333か所超えをめざして下越まで

333か所超えをめざして下越まで 新潟県五泉市上杉川,門原,仙見谷

廃村 仙見谷(せんみだに)の川(仙見川)には,古びた吊り橋が架かっていた



2012/8/18 五泉市(旧村松町)上杉川,門原,仙見谷

# 1-1
冊子「廃村と過疎の風景(6)」集落の記憶(平成24年9月発行)には,「編者が訪ねた廃校廃村」の地図を掲載している。年始(1月)に作った初めての版で記したプロットは305か所。その後,京都,佐賀,長崎,北海道(道央,道南),石川,沖縄の廃村を訪ね,7月に作った大分,宮崎,鹿児島の3県が未訪として残った版に記したプロットは331か所。ここまで来たとき,完成までに「廃村千選」の3分の1超え(333か所超え)を成し遂げたくなった。
「どこへ行こうか」と考えた結果,日帰りで行けて,3か所を比較的簡単に回れて,これまで足を運んでいないエリアにある,新潟県下越 旧村松町上杉川,門原,仙見谷を訪ねることになった。新潟県では中越,上越の廃村にはたびたび足を運んでいるが,下越の廃村には今回が初訪問となる。

JR五泉駅からレンタサイクルで、現地に向かう

# 1-2
平成24年8月18日(土)の起床は朝5時頃。大宮から乗車率まずまずの上越新幹線に乗り,新潟で乗り換えて,磐越西線 五泉駅に到着したのは午前8時48分。廃村までの足にはJRが運営する駅のレンタサイクルを使った。天気が良いことを確かめてから出発できるのは,日帰り旅のよいところだ。
五泉と村松の間には,かつて蒲原鉄道というローカル私鉄線が走っていた(平成11年廃止)。この路線跡をたどったり,田んぼの中の広域農道を走ったりしながら,まずは村松市街へ。かつての村松駅跡は,その雰囲気を残しながら蒲原鉄道の本社となっていて,ここでまずひと休み。村松市街からは,おおむね東に向かって田園地帯を走り,早出川と仙見川の合流点がある比較的大きな集落 川内を次の休憩ポイントとした。

# 1-3
川内小学校(各廃村にあった分校の本校)は,3月に閉校になったばかり。がらんとした広い校庭の静けさとは対照的に,隣の保育園には園児の姿があった。保育園の隣の古い商店にはベンチがあったので,自販機でジュースを買ってひと休みしたが,店の方の姿は見ないままだった。
川内からは先に行くほど山が近づいてきて,早出川と杉川の合流点がある横渡という小集落で,杉川沿いの枝道に入った。杉川沿いの上杉川(Kamisugikawa),下杉川は,かつて収入源だった木炭需要の激減と,比較的町に近くて,かつ雪が多いという地理的な条件から,高度成長期に離村が相次ぎ,昭和50年代にともに無住地となった。下杉川では「十二神社」と記された石柱と祠,ブロックに囲まれた八体のお地蔵さんが見られた。

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下杉川・十二神社のコンクリの祠                          上杉川・赤城神社のコンクリの祠   .

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杉川にかかる橋を渡り,意外に険しい坂を上って上杉川に到着したのは午前11時40分頃。五泉駅から15kmほどのところ,だいぶ回り道をしたので20kmは走ったようだ。上杉川では「赤城神社」と記された石柱と祠があり,その奥には分校跡と思われる建物の基礎が見当たった。
川内小学校上杉川分校は,へき地等級1級,児童数71名(S.34),明治25年開校,昭和49年閉校。「村松町史」には,「昭和40年には39戸210名を数えた上杉川の戸数は,昭和45年には30戸,昭和50年には13戸と激減し,昭和53年には集落の消滅という姿を呈した」と記されている。分校跡の建物は,永く村松町「青少年自然の家」として活用されたが,神社跡の碑が平成9年建立とあるので,同時期に解体されたと推測される。

上杉川・神社の奥に分校跡と思われる建物の基礎が見当たった

# 1-5
分校跡のそば,上杉川のT字路の周囲には,別荘のような建物が二,三軒建っていたが,地域の方には出会わなかった。 T字路をまっすぐ進むと,釜ノ鍔(Kamanotsuba,大字上杉川の字のひとつで廃村)につくられたオートキャンプ場「チャレンジランド杉川」にたどり着いたが,お客さんの姿は見当たらなかった。杉川沿いの林道はきつい上り坂が続いたが,「ここまで」と思うとひと息つくことができた。
いちばん奥の管理棟「冒険の館」を訪ねて,職員の方から施設の概要をうかがい,「面白そうだ」と思って訪ねた「庄屋の館」は江戸時代の上杉川の庄屋を移築した建物。時間はちょうど正午頃,昼食休みはここでとった。

# 1-6
昼食後は,上杉川のT字路まで戻って,杉川の谷から峠を越えて,仙見川の谷にある廃村 門原(Kadohara)を目指した。峠にある門原トンネル(平成6年建設)は,廃村を結ぶ道としては高規格だが,距離が短い(189m)こともあってか照明はついていなかった。
「どんなところだろう」とたどり着いた門原には,ログハウスがあるだけで,「かつて村があった」ことを感じさせるものは,ダートの枝道沿いにあった十二神社ぐらいだった。雪が深い地域らしく,神社の祠はコンクリの建屋で守られていた。五万地形図(加茂,S.45)の神社マークは,今の神社がある位置よりも少し上手(山寄り)に記されており,神社の碑の建立は,平成10年7月となっていた。

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ふたつの廃村(上杉川−門原)を結ぶ門原トンネル                  門原・十二神社のコンクリの建屋で守られた祠  .

