんは話していた。

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まといリス入り「山火事注意」の看板が上岡への登り口を示す            スギ林の中,斜度が大きいけもの道をゆっくりと歩く   .


# 25-6
登り口の標高は480mに対し,上岡は825m。標高差は345mもある(距離は1kmほど)。「30分あれば着くのではないか」という思惑だったが,30分登っても,まだまだけもの道が続いている。斜度が大きいため,スピードが出ないのだ。冬の山歩きだが,私も大原さんも暑さのため汗をかいた。けもの道はおおむねしっかりしていたが,ガレ場では,少々危うい感じがした。
歩き始めて2時間強,けもの道に入ってからでも40分強,ようやく傾斜がゆるんで石垣が目の前にそびえ,午後1時20分頃,上岡に到着した。昭和37年に無住化した集落跡地には村によって牛の放牧場が作られた。しかし,放牧場は昭和48年頃に廃止となり,跡地は村有林となってスギが植えられた。

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校舎は「違う建物ではないか」と思わせるほどしっかりと建っていた           校舎の中には,年代物のTVが置かれていた      .


# 25-7
石垣からゆるい坂を進んでいくと,行く手に建物が見つかった。これこそが,目指してきた上岡分校跡の校舎だ。河口小学校上岡分校は,へき地等級4級,児童数8名(S.34),昭和23年開校,昭和37年閉校,同年閉村。最終年度(S.36)の児童数は6名。開拓集落は、昭和23年の入植時からしばらくはまずまずの成果を挙げたが,水の不便さ,土壌の悪さなどのため,撤退を余儀なくされた。
校舎の左隅には,平成27年3月中津尾で見たのと同じ形の小さな学校跡の石碑が見当たった。建物は何かしら管理されているようで,中は整然としていた。平地には電柱が建っていたが,これは自家発電のものだ。「開拓集落でも自家発電がなされていたんだろうか」と,大原さんと話をした。

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      校舎の隅には,小さな学校跡の石碑が見当たった         放牧場の名残りの餌場と思われるコンクリの施設


# 25-8
尾根筋の集落跡には,軽トラなら今でも通れそうな幅がある道があり,道は分校跡から左右(東西)に続いている。東の道を行ってみると,放牧場の餌場と思われるコンクリの施設が見当たった。「この道はどこに通じているのだろう」と,大原さんは興味深げなのだが,先に行き過ぎると,日暮れまでに山を降りられなくなる可能性が出てくるので,分校跡から500mぐらいで引き返した。
現地の探索で,見つけたかったのが,放置された軽トラと索道の施設跡だった。「村影弥太郎の集落紀行」Webに載っているものであるが,どこにあるかについては,しっかり読んではいなかった。

# 25-9
続いて西の道を歩いて進んだ。おきのくにさんの資料を見ると。西の道は分校跡から500mぐらいまで続いている。「日暮れの時間を考慮して,3時頃には出発しましょう」と,昼食時に決めた制限時間が近づいてきて,「見つからなかったら,めちゃくやしいですね」と言い始めた頃,道の先に噂の軽トラが現れた。私達は,分校跡に到着したときと同じぐらい嬉しかった。
索道の施設跡は道の終点にあり,放置された軽トラを過ぎるとすぐに見つかった。急斜面の尾根上の戦後開拓集落では,この施設を使ってさまざまな物資が運ばれたことだろうか。巻上げ機の小屋は,管理されていないはずだがエンジンを含め,とてもしっかりと残っていた。

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車道は通じていないはずの尾根上に見つかった廃車の軽トラ         「開拓集落で使っていたのだろうか」と思った索道跡の巻上げ機


# 25-10
帰り道は,来た道をそのまま戻ることを基本とした。山道を30分ほどで降りて,まといリスの前で長靴に履き替えて,川之瀬谷は,川中を3分の1,軌道跡を3分の2ぐらいの割合で歩いた。問題は,軌道跡のガレ場(崩落)部分だ。大原さんが先導で歩くから,多少の踏み跡はできるが,谷にすべり落ちたらケガは免れない。10mほどのガレ場を越えるのに5分かかった箇所があった。さすがに「川中を歩くほうが安全だ」と思った。
帰り道は,上岡発午後3時15分,登り口着3時45分(所要時間30分),登り口発3時50分,クルマの地点着4時45分(所要時間55分)だから,登り口の休憩を足しても所要時間1時間半。行きと比べると40分ほど短縮されていた。

「上岡まで通じているのでは」と思った宇筒舞林道90支線で迎えた夕暮れ


# 25-11
宇筒舞林道の本線は,峰を越えて中津尾へと向かっている。川之瀬谷に沿う分岐道は,宇筒舞林道90支線と呼ばれる。夕闇が迫る中,大原さんと行けるところまで行ってみると,90支線に入って2kmほどでクルマでは走れない崩落箇所があったが,歩いてならばまだまだ先へ行けそうだった。私と大原さんは「上岡へ通じている林道があるとすればこの林道ではないか」と話しながら,夕暮れの空を見上げた。
この日の宿は,県庁近くの「オリエントホテル高知」。ホテルまで大原さんに送っていただいた。自転車を借りてスーパーに土産を買いに行った後,遅めの夕食でビールとともに頼んだ高知名物「みそカツラーメン」は,よく体を動かした一日の〆にはちょうどよい塩梅の味だった。

(追記) その後の調べで,校舎は昭和48年頃から村有林管理のための施設として使われ,自家発電施設,軽トラが走れる道,索道の施設は,すべて村有林管理のためのものとわかった。また,上岡の道は宇筒舞林道90支線を含め,どの道にも接続していないことがわかった。軽トラは,上岡での運転専用に索道で運ばれたらしかった。



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