千選の精度を試した富山の廃村

千選の精度を試した富山の廃村 富山県富山市小原,立山町座主坊,___
__________________________________上市町稲村,伊折,五位尾,護摩堂

高度過疎集落 伊折(いおり)には,中学校分校跡の木造体育館が残っていた



2013/10/14 富山市(旧大山町)小原,立山町座主坊,上市町稲村,伊折,五位尾,護摩堂

# 4-1
富山県中東部は「へき地学校名簿」(教育設備助成会,1961年)に冬季分校が記されておらず,黒部市嘉例沢,上市町稲村,立山町座主坊,八尾町小井波,足谷は「富山県へき地・小規模学校一覧」(富山県教育委員会,1970−1988年)で見つけて,廃校廃村に加えた経緯がある。
また,判定に迷う集落が多い地域でもある。冊子「廃村と過疎の風景」第5集(平成23年5月)と「廃村と過疎の風景」第6集(平成24年9月)発行の間の1年4か月間に,旧細入村加賀沢を追加し,立山町伊勢屋と座主坊を差替えとした(40か所→39か所,1か所減)。「廃村と過疎の風景」第7集(平成25年12月)発行にあたっては,大山町小坂を他(福井県南越前町神土)と差し替えて38か所(1か所減)にしようと備えていた。

# 4-2
ツーリングの計画を立てるにあたり,「地図インフォ」Webと「ウォッちず」Webを調べているうちに,隣の集落との距離感が薄い旧大沢野町土(戸数4戸,H.19)よりも,山間部にあって隣の集落との距離感がある立山町座主坊(戸数2戸,H.19)のほうが千選にふさわしく見えてきていた。
平成25年10月,飛騨・富山・上越ツーリング3日目(10月14日(月)),起床は未明5時頃,越中八尾の駅前旅館「やしろ館」出発は朝6時20分。天気は快晴。土から嘉例沢まで,この日のポイントは9か所もある。このうち,富山県の廃村のバイブル「村の記憶」(桂書房,1995年)に載っている廃村は,小原,護摩堂,古鹿熊の3か所。「足を運んで判定しよう」と思っていた土だが,先の行程を考えて早々に探索は諦めた。

「村の記憶」に載っている河内という廃村を通り過ぎる

# 4-3
最初の目的地 旧大山町小原(Ohara)は,山の中腹にしてまずまずの規模がある。熊野川沿いの道を走り,西小俣を過ぎると,空気は一気に山間のものに変化した。長瀬,手出,河内と「村の記憶」にも載っている廃村が続くが,道すがらの風景写真を撮ったぐらいで先を急いだ。
河内から川を渡り,細いクネクネした林道を上がり,小原(Ohara)に到着したのは朝7時40分。村跡付近は新しい道になっており,雪除けが施された三仏像の碑が迎えてくれた。小原の廃村時期は昭和43年,「角川日本地名大辞典」では1戸2名(S.50)。バイクを停めて探索すると,碑の対面には「耕士百家の郷」という標札がある古い家があった。どうやらこの家は,離村後,大学の施設として使われた「人と土の大学」の様子だ。

# 4-4
文珠寺小学校小原分校は,へき地等級3級,児童数43名(S.34),明治9年開校,昭和39年閉校。「村の記憶」には木造二階建ての小原分校の写真が載っている。手元の五万地形図(五百石,S.34)では,文マークと鳥居マークは来た道の進行方向,集落のはずれにある。先へと進むと道は二股に分かれ,左側の道はダートになって高度を上げるばかり,右側の道は下るばかりで,その先には新しい道が見えてきた。
ここでピンと来て,来た道を戻ると,三仏像の碑を過ぎた少し先で,新しい道から里道が枝分かれしていて,家屋跡の水回りとかまど,神社(石動社)が見つけることができた。しかし,なぜか分校跡を探す気力は湧かなかった。

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小原・家屋跡の水回りには,湧き水が引かれていた                   石動社には,手すりが設けられていた    .

