SLで 春に誘われ中越へ(1)

SLで 春に誘われ中越へ(1) 新潟県小千谷市十二平,魚沼市小芋川,___
________________________長岡市牛ヶ首,小千谷市源藤山,桂平,孫四郎

廃村 小芋川(こいもがわ)の畑の中には,分校跡の階段が残っていた



2012/5/24 小千谷市十二平,魚沼市(旧堀之内町)小芋川,_______
______________________長岡市(旧川口町)牛ヶ首,小千谷市源藤山,桂平,孫四郎

# 2-1
「廃村千選」累計訪問数500か所超えの旅,平成25年(巳年)5月の目標には,新潟県中越の農山村の廃村12か所を選んだ。新潟県は私が住む埼玉県から比較的近く,廃校廃村は81か所もある(うち中越は48か所)。
平成25年のGWには,大学生の頃から著者と読者の関係でなじみがあった堀淳一先生が主催するコンターサークルの房総半島 野島崎近辺(長尾橋,滝山繞谷丘陵)フィールドワークに同行する機会を得た。このフィールドワークをきっかけに,二万五千分の一地形図(二万五千図)をしっかり見ることの大切さを再確認した。今回の旅では,事前に該当の廃村が載った新旧の二万五千図4面をA4用紙に貼りあわせた資料を計5枚用意した。

# 2-2
新潟県の廃校廃村の多くは小規模な農山村で,その大半はどんな様子なのか訪ねなければわからない。2泊3日の旅のうち,1日目は小千谷市近辺の6か所,2日目は旧川西町と柏崎市近辺の6か所に的を絞った。事前の調べ物,現地の探索,事後のまとめのことを考えると,1日6か所ぐらいが今の私には良いペースだ。1日目の宿は,旧川西町中心部の宿を予約した。見積もり距離は300kmほどと計算した。
旅1日目 平成25年5月24日(金)の起床は朝5時頃。天気は晴。交通手段はバイクで,妻(keiko)所有のSL230。旅の支度を整えて,浦和を出発したのは朝7時。少々心配だった関越道も,無理なく流れに乗るぐらい(90〜100km/h)で走ることができ,午前10時半には小出ICに到着していた。

SL(230ccのバイク)に乗って,浦和から3時間半で小出ICに到着


# 2-3
まず小出ICからほど近い,旧堀之内町小芋川(Koimogawa)を目指した。手前の集落 竜光から現地に続く県道を走ると,分岐に通行止の看板が出ていたため「先ではないか」と思ってしまい,気がつけば小千谷市に入っていた。この状況では,小千谷市十二平(Juunidaira)を先に訪ねるのが得策だ。短いトンネルを抜けて,十二平に到着したのは午前11時15分。火の見やぐらと「よりどころ」という標札がある新しい家屋が見当たった。
火の見やぐらの少し先には大きな石碑があり,表面には「ここはじょんでぇら」,裏面には「中越大震災之碑」と記されている。十二平は,平成16年10月23日に起きた中越地震の被害に伴い,11世帯が集団移転した廃村で,碑の建立は平成20年11月とあった。

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「ここはじょんでぇら」と刻まれた十二平の離村記念碑               分校跡の先にある神社で,この日はじめのご挨拶

# 2-4
塩谷小学校十二平分校は,へき地等級2級,児童数14名(S.34),明治18年開校,昭和43年閉校,昭和52年冬季分校閉校。二万五千図(小平尾,S.43)には文マークと鳥居マークが並んで記されている。県道の右側の枝道を上がっていくと,分校跡の広がりがあって,少し先には赤い鳥居が建っていた。神社の敷地には,笠の石が横に置かれた灯籠,狛犬,コンクリ造の祠が,小さな区画に整えられており,中越地震の被害の様子がうかがえた。
現地には養鯉場の施設や家屋があって,住まれている方がいるようにも見える。ニシキゴイの養殖は,旧山古志村など,この地域の地場産業として名高い。村の方の姿も見かけたが,養鯉場の作業で忙しそうな感じがしたので,ご挨拶はしなかった。

