炎天下 500か所まであと1つ

炎天下 500か所まであと1つ 滋賀県高島市北生見

廃村 北生見(きたうみ)では,電話ボックスを背にした利水記念碑が見られた



2016/8/2 高島市(旧今津町)北生見
[ 追分,南生見 ]

# 29-1
関西の「廃村千選」のポイントは,長い間40か所で収まっていた。新たな発見は平成28年1月,よりによってウィキペディアの「ゴーストタウン」の記事からだった。それは滋賀県旧今津町北生見(Kitaumi),何でも陸上自衛隊饗庭野(Aibano)演習場の騒音対策で平成4年に集団移転が行われたという。
自衛隊演習場の騒音対策で生じた廃村といえば,王城寺原演習場に隣り合う宮城県大和町嘉太神(Kadaijin),升沢(Masuzawa)があるが,滋賀県にあるとは思いもよらなかった。饗庭野演習場は,明治19年創設という歴史を持ち,近江今津は自衛隊基地の門前町という側面を持っていた。そのことどころか,私は「饗庭」という旧新旭町にある地名の読み方すら知らなかった。「500か所超えの前に行っておきたい」と思ったのはいうまでもない。

# 29-2
平成28年8月2日(火),起床は朝6時頃,雲ひとつない晴天。大阪・堺から京阪電車の淀屋橋に出て,三条京阪,浜大津を経由して坂本の廃村研究の先駆者 坂口慶治先生宅に立ち寄った。坂口先生は昭和12年生まれ(御年78歳)。この日はお留守だったが,奥様に温かく迎えていただいた。
湖西線の車内での昼食を挟んで,近江高島の滋賀民俗学会・菅沼晃次郎先生宅にも立ち寄った。菅沼先生は昭和2年生まれ(御年88歳)。昭和38年9月に月刊誌「民俗文化」を創刊し,私の投稿が巻頭に掲載された平成28年6月号は第633号になる。53年間,1号も欠かさず刊行を続けるそのパワーは敬服するしかない。菅沼先生に『廃村をゆく2』について「この内容でこの値段は,驚くほど安い」という評価をいただいたのは,とても光栄なことだった。

近江今津駅で自転車を借りて,いざ北生見に向かって出発



# 29-3
近江今津駅着は午後2時17分。自転車が配送する形のレンタサイクルを使って7km先の北生見を目指した。天気が良いのはありがたいが,熱中症が懸念される。不用意にも帽子は持ち合わせていなかった。コンビニでお茶を買って,これを飲みながらR.303を走っていると「気温32℃」の表示があった。
幸いなことにR.303の北側に下弘部,上弘部といった集落の道や農道が続いており,水量豊かな溝はどこか涼しげで心が和んだ。ただ,年のせいか暑さは体に応え,「急がば回れ」と思い,農道の真ん中に座って一服した。農道から再びR.303に入る藺生(Yuu)は平野と山間の境目にあり,少し走るとヒグラシの鳴き声が聞こえ始めた。思いついてペットボトルに入ったお茶を頭からかぶってみると爽快で,「よし,行くぞ!」という元気の源になった。

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    上弘部・農道の真ん中で座り込む                       北生見・集落跡を通るR.303は旧道になっていた

# 29-4
手前の「石原ケミカル」という化学工場を過ぎて,北生見に到着したのは午後3時20分。想定外に集落跡を通るR.303は旧道になっていた。あちらこちらには紐が張られていて「演習場につき立入禁止 今津駐屯地業務隊長」という看板が見られた。
今津西小学校北生見分校は,へき地等級無級,児童数14名,明治8年開校,昭和36年閉校。五万地形図(熊川,S.34)に載った文マークは,鳥居マークのそば,石田川支流の橋の北東に記されている。住宅地図を調べると,分校跡には児童遊園が作られていたようだった。橋が現存しているので,場所はすぐにわかったが,そこには大きな土盛りがなされていて,わずかに往時の雰囲気を醸し出すのは川沿いにあった石垣だけだった。

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   北生見集落跡には「立入禁止」の看板が各所に見られた        川沿いの石垣が分校跡の雰囲気を醸し出す


# 29-5
橋を渡り先に進むと,R.303との交点があって,跨いだ先の旧道沿いには観測施設があって,その横には電話ボックスを背にして利水記念碑,白山神社神餞田の碑が並んでいた。碑はともに明治期のもので,「高島郡三谷村」という昭和大合併時までの自治体名が刻まれていた。これらの碑は,そばに建つ昭和末頃に建てられたと思われる今津町観光協会の看板とともに,「ここに集落があった」ことの証しの役割を担っていた。
観光協会の看板に記された「シイラ祭り」とは,福井県小浜で水揚げされたシイラを白山神社に奉納する秋まつりのことで,平成2年に県の無形文化財に選ばれた。その2年後に集落の消滅とともに,シイラ祭りはピリオドを打った。集団移転は,騒音対策のため,住民が自主的に行ったという。

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   北生見・「シイラ祭り」を記した観光協会の看板               追分・橋の向こうには演習場警備員の詰所が建っていた

# 29-6
二万五千図(饗庭野,H.18)には,北生見の1qほど上流側に鳥居マークが記されている。北生見よりも先に集団移転した追分(昭和49年閉村)に係わる神社のはすだが,足を運んでみると,神社も集落跡も,その気配はまったく感じられなかった。神社マークのすぐそばには石田川に架かる橋があり,その先には饗庭野演習場がある。様子をうかがうと,橋には鎖と「射撃中」という看板があって,その向こうの詰所には,警備する方の姿が見えた。
北生見の川向うにある南生見は,全体が立入禁止区域にある。詰所や警備の方の姿は見られなかったので,「お邪魔させてください」とばかり橋を渡って集落まで足を運んだが,往時を彷彿させるものは「南生見橋」という橋の標板だけだった。何かと緊張感が伴う探索は,正味45分で切り上げた。

琵琶湖・今津港からは,うっすらと竹生島が見えた

# 29-7
帰り道は下り坂。やや西に傾いた日差しを浴びながら,頭から水をかぶりながら機嫌よく自転車を走らせた。少しだけ時間に余裕があったので,琵琶湖の湖岸に寄り道してみると,今津港からうっすらと竹生島を見ることができた。港のそばには「琵琶湖周航の歌」の歌碑が建っていた。「明日は今津か長浜か」。竹生島は今津と長浜の間にある竹生島は古くから信仰の対象とされている島で,歌詞を読みながら「いつか行ってみたい」と思った。
近江今津駅からは夕方4時43発のローカル電車に乗って,北陸経由で埼玉へと戻った。北陸新幹線に乗るのは6回目。近江今津から敦賀,金沢経由4時間13分で大宮に着くのはとてもありがたい。北生見を訪ねて「廃村千選」の累計訪問数は499か所となった。いよいよあと1か所の訪問で500か所達成だ。

(追記1) 坂口慶治先生とは,平成28年9月にお会いすることができた。坂口先生からは「高度成長期後期の廃村は,高校への進学率が上がったことと密接な関係がある」ことなど,興味深いお話をうかがった。

(追記2) 菅沼晃次郎先生は,平成29年2月9日(木),お亡くなりになった(享年89歳)。ライフワークとして取り組まれた月刊誌「民俗文化」は平成28年11月号(第638号)が最終号となった。菅沼先生から教わった「レポートには,少なくても訪ねた年月日と時間を記すこと」,「少しでも地域の方に喜ばれるものにすること」は,強く頭に刻んでいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。



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