# 4-5
小原に続いて目指した立山町座主坊(Zasunbou)には,富山地方鉄道 岩峅寺駅に立ち寄った後,栃津川沿いの座主坊新村を通るルートで訪ねた。座主坊新村集落跡,採石場を過ぎると,道はか細いものになったが,小さな峠を越えて少し坂を下ると,林の中に家々が見えて,午前9時半,座主坊に到着した。
座主坊は10戸33名(S.50)が2戸2名(H.23)。バイクを停めて集落を探索すると,立山町Webの座主坊の記事に登場するおばあさん(尾近さん)が家の前で新聞を読まれていた。暖かな秋の日差しの中,その姿は集落の風景に溶け込まれているように見えた。ご挨拶をして,尾近さんとしばしお話しをしたが,「集落から人が居なくなった中での暮らしはみじめなもんじゃよ」という言葉が記憶に残った。

# 4-6
目桑小学校(のち東峰小学校)座主坊冬季分校は,へき地等級1級,児童数6名(S.44),明治18年開校,昭和52年閉校。スクーターで町から家に来られた地域の方(男性)に出会ったので,ご挨拶をして分校跡のことを尋ねたところ,「分校は家の向かいにあったが,ずいぶん前に取り壊した」とのこと。しばらくすると,バイクを停めた枝道を通って地域の方の軽トラが走っていた。草が生えた分校跡を調べたが,何も見い出すことができなかった。
神社(刀尾宮)には,探索の終わりに立ち寄った。座主坊は往時の立山登拝路にあって,「刀尾宮には登拝者が詣でる習いがあった」というが,祀られていた神様は岩峅寺の立山雄山神社に遷されたそうだ。

座主坊・刀尾宮で,道中の無事を祈る

# 4-7
座主坊からは目桑小学校本校があった伊勢屋(Iseya)を目指したが,途中の三差路で道を誤り,上瀬戸経由の大回りルートを取ることになった。目桑小学校(のち東峰小学校)はへき地等級無級,児童数140名(S.34),明治7年開校,昭和57年休校,平成16年閉校。伊勢屋は6戸31名(S.50)が3戸11名(H.23)。高度過疎集落の範疇だが,バス路線の終点であり,ある程度開けていることが予想されていた。
たどり着いた伊勢屋の東峰小学校跡はバス停のそばで公民館が建っており,舗装された校庭跡にはヘリポートとなっていた。現地を訪ねて,「伊勢屋を千選から外したのは正しい判断だった」と確信した。

伊勢屋・東峰小学校跡はヘリポートとなっていた

# 4-8
伊勢屋からはコンビニがある賑やかな広域農道を通りながら,上市町稲村(Inamua)を目指した。広域農道の北島交差点,稲村方面の道には「馬場島」という表示がある。馬場島は稲村,伊折よりも奥にある剣岳の登山基地であり,道はよく整備されている。
稲村は9戸38名(S.50)が1戸1名(H.23)。住宅地図には立野という苗字が記されている。「上市町稲村の立野さん」というと,大学の頃の同級生に心当たりがある。道沿いにあるこの家を訪ねて,どなたか居れば同級生のことを尋ねたかったが,人の気配はなかった。家の対面に墓地があったので,「同級生の家のお墓もここにあるのかなあ」と思いながら「南無阿弥陀佛」と刻まれたお墓にご挨拶した。

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  稲村・神明社には「旧跡」と刻まれた石碑が立っていた            「冬季分校にかかわるものかも」と思えた平屋の木造家屋

# 4-9
稲村の戸数は昭和60年には1戸。「新上市町誌」には「白萩地区山間部は過疎が進行している」と記されている。稲村の神社(神明社)はダム湖に向かって枝道を入った場所にあり,鳥居はあったが拝殿はなく,代わりに「稲村神明宮旧跡」「平成16年10月31日」と刻まれた石碑が建てられていた。
白萩西部小学校稲村冬季分校はへき地等級無級,児童数6名(S.44),昭和21年開校,昭和50年閉校。神明宮の少し下手には「冬季分校に係わるものかも」と思える平屋の木造家屋が残されていた。道を下り切ると,上市川ダムのダム湖に突き当たった。時刻は午前11時半,湖畔に座っておにぎりを食べながら,早目の昼食休みをとることにした。

