梅雨の中 500か所まであと7つ

梅雨の中 500か所まであと7つ 兵庫県朝来市上生野

廃村 上生野(こうじくの),ダム湖の中に神社(水神様)が建つ



2016/6/24 朝来市(旧生野町)上生野

# 27-1
北海道・道東の旅が終わり,「廃村千選」の累計訪問数は492か所となり,いよいよ500か所超えが視野に入ってきた。達成時期は,500か所超えの道の旅の開始が平成24年8月(新潟県五泉市上杉川,門原,仙見谷)だったことから,丸4年目になる平成28年8月にしようと焦点を定めた。
そして「いつどこにいくか」だが,自由に動くことができる時間は限られている。6月下旬に土日出勤の大阪出張があるので,その前後に振休をとって,比較的行きやすい足を運べるポイントを考えた。その結果,金曜日(6/24)は兵庫県朝来市上生野(Koujikuno),月曜日(6/27)は岐阜県下呂市卯野原,弓掛,下山を訪ねることになった。季節は梅雨時。雨が降っても訪ねやすいダム建設関係の廃村に的を絞った。

# 27-2
平成28年6月24日(金),起床は4時45分,曇り空ながらすでに空は明るい。東京駅6時50発ののぞみは本数が多い時間帯のためか空いている。播但線への乗換え駅 姫路駅到着は9時58分。姫路で途中下車するのは今回が初めて。新幹線のホームから,世界遺産 姫路城(別称 白鷺城)が見えた。姫路城を見るのも初めて。印象的なその白さには,きれいというよりは妙な感じがした。
「はまかぜ」への乗換えに時間があったので,改札を出たら外は雨。 城の方向に向かってアーケードがある商店街が続いていたので,行けるところまで行ってみた。遠くから見ても近づいてみても,城の存在感は強かった。

雨の中,駅前から見た姫路城。駅と城は直線距離で1q少しある


# 27-3
上生野を訪ねるにあたって,どうしようかと思ったのは交通手段だった。最寄り駅生野から上生野までは約9km。離村記念碑があるらしい湖畔には銀山湖バス停があるが,調べたら土日にしか便はなかった。クルマを借りるほどの距離でもなく,自転車を使うのがちょうどよいと考えた。幸い,生野駅構内には観光案内所があり,「銀チャリ」と呼ばれるレンタサイクルがあった。
「はまがぜ」が生野駅に着いた午前11時28分,姫路よりも雨は強くなっていた。中止も考えられる悪天だったが,合羽を着て,観光案内所の方に見送られて,銀山湖・上生野へと向かった。我ながら物好きだ。

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雨の中,レンタサイクルで生野駅を出発                        雨の中,奥銀谷小学校跡でひと休み


# 27-4
生野はかつて銀山で栄えた町として知られる。生野銀山は昭和48年に1200年の歴史に幕を閉じたが,史跡は動き続けていて,三菱マテリアルの工場も稼働している。私は生野を訪ねるのは初めて。山間の鉱山町,鉱山史跡は面白そうだが,この天気では目的地に向かって淡々と走るしかない。瀬戸内海へ流れる市川に沿いながら,駅から3kmの奥銀谷小学校跡(平成21年閉校)まで着いて一服したとき,「何とかなるかな」という気になった。
小学校跡から手前の集落 竹原野を経て銀山湖へ向かう坂道で、自転車を押して歩きながら,私は「バイクに乗っていた頃は,荒天の中,よく合羽を着込んで走ったもんだったなあ」と,妙ななつかしさを感じていた。何とか生野ダムの堤体までたどり着いた先は,自転車に乗ることができた。

# 27-5
目的地 上生野・銀山湖バス停そばの「湖畔」というレンタルボートの店に到着したのは午後1時。店のご主人(秋山さん,私と同世代の男性)とは事前に観光案内所を通して連絡を取っており,奥銀谷小学校跡からは電話もしておいた。雨の中,誰かが待っていてくれるだけでもずいぶん心強かった。
上生野小学校(のち奥銀谷小学校上生野分校)はへき地等級無級,児童数41名(S.34),明治7年開校,昭和46年閉校。『角川・日本地名大辞典』には,「最盛期(S.5)の上生野は81戸380名。県営生野ダム建設のため,昭和46年に離村。67戸のうち34戸が生野町内円山地内の西山へ集団移住し,新しい上生野集落を形成」との旨が記されている。その後,生野ダムは昭和48年に竣工している。

上生野・雨の中,何とかレンタルボートの店「湖畔」まで到着

# 27-6
「湖畔」では,姫路駅で買ったたこ弁当を食しながら,秋山さんからは「「湖畔」の建物は,移転の際,現地の拠点となるよう,移転の際の条件のひとつとして建てられた」こと,「湖の中の水神様は平成18年にできた新しいもので,水没前の神社が移転したものではない」こと,「以前はここに出身者が集うこともあったが,年を重ねるごとになくなっていった」ことなど,いろいろな話をうかがった。
建物の敷地には「懐郷碑」(昭和45年4月,生野ダム対策協議会建立)がひっそりと建っていた。碑の裏面には地区別に離村者名(67名)が刻まれており,本村(登組,中組,上組,下組)のほかに菅町,魚ヶ滝という少し離れた枝村の名前もあった。なぜかネコが登場したので,あわせて写真に収めた。

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「湖畔」の敷地に建つ「懐郷碑」(上生野の離村記念碑)                    離村記念碑の下に登場したネコ       .

# 27-7
上生野での滞在が可能な時間は約時間,「湖畔」よりも少し先,法道寺谷にかかる橋まで自転車を走らせたが,集落の気配が感じられるは見当たらなかった。五万地形図(但馬竹田,S.43)には,法道寺谷と市川の合流点付近に文マークが,その少し上流部に卍マーク(法道寺)が記されているが,今はともに湖底となっている。湖畔の道はR.419だが,荒天の平日のせいか,クルマの量はわずかだった。
改めて地形図を見ると,菅町,魚ヶ滝はともに水没しておらず,キャンプ場などの施設があることがわかった。しかし,雨の中の自転車では,上生野本村まで行ければ十分と言えそうだ。バスの終点集落 黒川は,魚ヶ滝よりも上流部にある。上生野は,ダム建設がなかったら存続していたのであろう。

分校跡は,「湖畔」の建物と水神様を結んだやや左手の湖底にある

# 27-8
上生野から生野までの復路は,ほぼ下り坂。雨がやや小降りになったこともあり,足取りは軽く,9kmの道のり,往路1時間20分に対して復路は50分で走ることができた。二万五千図(但馬新井,生野,S.49)を見ると,生野市街のすぐそばには低い分水嶺があり,市街地から3kmほど北にある上生野の移転地 円山は日本海に注ぐ円山川沿いに位置しており,地勢的にも面白い場所ということがわかった。いつか晴れた日に再訪してみたいものだ。
生野駅からは午後3時20分発の「はまかぜ」に乗って,大阪へと向かった。見知らぬ町 生野から1時間25分で,見慣れた大阪駅に到着していた。上生野を訪ねて,「廃村千選」の累計訪問数は493か所となった。あと7か所の訪問で500か所達成だ。



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