巳年の旅の終わりは上越へ

巳年の旅の終わりは上越へ 新潟県上越市後谷,塩荷谷,_______
_________________________________________________________十日町市小屋丸

廃村 後谷(うしろだに)には,「後谷部落之跡」の碑が建っていた



2013/10/28 上越市後谷,塩荷谷,十日町市(旧松代町)小屋丸

# 6-1
平成25年10月,台風26号・27号を挟んだ2度目の上越ツーリングは,堀淳一先生主宰のコンターサークルの新潟フィールドワークとの兼用で行った。1泊2日の旅の出発,10月27日(日)の起床は早朝4時半。一行との待合わせ場所JR上越線小出駅までは,南浦和駅から在来線を3回乗り継いで215kmを4時間23分かけて行くという鉄道マニア的方法を選んた。メンバーは堀先生と丹羽さん,大出さん,石井あつこさん,私の5名だ。
フィールドワークでは,新潟県旧山古志村の中山トンネル(800mを超える素掘りのトンネル,旧広神村との境界)とニシキゴイを養殖するたくさんの池を探索した。天気は曇時々小雨で肌寒かったが,伝説のコンターサークルのフィールドワークにご一緒できるのはありがたいことだ。

# 6-2
石井さん,堀先生と分かれた後,丹羽さん,大出さんとJR小千谷駅前でへぎそばを食べて,お二人とも越後川口で分かれた後は,飯山線に乗って先のツーリングで預かっていただいたバイク(BAJA)がいる長野県飯山市を目指した。越後川口−飯山間は案外遠く,78kmが乗換え2回で2時間18分。飯山在住,廃村 沓津(Kuttsu)が縁の知人 佐藤長治さんのお家でBAJAを引き取り,旅の交通手段は鉄道からバイクへと切り替わった。
翌10月28日(月),飯山駅前「すざかや旅館」出発は朝6時30分。天気は雲まじりの晴。「飯山に来たならば立ち寄らなければ」と足を運んだ沓津(今回で12回目)は朝霧に包まれていて,これまで見たことがない風景の中,なじみの火の見やぐらが立っていた。

朝霧に包まれた沓津の火の見やぐら

# 6-3
この旅では「廃村千選」年間50か所新規訪問の自己ベスト更新がかかっている。沓津神社では「道中無事でありますように」とお参りをした。
沓津を後にして,まず新潟県上越市の農山村の廃村 後谷(Ushirodani)を目指した。飯山からだと旧新井市青田が最寄りの集落で,後谷は青田から5km山に入った場所にある。五万地形図(高田西部,S.44)を見ると,青田と後谷の間には分水嶺があり,後谷は峠の向こうの川(綱子川)の最上流部ということがわかる。下流には高度過疎集落 上綱子(3戸4名(H.24))があるが,綱子川の地勢が険しいためか,川に沿って下流に向かう道は点線で記されており,今も車道は通じていない。峠を越えて,後谷集落跡に到着したのは午前9時10分。天気はすっかりよくなり,空は晴れていた。

# 6-4
集落跡に入ってしばらく走ると,車道沿いに碑が2つ建っていた。バイクを停めて確認すると,左の丸い碑には「後谷部落之跡」,右の縦長の碑には「殉難碑」と刻まれていた。「後谷部落之跡」の碑には,過疎化のため昭和52年8月部落解散との旨が,村の方々17名の名前とともに記されていた。また,「殉難碑」には,昭和2年2月9日分教場倒壊,殉難者教員1名,児童5名との旨記されていた。
昭和37年生まれの私にとって,昭和2年といった戦前の出来事は遠い昔(86年前,H.25現在)のことだが,昭和52年でも36年前(H.25現在)だ。私の記憶にある高度成長期や昭和末頃の出来事も,ずいぶん昔のことになって来た感じがした。

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後谷分教場倒壊「殉難碑」                        後谷集落跡を流れる綱子川       .

# 6-5
黒田小学校後谷分校は,へき地等級2級,児童数20名(S.34),明治27年開校,昭和45年閉校。地形図の文マークは碑よりやや下流にあるので,川沿いの歩道を探索したところ,苔むした小さなコンクリの橋や作業小屋が見当たったが,学校跡の気配は感じられなかった。
やや下流には,閉村後に移り住んできた方(瀬谷さん)の家がある。後で調べたところ,瀬谷佑介さんはご自身のWeb,Blogをお持ちで,平成10年に東京から後谷に移り住み,自給自足の生活の中で音楽活動をされているとのこと。また,分校は家が建っている場所あたりにあったようだった。後谷で年間50か所新規訪問を達成し,平成21年の実績に並んた。台風のため危ぶまれた前のツーリングからの懸案が実現したのは喜ばしいことだ。

後谷−上越市平野部間の坂道からは,上越妙高駅(未開業)が見えた

# 6-6
後谷に続いては,同じく上越市の農山村の廃村 塩荷谷(Shionidani)を目指した。昔は塩の集積地だったことから,この名があるとのこと。
後谷−塩荷谷間は,直線距離だと3kmほどだが,一度灰塚,向橋といった平野部の集落に戻りながらの行程となるため,正味13kmはある。灰塚に向かう山道からは,ほぼ完成した北陸新幹線上越妙高駅を見ることができた。向橋には上信越道上越高田ICがあって,この辺りは交通の要衝になった感がある。
向橋からおよそ3km,ダートが混ざる頼りない道をたどると,山の中腹に視界が開けて,午前10時50分,集落名の看板がある塩荷谷に到着した。「塩荷谷ワイルドランドキャンプ場」という文字がはげかけた看板もあったが,キャンプ場が開かれている感じはしなかった。

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集落名の看板が見当たり,塩荷谷に到着                          塩荷谷・「虚空蔵院」の門柱     .