# 4-10
稲村から伊折に向かう県道の途中には,折戸(Orito)というかつて郵便局があった集落がある。折戸は14戸36名(S.50)が,5戸(S.60),さらに1戸1名(H.23)。集落からは離れているが,白萩東部小学校の所在地でもある。バイクを停めて様子を見た郵便局の標札がある建物は,手入れはなされていたが,住まれているようではなく,集落に人の気配はなかった。立ち寄った流れで,神社(雄山社)にもご挨拶した。
白萩東部小学校は,へき地等級1級,児童数132名(S.34),明治42年開校,昭和57年休校,平成17年閉校。折戸から2kmほど県道を進むと,左手にRC造2階建ての校舎が見えてきた。入口には「白萩東部公民館」という標札があったが,閉ざされていて,やはり人の気配はなかった。

折戸・白萩東部小学校跡の公民館付近に人影はなかった

# 4-11
条件からすると千選に入れてもよい折戸だが,学校跡は蓬沢(Yomogisawa)のほうが近いこともあり,追加は見送りとした。しかし,蓬沢も34戸117名(S.50)が,3戸6名(H.23)。平成20年代,人口減の時代となって,本校がある集落でも,規模の縮小が加速してきた感がある。
県道から枝道に入った蓬沢集落にも立ち寄ったが,建物は集会所があるだけで,家屋を失った敷地が散見された。集会所前には10名ほどの村の方々が集まられていたので,久しぶりにご挨拶。何となく,集落についてあれこれ伺おうという気にはなれす,流れで少し先にある神社(早月神社)へと向かった。どうやら蓬沢に残るのは,料理店がある県道沿いに建つ家屋だけのようだった。

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伊折橋から,荒々しい川景色の奥に剣岳の稜線を見る

# 4-12
蓬沢から伊折(Iori)に向かう途中,県道が早月川を渡る橋(伊折橋)からは,荒々しい川景色の奥に剣岳のギザギザとした稜線を見ることができる。伊折集落は橋からおよそ1km先。数戸の家屋と火の見やぐら,「熊が出るぞ」という伊折生産森林組合の看板が見当たったが,地域の方の姿は見られない。2012年の住宅地図に記されている中村酒店は更地になっており,そこには現役の赤い郵便ポストが取り残されていた。
伊折は18戸84名(S.50)が,4戸(S.60),さらに3戸4名(H.23)。神社(伊保里神社)の横の公共のものらしいRC造二階建ての建物に,使われている様子はなかった。

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    伊折集落の家々に人の気配はなかった                中学校分校跡の木造体育館には,トラックが置かれていた

# 4-13
白萩東部小学校伊折分校はへき地等級1級,児童数35名(S.34),明治9年開校,昭和40年常設分校閉校,昭和53年冬季分校閉校。五万地形図(五百石,S.54)の伊折には文マークが2つ記されている。集落から離れたほうの文マークに足を伸ばすと,大きな木造の建物の中にトラックが収納されていた。これはどう見ても体育館の跡だ。思わぬところで,大きな発見があった。
後で調べたところ,この建物は中学校分校の体育館跡だった。白萩中学校(のち上市中学校)伊折分校はへき地等級1級,生徒数54名(S.34),昭和22年開校,昭和49年休校,昭和50年閉校。中学校のほうが小学校よりも規模が大きいのは,蓬沢の児童がこの分校に通っていたからではないかと想像した。

# 4-14
伊折からは白萩東部小学校本校の広々とした校庭跡で一服したりしながら,五位尾(Goio)を目指した。途中,中村では念のため「峠越えの道も通行できる」と地域の方の確認を得た。中村からはヘルメットを取って,山の空気を味わいながら走っていると,急な下り坂の途中,茂みが薄くなって集落の気配がした途端,右手に平地が見当たった。バイクを停めて確認すると,それが五位尾の分校跡だった。
南加積小学校五位尾分校はへき地等級無級,児童数29名(S.34),明治34年開校,昭和51年常設分校休校,昭和52年冬季分校休校,平成17年閉校。検索で見つけた明石あおいさんのBlogには,平成22年夏の木造校舎の画像が載っている。私が訪ねたのはその3年後だったが,残念ながら取り壊されていた。

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五位尾分校跡の平地に建つ分校の碑           トタンをかぶせた萱葺き屋根の家屋に人の気配はなかった

