梅雨晴で 500か所まであと4つ

梅雨晴で 500か所まであと4つ 岐阜県下呂市卯野原,弓掛,下山

廃村 下山(しもやま),離村記念碑には世帯主24名の名前が刻まれていた



2016/6/27 下呂市(旧金山町)卯野原,弓掛,(旧馬瀬村)下山

# 28-1
平成28年6月下旬,土日出勤の大阪出張の後に訪ねた岐阜県下呂市卯野原(Unohara),弓掛(Yugake),下山(Shimoyama)は,ダム(岩屋ダム)建設関連の廃村である。旅は単独,レンタカーで出かけた。備えは往時の五万地形図,「地理院地図」Webの地形図画像など,最小限に留めた。
6月27日(月),起床は早朝5時40分,ありがたいことに天気は梅雨の晴れ間だ。新大阪駅からひかりに乗って,途中下車した岐阜羽島着は午前9時14分。駅近の岐阜羽島ICから名神高速に乗り,一宮JCTから東海北陸道に入り,どのルートを使ったら能率がよいかわからなかったが,できれば郡上市八幡方面からよりも下呂市金山方面から行きたいと思ったところ,下呂温泉を示す案内板があったことから,東海環状道富加関ICで一般道に下りることになった。


# 28-2
富加関ICを下りて合流した県道58号線(関金山線)は,町と田舎の中間ぐらいの風景が続くが,流れはよく走りやすい。北条峠,袋坂トンネルを越えて,JR高山本線の飛騨金山駅に到着したのは午前11時15分。「飛騨」という感じがあまりしないので後で調べると,平成の大合併前の益田郡金山町は,昭和の大合併前は武儀郡金山町で「美濃」に属していた。さらに卯野原,弓掛は旧郡上郡東村で「美濃」,下山は益田郡馬瀬村で「飛騨」だった。
馬瀬川沿いの県道86号線(金山明宝線)をさかのぼって,馬瀬川第二ダムを過ぎた場所(乙原あたり)には,想定外の高規格道のIC(金山IC)があってびっくり。後で調べると,高規格道は濃飛横断自動車道の一部で,郡上八幡方面(金山IC−和良IC)はこの3月に開通したばかりだった。

大きなロックフィルダム・岩屋ダムと東仙峡金山湖


# 28-3
高規格道を立体交差で通過し,たどり着いた岩屋ダムでは堤体にクルマを停めて一服。岩屋ダムは堤高127.5m,総貯水容量1億7350万立方m,昭和51年竣工。大きなダムだが,その名称は堤体手前の小集落 岩屋(学校跡がない廃村)に因んでいる。岩屋は水没していないが,気に留めずに通過した。
岩屋ダムは,洪水調節,上水道供給,工業用水供給,水力発電などを担う多目的ダムで,ダム湖名は東仙峡金山湖,主な水道消費地は名古屋市とのこと。水没戸数は157戸にも及ぶが,水源地域対策特別措置法(水特法,昭和48年施行)施行の直前に補償交渉が妥結したため,法の指定は受けていない。岐阜県でダム関係の廃村というと徳山村が有名で,廃村千選のダム関係の廃村は14か所,その数は全国一である。

# 28-4
岩屋ダムの堤体は車道となっており,これを使って右岸に渡ると,道は地域の方しか走らないようなか細さになった。しばらく走ると視界が開けて,卯野原神社に到着したのは午後12時5分。岐阜羽島駅から3時間近くかかっているが,これは想定内のことで,走行距離は124qあった。神社はダムができる前の五万地形図「下呂」(S.43)をみると,卯野原地内の田畑(Tabata)という小集落のエリアに建っている。
卯野原神社は,ダム建設時に地内の5社を合祀されたもので,境内には大きな社殿と忠魂碑が建っていたが,人の気配はまったくない。私は石段に座り,梅雨時とは思えない青空の下でおにぎりを食した。食後に神社の裏手を歩くと,往時の耕地跡と思われる石垣があった。

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 湖畔に建つ卯野原神社(昭和51年建立)                      卯野原神社・境内の大きな社殿と忠魂碑


# 28-5
卯野原にあった東第二小学校は,へき地等級1級,児童数108名(S.47),明治6年開校,昭和46年閉校。五万図の文マークは川の左岸に記されているが,もちろんダム湖に水没している。神社の北側に軽四輪が停まっていて,そばの林の中には作業小屋が建っていた。私はクルマを停めて,居られた地域の方(年配の男性)とご挨拶をして学校跡について尋ねたところ,「学校は左岸にあったが,石碑など特別なものはない」とのことだった。
卯野原神社からは,か細い右岸の道を進み,細越橋で県道86号線に戻り,上流部の弓掛を目指した。ダム湖が川に戻ったあたりで迎えてくれたのは「飛騨金山の森・押洞地区」という案内板だった。少し先まで走ると,一目で「分校跡ではないか」と思った「憩いの家 もみじ」が見当たった。

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一目で「分校跡ではないか」と思った弓掛分校跡                  離村記念碑「故郷の碑 弓掛区」(昭和47年建立)


