番外編 I 表紙撮影で三たび出かけた廃村 鳥取県鳥取市杉森,板井原

廃村 杉森の廃屋のそばには,白いウメの花が咲いていた



3/27/2016 鳥取市(旧用瀬町)杉森,板井原

# 外I-1
平成28年3月中旬,一昨年12月から少しずつ進めていたイカロス出版刊のムック本『日本の廃村をめぐる』(仮題,その後『廃村をゆく2』に決まる)の制作作業が大詰めを迎えた。最大の懸案は表紙で,誰かしらその道に精通した友人の協力を受けることがベストだ。いくつか候補を挙げた中で,編集担当のKさんが選んだのは,鳥取市板井原に残る頑丈な造りの廃屋だった。Kさん曰く「廃村というと,廃屋が並んでいるイメージがある」とのこと。
鳥取市は,10年以上の付き合いがある同人誌のユニット ムサシノ工務店の武部将治さん,一幡公平さんが住む岡山市から比較的近い。「是非協力してほしい」と連絡をしたところ,お二人とも「了解しました」との返事が来た。

# 外I-2
板井原では住まれていた方とやり取りができていないことが懸念されたので,私は「ご挨拶にうかがい,その機会に取材をするところまで進行させよう」と決めた。Webで調べた鳥取市用瀬総合支所のアドレスに相談のメールをすると,その日のうちに担当の方から「了解しました」との電話があった。日程調整をした結果,武部さんは私と合流して,取材と撮影をご一緒することになった。一幡さんは後日撮影に来られることになった。
3月27日(日),朝早く大阪・堺の実家(賃貸マンション)を出発し,「スーパーはくと」に乗って,智頭駅に到着したのは午前9時42分。改札ではクルマで行動する武部さんと合流した。天気は曇時々晴。武部さんは1泊2日の行程で,昨日は鳥取市街の宿に泊まって町中の温泉を楽しんだとのこと。

赤瓦屋根が山陰らしいJR智頭駅の駅舎

# 外I-3
板井原の21戸,杉森の17戸は,昭和50年4月,JR鷹狩駅からほど近い新しい集落 旭丘に集団移転した。10月に花籠祭が行われる旭丘神社の境内にクルマを停めて,取材が行われる公民館まで歩くと,途中の道で「はじめまして」と声がかかった。この方は用瀬総合支所勤務の飯田弘文さん(昭和40年生)で,ご挨拶をしてお話をすると,小学校5年まで板井原で過ごし,今は旭丘に住まれているとのこと。話がスムーズに進んだ理由がわかった。
公民館では,谷村萬吉さん(昭和10年生)が「遠路はるばる,ようこそ」と迎えてくれた。谷村さんは板井原に生まれ育ち,農林業を本業として,用瀬町会議員を勤められた。今も板井原に残る整った家屋は谷村さんの生家で,「近年屋根を新しいものに葺き換えた」と話された。

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     移転地の守り神,旭丘神社                         公民館入口に建つ「同心愛郷」と刻まれた石碑

# 外I-4
公民館入口の「同心愛郷」と刻まれた石碑は,新しい生活が落ち着いた昭和60年に,移転10周年を記念して建てられたとのこと。公民館の中には板井原,杉森の往時の写真パネルが飾られており,谷村さん,飯田さんの説明を受けながら,見せていただいた。
取材では往時の暮らしのこと,移転のこと,今の暮らしのことなどをうかがった。智頭町の上板井原はゆるやかに移転が進み,伝統的建造物群保存地区に指定されたが,個別移転となったため,神社の例祭は途絶えたという。昭和期に集団移転がなされ,花籠祭が県の無形民俗文化財に指定された板井原,杉森とは対照的だ。町境を挟んだ上板井原と板井原の間の交流は,ほとんどなかったとのことだった。

# 外I-5
「秋の花籠祭には,是非参加したいです」と言って,谷村さん,飯田さんと分かれたのは午後1時頃。武部さんと話し合った結果,午後の行程は杉森,板井原,上板井原の順でめぐることになった。昭和30年頃の杉森にマンガン鉱山があったというのは,今回の取材で知ったことだ。「杉森川の対岸に坑道の跡がある」という情報を頼りに,眼を凝らしていると,杉森,板井原の三差路から1qほど進んだ場所に発見することができた。
杉森で気になっていたのは,五万地形図(坂根,H.15)に記されている神社(杉森神社)だった。前回の二度の訪問でも心当たりの場所を訪ねたが,それらしきものは見つからなかった。今回もダメ元で道なき道を上ると,参道らしきものが見つかったが,先の平地はあまりにも狭かった。

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存在自体知らなかった杉森マンガン鉱山跡の坑道                  三度目の訪問で見つかった杉森神社跡の拝殿

# 外I-6
地域の方(Sさん)の軽トラがやってきたので,神社について尋ねたところ,「参道の先,右に曲がってつづら折りの山道を登ると神社がある」とのお返事を得た。お礼を言って,改めて私と武部さんは参道の先に足を運んだところ,道は崩落していた。それでも慎重に斜面を這って先に進むと,往時の道筋が現れて,その先には神社跡の拝殿が構えていた。Sさんに出会わなかったら,見つけることはできなかったことだろう。
杉森に続いて訪ねた板井原では,編集担当のKさんお気に入りの廃屋の写真撮りを主眼とした。私が過去に訪ねたのは平成21年10月と平成27年8月。その時は廃屋に絡まっていたツタは枯れ,茶系色が主体のすっきりとした趣になっていた。

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板井原・ムック本の表紙と同じ構図の廃屋              板井原・ムック本の冒頭と同じ構図の廃屋       .

# 外I-7
武部さんは「この立ち木が邪魔なんですよね」と言いながら,三脚を立てて廃屋の縦の構図を主とした写真を撮り始めた。私は記録写真をイメージして,廃屋を撮った。結果,「光の加減が絶妙によい」というKさんの意向で,この時武部さんが撮った写真が,ムック本の表紙に採用された。4月になって曇り空の板井原を訪ねた一幡さんの写真は,ムック本の冒頭で取り上げられることになった。
最後に訪ねた上板井原では,メインストリートの六尺道に工事が入っていて落ち着かなかったのが残念だった。それでも,外部から入った方が古民家を改装した喫茶店が開いていて,武部さんとひとときやすらぎの時間を楽しむことができた。

上板井原・古民家を改装した喫茶店

# 外I-8
上板井原からは智頭駅まで武部さんに送ってもらい,散会となったのは夕方5時20分。帰路の「スーパーはくと」の車中で,私は両親と四半世紀過ごした大阪・堺の実家(分譲団地)を半年前(平成27年9月)に手放したことをとても寂しく思っていた。谷村さんの生家への思いが伝わったからなのだろう。
父母は平成21年3月に,足腰が弱くなったことを考えて,エレベーターがない5階の分譲団地から3階の賃貸マンションに転居した。父(孝昭,昭和10年生)は平成27年10月28日,分譲団地を手放した1か月後に皮膚ガンで亡くなった(享年80歳)。母(彌生,昭和8年生)は,手放すことができてホッとした様子だった。列車の中では,「大阪に住民として戻ることはないんだろうな」と漠然と思った。



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