# 4-15
五位尾は21戸77名(S.50)が3戸4名(H.23)。集落は全体が斜面の中にあり,トタンをかぶせた萱葺き屋根の家屋が多数あって,集落の趣は満点だ。しかし,各戸にはクルマの姿はなく,人の代わりにサルが賑やかに騒いでいる。まるでサルに集落が乗っ取られたみたいだ。神社(八幡社)にご挨拶してから,県道を横から見ると「坂道の斜度は15度はあるのでは」と思うほどの険しさだった。
探索が終わって坂道を下ろうとすると,集落入口に「立入禁止 防犯・防火対策のため村内は関係者以外立入禁止 五位尾区長」という看板が立っていた。裏手(中村方面)から訪ねた私は,探索後にこの看板を見ることになったが,初めに見ていたら,集落の印象はまた別のものになっていたかもしれない。

五位尾・「15度はある」と見える急な坂道


# 4-16
五位尾より2kmほど坂を下ったところには,開谷(Kaidan)という「村の記憶」増補版に載った廃村がある。開谷は7戸23名(S.50)が昭和60年に閉村。集落跡入口にある「旧開谷村」の石碑も,裏側から見ることになった。
開谷に学校跡はないが,「立山信仰に係わる歴史があり,民俗舞踊が伝わる」という歴史を鑑みて,立ち寄ることにした。しかし,早朝からの探索疲れが出てきたのか,集落内の急な坂道にバイクで上がって,転回するのに冷や汗をかいてしまったので,神社(八幡社)は探さずに先を急ぐことになった。開谷の探索では家の脇にあるとても小さな土蔵が気になって,扉を開けてみると,灰をためるための蔵ということがわかった。

# 4-17
開谷からは平野部末端の黒川へ出て,すぐに山間へと向き直して,東福寺野自然公園を通過して護摩堂(Gomadou)へと向かった。直線距離だと10km足らずの富山湾の見下ろせる,尾根上の林道を走って,護摩堂に到着したのは午後3時半頃。陽はだいぶ西に傾いていた。
護摩堂は4戸8名(S.50)が平成5年に閉村。集落跡には弘法大師ゆかりの堂宇(護摩堂),「弘法大師の霊水」という湧き水,民宿「八十八荘」があって,廃村では珍しい観光の方の姿も見られる。バイクを駐車場の一角に停めて,まず霊水を味わい,神社(八幡社)にご挨拶をした。
「八十八荘」は,懐石料理が出る大人向けの宿で,廃村めぐりの単独ツーリングで泊まる計画を立てなかったのは正しかったようだった。

# 4-18
南加積小学校護摩堂分校はへき地等級2級,児童数8名(S.34),昭和12年開校,昭和47年常設分校休校,昭和48年閉校。「角川全国地名大辞典」には,「五位尾分校,護摩堂分校の跡地には記念碑が建てられている」との旨が記されており,五位尾分校の碑は簡単に見つかった。
護摩堂でも五万地形図(魚津,S.46)の文マークを追いかけるべく探索したが,心あたりの場所が見つからない。あせりを感じた私は「八十八荘」へと向かい,ご主人(三浦さん)の助言を得るなど,ねばり強く動いた。その結果,神社の対面の小高くなった茂みの中に金網を見つけ,草むした分校跡地の中に,護摩堂分校の碑と旗ポール,曲がった鉄棒を見つけることができた。

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      護摩堂・弘法大師ゆかりの堂宇(護摩堂)と湧き水          草むした護摩堂分校跡地に,碑が見つかった

# 4-19
護摩堂の次は魚津市古鹿熊(Furukakuma)を目指す予定だったが,10月の日暮れは早く,ここで時間切れになった。めぐることができたポイントは6か所だったが,振り返れば適正な数のように思えた。この日の宿,朝日町境のホテル「地中海」に到着したのは夕方6時。一日の走行距離は173kmとなった。
夕食を取りながらkeiko(妻)に電話をすると,「明日午後の天気は台風26号接近のため大荒れになる」とのこと。これは困ったことになった。
上越の廃村をパスして早く帰るのも,廃村をめぐってから雨が降る上信越道で帰るのも,できれば避けたい。酔いが回った頭であれこれ考えた結果,帰り道に通る長野県飯山市在住,廃村 沓津(Kuttsu)が縁の知人 佐藤長治さんに電話をして,1〜2週間バイクを預かっていただく旨のお願いをした。

(追記) 平成29年2月26日(日),「廃村千選」は「差替えにより累計数1000を守る」という考えを取り払い,追加分があれば増える形に改めたため,立山町伊勢屋を廃校廃村に再カウントした 。



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