# 28-6
東第二小学校(のち東第一小学校)弓掛分校は,へき地等級2級,児童数64名,明治6年開校,昭和47年閉校。五万図を見ると押洞(Oshibora)は弓掛地内の小集落名で,文マークは中平(Nakahira)に記されている。場所的に見ても今残る「憩いの家 もみじ」の建物は,往時の校舎を改装したものに違いなさそうだ。そして分校跡の平地の一角には,世帯主54名の名前が刻まれた「故郷の碑 弓掛区」という離村記念碑が建っていた。
住宅地図に多くの建物が記されていたので,私は長らく弓掛を高度過疎集落と考えていた。しかし,それは誤りで,弓掛集落のうち水没しなかった部分については,「飛騨金山の森キャンプ場」という野外活動施設として活用されていたことがわかった。

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弓掛谷川右岸から見た左岸の吊り橋跡の橋脚             人工林の中には,右岸の橋台も残っていた        .


# 28-7
「飛騨金山の森キャンプ場」Webによると,弓掛の離村は昭和48年,キャンプ場の開設は昭和54年。運営者の有限会社 弓掛観光開発は,地域の方が運営されていた。弓掛に滞在できる時間は1時間弱。「何を見ようか」とキャンプ場の総合案内所そばにクルマを停めて,上流方向に歩いていると,川(弓掛谷川)に吊り橋跡の橋台が見当たった。五万図を見ると,中平から対岸の奥平(Okuhira)に渡る下手の橋のようだ。
今架かる橋(長渕橋)で右岸に渡ると,石垣などに往時の匂いが感じられた。石垣を頼りに川に近い人工林を歩くと,右岸に残る橋台を見つけることができた。右岸のキャンプ場の名前を確認すると,奥平ではなく上平(kamihira)だった。

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           弓掛・整った白山神社の拝殿                   神社参道の灯籠が,キャンプ場のバンガローのそばに起立する


# 28-8
神社(白山神社)の所在がわからないので,総合案内所対面の炭焼窯の辺りで作業をされていた観光開発の方に尋ねたところ,「少し下流側の小高い山の斜面に残っている」と教えていただいた。県道から枝道に入って,心当たりをたどっていくと,枝道を横切るような参道が見出され,左に折れて石段を上がると整った神社の拝殿が迎えてくれた。
拝殿からまっすぐ参道を下りていくと,その先には灯籠が待っていた。キャンプ場のバンガローのそばに起立する灯籠は,微妙に調和していた。弓掛に心地よさを感じたのは,月曜の昼下がり,観光の方の姿がわずかたったことと,この地を愛する地域の方が運営されていたことからなのだろう。

# 28-9
弓掛からは来た道を戻り,3つ目の廃校廃村 下山へと向かった。馬瀬大橋南側の三差路で県道431号線(下山名丸線)に入り,4qほどさかのぼると,左手にひと目でそれとわかる下山の離村記念碑が見出された。旧馬瀬村中心部はさらに上流部にあるが,訪ねるには時間がなく,碑を折り返し点とした。
下山の離村記念碑は,「私たちの故郷 馬瀬村下山区」という主碑と「永久に 想い出の ふるさとを偲び しるし残さむ この碑」という詩の副碑からなり,副碑には世帯主24名の名前が刻まれていた。移転先を見ると,下呂市旧萩原町と関市が多く,地元旧馬瀬村は皆無だった。五万図と見比べると,石碑は下山地内の中垣内(Nakagaitsu)という小集落が湖底となったあたりに建てられている様子だった。

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  下山の離村記念碑「私たちの故郷」(昭和51年建立)             湖畔から山に入る道沿いには,養魚場らしき施設があった


# 28-10
総島小学校下山分校は,へき地等級1級,児童数34名,明治38年開校,昭和46年閉校。五万図を見ると,文マークは下山地内の白畑(Shirebata)という小集落のそばに記されている。碑よりやや下流側に足を運んで確認したところ,心当たりの場所は湖底となっていた。湖畔から山に入る道沿いには,耕地跡の石垣や養魚場らしき施設があったが,人の気配は感じられなかった。
下山からダム湖を一周する形で堤体に戻る道の途中,「地理院地図」Webの地形図に碑マークがある場所を確認すると,そこには「ふる里」と記された卯野原の離村記念碑が見当たった。碑の裏面には世帯主82名の名前が刻まれていた。碑の場所の対岸には,はっきりと卯野原神社が見えた。

卯野原の離村記念碑「ふる里」(昭和51年建立)


# 28-11
卯野原からの帰路は,「高速道・高規格道はなるべく使わないで行こう」という判断から,放生峠を越えて関市旧上之保村を通るルートを選んだ。県道85号線(金山上之保線),県道58号線(関金山線)の走り心地がよかったこともあり,富加関ICは通過して,東海北陸道 関ICまで引っ張った。帰路の卯野原‐岐阜羽島は,100qを2時間半(うち高速道は38km・30分)で戻った。
岐阜羽島駅からは午後6時14分発のひかりに乗って,東京・埼玉へと戻った。残る岐阜県の未訪廃村は,39か所中15か所。岐阜羽島には何度か途中下車することになりそうだ。卯野原,弓掛,下山を訪ねて,「廃村千選」の累計訪問数は496か所となった。あと4か所の訪問で500か所達成だ。



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