# 2-5
十二平からは来た道を戻り,行き損ねた小芋川を目指した。通行止の看板がある分岐から1kmほど走るとビニールハウスや小屋が見当たり,あっけなく小芋川に到着したのは午前11時50分。バイクを停めた場所のそば,日当りが悪い場所にはまとまった雪が残っていた。
宇賀地小学校小芋川分校は,へき地等級1級,児童数22名(S.34),明治15年開校,昭和50年閉校,昭和55年冬季分校閉校。二万五千図(小平尾,S.43)の文マークを参考に,左側の枝道を上がったが,古くて傾いた木製の電柱と新しい小屋があるだけだった。引き返してビニールハウスのほうに行くと,横にはクルマが停まっていて,地域の方(Kさん,年配の男性)に出会えたので,ご挨拶をして分校跡のこと,集落のことなどをお尋ねした。

小芋川・コンクリートの階段が「ここに分校があった」ことを物語る

# 2-6
Kさんによると,「分校跡はビニールハウスよりも上手寄り,傾いた木製の電柱よりも左側の高台にあって,コンクリートの階段が残っている」,「集落の主産業はニシキゴイの養殖で,ビニールハウスでは稚魚を孵化させている」とのこと。また,離村のきっかけは昭和56年の豪雪と教えていただいた。
再び分校跡を目指して歩くと,広い平地は見当たったが,階段がわからない。傾いた木製の電柱の脇に下りの道筋があったので,たどってみると畑の中にタイル貼りの風呂釜が見つかった。さらに少し下ると,畑の中に忽然とコンクリートの階段が残っていた。昼休みをとるにはちょうどよい時間,私は青空の下,階段に座りながらお茶を飲み,集落跡を見下ろしてしばし一服した。

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小芋川・集落跡にはニシキゴイ養殖用のビニールハウスがある           「産業遺産」という言葉を連想させるコンクリ製の水槽跡   .

# 2-7
見下ろした集落跡では,コイの養殖用の池やコンクリ製の水槽が目立っている。使われなくなったコンクリ製の水槽を見ていると「農業関係の遺産は,なぜ産業遺産して取り上げられないのだろう」と思ったりした。もっとも,ニシキゴイの養殖は,水産業に分類されるのかもしれない。小芋川を後にしてすぐ,使われていそうな池があったので,バイクを停めて覗いてみると,少し濁った水の中にニシキゴイの姿を見ることができた。
昼食は,往路で見つけた「堀之内やな場」という観光バスがやって来るお店に入り,広い座敷の片隅でアユごはんを食した。食後,店の中の魚野川に作られたアユのやな場を見にいくと,川景色の向こうに雪が残る八海山がとても綺麗に見えた。

# 2-8
いつになくのんびりした昼食休みに続いて,旧川口町牛ヶ首(Ushigakubi)を目指した。途中,魚野川沿いの小道を走ると,JR上越線と新幹線がクロスしていた。二万五千図(H.18,小千谷)を見ると,川のすぐ上には関越道が走っており,なぜかこの地点に主要交通網が集中していることになる。川口町運動公園,竹田という小集落を過ぎると,すぐに牛ヶ首への分岐にたどり着いた。二万五千図を貼りあわせた資料,なかなか役に立っている。
分岐からゆるやかな下りの道を進むと,養鯉場の施設が目に入り,続いて整った大きな家屋が2軒並んでいて,牛ヶ首に到着。道の右側にちょうど良い駐車スペースがあったので,バイクを停めて辺りを探索を開始した。

牛ヶ首では,養鯉場の施設が稼働していた

# 2-9
川口小学校牛ヶ首冬季分校は,へき地等級1級,児童数7名(S.34),昭和25年開校,昭和51年閉校。養鯉場へ歩いていくと,若いご夫婦が迎えてくれた。「冬季分校のこと,ご存知ですか」と尋ねると,わからないとのこと。また,牛ヶ首は無住となったのは中越地震(平成16年)をきっかけとのこと。
「場所の特定は難しいかな」と思い,そろそろ出発しようと思ったところで,大きな家屋の方(U子さん,年配の女性)がクルマで来られた。ご挨拶をして冬季分校のことを尋ねると,私がバイクを停めた場所が分校跡の公民館の駐車場で,地震による被害で公民館は取り壊されたとのこと。旧川口町は,中越地震の震源地。「集落の建物,道,田んぼは軒並み大きな被害を受けたが,やっと落ち着いてきた」とU子さんは話されていた。

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牛ヶ首・大きな家屋の方とお話しすることができた                 分校跡は,たまたまバイクを停めた場所だった  .