# 6-7
黒田小学校塩荷谷分校は,へき地等級1級,児童数10名(S.34),明治28年開校,昭和49年閉校。集落の移転も昭和49年。「虚空蔵院」というお寺があり,田畑もあるので,人の気配を期待したが,クルマは見当たらない。五万地形図を見ると,卍マークと文マークが並んで記されており,「分校は虚空蔵院の境内にあったのではないか」と想定し,あたりを探索したが,それらしいものは見つからなかった。
後でネットを検索すると,塩荷谷分校跡の碑があることがわかった。地形図を見直すと,卍マークと文マークはわずかに離れていて,学校跡は集落名の看板の近くにあるようにも見える。年間51か所新規訪問で自己ベストは更新したが,これは手痛い取りこぼしだった。

# 6-8
塩荷谷に続いては,旧牧村の戦後開拓集落の廃村 平等(Heitou)を目指す予定だった。しかし,集落跡で痕跡を見つけるのは難しそうで,夕方に浦和まで帰る旅の午後に訪ねるには不向きと思えた。高田市街地を通り過ぎ,旧牧村柳島の三差路ではしばし迷ったが,R.405をそのまま進むことになった。
代わりに,旧松代町の農山村の高度過疎集落 小屋丸(Koyamaru)へ足を運ぶことになった。帰り道に関越道六日町ICを使うとすれば,旧牧村から旧安塚町,旧大島村,旧松代町,十日町市街,旧六日町と,ローカル道でスムーズにつなぐことができる。小屋丸は3戸5名(H.24)。松代市街との距離はわずか5km。限られた時間の中,気軽に訪ねるにはちょうどよい目的地だ。

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専敬寺の階段に座って昼食休み                  専敬寺は大きな木造建築のお寺だった    .

# 6-9
R.405沿い,旧安塚町小黒では大きな木造建築のお寺(専敬寺)があったので,ここで一服。「なんだろう」と思ったとき足を止める余裕が出てきた。
十日町市(旧松代町)に入り,R.253の松代郵便局がある交差点には,「右折 小屋丸」を示す大きな看板が見当たった。この状況だと,5km先に廃れた風景が待っているとは思えない。R.253から枝道に入り,射撃場の看板を見ながら5km走ると,公民館らしき建物が見当たり,小屋丸に到着した。
この建物には「消防水利要図」という看板があって,学校を含めて20戸ほどの家々が記されている。しかし視界に見えるのは,少し先にある1軒の家屋だけだった。田畑があって,住まれる方もおられる小屋丸だが,その風景は看板が使われていた頃とは別物といってよいほど変わっているように思えた。

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  小屋丸・「消防水利要図」の看板がある公民館                「消防水利要図」には,たくさんの家々が記されていた

# 6-10
松代小学校小屋丸分校は,へき地等級2級,児童数57名(S.34),明治9年開校,昭和59年閉校。五万地形図(松之山温泉,S.43)には文マークが記されていて,公民館の地図の看板にも明記されているぐらいだから,簡単にわかりそうなものだが,なかなかピンと来ない。
バイクを停めて,か細くて舗装されていない小道を歩いていくと,やがて文マークが記された特徴のあるカーブの場所まで来た。しかし,そこにはススキが生えた平地があって,真ん中に赤っぽい屋根の小屋が見られるだけだ。草をかき分けて小屋のところまで行ってみると,それは個人の方の物置のような感じがした。15分ほどの探索で見つかった往時のものは,遊具として使われたと思われる古タイヤぐらいだった。

小屋丸分校跡で,往時のものは古タイヤしか見つからなかった

# 6-11
小屋丸には「リトル・ユートピアン・ハウス」という「大地の芸術祭」に係わる建物が建っていた。後で調べたところ,平成22年に「小屋丸 冬と春」という映画がフランスのジャン=ミッシェル・アルベローラという芸術家の手で作られており,建物は「小さな美術館」ということがわかった。
この日の廃村探索はこれにて終了。午後3時に小屋丸を出発して,十日町市街を抜けて,六日町ICから関越道に乗り,所沢ICで下りて浦和に到着したのは夜6時40分。走行距離は360km。飯山の佐藤さんにバイクを預かっていただいたおかげで,10月は計6か所,新潟の廃村をめぐることができた。
辰年の廃村探索はこれにて打ち止め。「廃村千選」の累計訪問数は394か所,新規訪問数は52か所/年(おそらく自己ベスト確定の数)となった。



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