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川内小学校上杉川分校門原冬季分校は,へき地等級2級,児童数11名(S.34),明治32年開校,昭和42年閉校。門原の文マークは地形図に記されておらず,どこにあったかは,皆目見当がつかない。門原では,仙見川で水遊びをして,ひととき涼を楽しんだ。
門原からの仙見川沿いの林道(哺土原林道)は起伏がほとんどない下り坂で,自転車の走りはとても快適だ。林道ですれ違ったのは,クルマが2台,ロードタイプの自転車が1台だった。哺土原という聞きなれない名前がついたこの林道,門原から上杉川を経て早出川ダム方面まで続いているようだ。門原から2kmほど下手,穴沢橋と渡ってしばらくすると,左手にお地蔵さんが見当たり,「仙見谷(Senmidani)集落跡に到着した」と感じた。

# 1-8
お地蔵さんの裏手の木立には,墓石が一基佇んでいた。自転車を停めて茂みに入ると,近くにはお墓のような敷石が見当たった。少し進んだ道の右手に人なら入れる小道があったので,歩いてみると,真ん中にお地蔵さんが立ったお墓のような敷石が見当たった。今は無住の仙見谷だが,お墓があちこちにあることから,「往時はかなりの規模があった」ことが想像された。
さらに少し先に進んだ左手には,広めの幅の小道があったので,歩いて進んでみると,その先には仙見川があって,赤く錆びた吊り橋が架かっていた。渡った先は山が続くばかりと思われたので,この橋を折り返し点とした。橋の鉄板は日差しのため,焼けるような高温になっていた。

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             仙見谷・仏様が奉られた石積み                仙見川には,赤く錆びた吊り橋が架かっていた .

# 1-9
川内小学校仙見谷冬季分校は,へき地等級1級,児童数23名(S.34),明治32年開校,昭和47年閉校。古い地形図には,橋の近く(手前)に文マークが記されている。周囲には家々もあったはずだが,現況はただの林にしか見えず,季節柄,道を外れての探索はしなかった。
地形図の神社マークは,文マークよりやや下手,進行方向右側に記されている。神社の気配がする分岐の場所で自転車を停めて,道を歩いていくと,林の中に古びた廃屋が見えたり,雨戸が閉ざされた比較的新しい家があったりで,上杉川,門原よりも離村時期が新しい感じがした。
神社は比較的新しい家の脇から続く小道の先,草むした石段の上に建っていて,鳥居の標札には「八幡宮 明治44年奉納」と記されていた。

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仙見谷・木製の鳥居,建屋が残る八幡宮                  集落跡には,草に埋もれた古い家屋が見られた

# 1-10
仙見谷からは,少し下って川の向こう側の桑沢(Kuwazawa)という学校跡がない廃村にも足を運んだ。桑沢には家屋が3軒ほど建っていたが,人の気配は感じられなかった。しかし,集落の入口に流水があったので,これを飲み水に使った。
桑沢を後にして,山と平野の境目の集落 夏針までたどり着くと現実に戻った感じがしたが,広々とした田んぼも,街の暮らしでは見られないものだ。夏針でジュースを飲んで一服して,その少し先,下阿弥陀瀬という集落の田んぼの真ん中には神明宮という神社が見当たったので,「目指した廃村へ無事に行けた」ことに感謝して,この地の神様にご挨拶をした。

帰り道・下阿弥陀瀬には田んぼの真ん中に神社(神明宮)があった

# 1-11
下阿弥陀瀬からは,村松市街地東端をかすめて,できるだけ一般道を避けて田んぼを通る道(広域農道)を使って,帰り道をたどった。駅に戻り着いたのは夕方4時50分頃。戻り道はほぼ最短距離で走ったので,走行距離のトータルはおよそ42kmとなった。
自転車を返した後は,五泉市街を散歩しながらスーパーでお土産を買って,帰路は磐越西線のローカル列車でビールを飲みながら会津若松,郡山を経由して東北新幹線に乗り,大宮に帰り着いたのは午後10時半。郡山始発の「なすの」は,お盆休みとは思えないほどガラガラだった。
仙見谷で「廃村千選」の333か所超え(3分の1超え)を成し遂げたこの旅は,同時に500か所超え(2分の1超え)の旅の先陣となった。

(追記) その後の調べで,上杉川分校跡は赤城神社よりもやや下手にあることがわかった。また,2016年11月に訪問した村影弥太郎さんのレポートで,門原冬季分校跡は今の十二神社の場所ということと,仙見谷の吊り橋は落ちたことがわかった。



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