# 2-10
この日の後半戦に目指した,小千谷市源藤山(Gendouyama),桂平(Katsuradaira),孫四郎(Magoshirou)は,3つとも冬季分校の廃校廃村で,信濃川右岸の丘陵(東頸城丘陵)に点在する。たくさんの田んぼがあるなだらかな丘陵に廃村が多くあるのは,冬の積雪の深さとの係わりがありそうだ。
川口橋で魚野川を渡り,川井橋で信濃川を渡り,川沿いのまとまった集落 真人(Mattso)が源藤山への入口。枝道探しがたいへんかと思われたが,看板があがっていてひと安心。枝道に入って坂を上っていくと,行く手に家々が見えてきて,源藤山へ到着したのは午後3時15分。クルマが数台停まっていて,複数の農作業をされる方の姿がみられたことから,私は「ここが源藤山でよいのかな」と思った。

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         公民館として使われている源藤山冬季分校跡の建物            分校跡にはイネの苗が置かれていた      .

# 2-11
二万五千図(岩沢,H.20)には集落を一周できる道が記されており,時計回りにほぼ一周すると,左手に「簡保資金還元融資施設 昭和57年度 真人小学校 源藤山分校」という看板がある二階建ての建物が見当たった。
真人小学校源藤山冬季分校は,へき地等級1級,児童数16名(S.34),大正5年開校,昭和60年閉校。 分校跡の向かいの家の方(G子さん,年配の女性)にご挨拶をしてお話しをすると,G子さんは「源藤山に通年住む家は2戸だが,真人の集団移住地から田畑に通われている」,「分校跡は公民館として使われている」,「中越地震の復興で関東からボランティアの方が来て,それが縁で関東から田畑に通われる方もいる」と話された。

# 2-12
5月下旬は,この地域の田植えの季節のようで,分校跡にもイネの苗が置かれている。分校跡からは坂を上って神社にお参りして,時計と反対回りに集落内を一周する道を歩いたが,田植えをする方にご挨拶しながら歩く道中は,何とものどかだった。
源藤山から若栃へと抜ける道には通行止の看板があって心配したが,問題なく走れてホッと一息。若栃小学校跡(平成17年閉校)に立ち寄ると,1階の部屋に電灯が点いていてびっくりしたが,ご挨拶はせず先へ進んだ。次に目指す桂平は若栃−北山間にあるが,二万五千図(岩沢,H.20)には地名はなく,存在感は薄い。農作業の方と出会えたので,ご挨拶をして桂平について尋ねると,「場所はここだが,特に何も残っていない」というお返事だった。

桂平では,どこに集落・分校があったのか さっぱりわからなかった

# 2-13
北山小学校桂平冬季分校は,へき地等級2級,児童数16名(S.34),昭和46年閉校(開校年不明)。多くの田んぼが広がる桂平で見つけたのは,農作業の小屋2軒と,屋敷跡に咲くスイセンの花ぐらいだった。桂平から少し先の北山では,道沿いに北山小学校跡(昭和56年閉校)の門柱があったので,くぐって走ると,記念碑とプールの跡が迎えてくれた。
北山から孫四郎へ向かう枝道は二万五千図でもわかりにくく,おそるおそるダートを走った。やがて木製の電柱が見えて,赤い屋根の家屋が見当たり,孫四郎に到着したのは夕方5時5分。1戸だけ残る家屋は三差路のすぐそばにあり,周囲には多くの田んぼが広がっていた。

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       孫四郎には1戸だけ家屋が残る                    分校跡隣の古びた神社で,この日の終わりのご挨拶

# 2-14
北山小学校孫四郎冬季分校は,へき地等級2級,児童数9名(S.34),昭和50年閉校(開校年不明)。家の方(M子さん,私と同世代の女性)がマキを割っていたので,ご挨拶をして分校のことを尋ねると,M子さんは「神社の手前にあったが,今はガレキしか残っていない」と答えてくれた。
お礼を言って分校跡を訪ねると,柱やコンクリ造の瓦がしっかり残っていた。隣の古びた神社は,この日の終わりにお参りするにはちょうどよかった。
この日の宿,旧川西町の農家民宿「大地」は,孫四郎から8kmほどの距離。民宿がある川西市街には24時間営業のコンビニ,飲食店があり,夕食はバイクを走らせて,近くの食堂でとった。この日の走行距離は307km(うち一般道は111km)となった。



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