北の500か所超えへの道は会津から

北の500か所超えへの道は会津から 福島県会津若松市二幣地,中湯川,
_________________________________________川渓,大巣子,黒森

高度過疎集落 黒森(くろもり)には,子安観音堂が建っていた



2014/5/10 会津若松市二幣地,中湯川,川渓,大巣子,黒森

# 7-1
「500か所超えへの道」の旅,新潟以南で区切った南編のレポート(平成24年8月開始)が,2年弱で20本できた。順調なのはよいが,南北のバランスが気になってきた。当初,北と南の境界は,福島と新潟に置くつもりだったが,この分だと北が弱くなりそうだ。
北編では,まず最初に福島県会津若松市の5か所の廃校廃村を取り上げることになった。平成26年1月に連絡をいただいた国立環境研究所の研究員 深澤圭太さんとやり取りをするうちに,深澤さんの研究テーマである「地域の野生動植物や景観の管理および保全」のサンプリングの対象として,会津地方の廃村が浮かび上がった。そしして,GW明け,深澤さんとふたりで,会津若松市,会津美里町の廃校廃村を1泊2日で探索する予定が立った。

# 7-2
旅1日目 平成26年5月10日(土)の起床は朝5時頃。天気は晴。大宮駅朝6時30分発のやまびこに乗って,深澤さんと待合わせの郡山に到着したのは7時24分。意外に早く感じられたのは,郡山を目指して新幹線に乗ったのが初めてだからなのだろう。
当初私は,郡山からは会津若松市街に出て,湯川沿いを川上に向かうイメージでいたが,深澤さんのクルマは駅から西の方向に進み,湖南地区でR.294に入り,黒森トンネルを越えた後は「公団幹線林道 米沢・下郷線 会津若松区間」という林道へと入っていった。「どこに向かうのか」と思いきや,そのうちに二幣地トンネルという銘板が見えて,いきなり湯川沿いの最奥,二幣地(Niheiji)には8時50分に到着していた。

郡山駅から1時間ほどで,へき地5級の廃村 二幣地へ到着

# 7-3
私は会津若松市の廃校廃村はすべて再訪で,平成19年秋(10月)以来6年半ぶり。見覚えがある丸木を組んだ橋を渡って探索すると,草が少ない春ということで,前回の探索で記憶がない家屋の跡をはっきり見ることができた。タイル貼りの風呂や二層式の洗濯機は郷愁を感じさせる。
枯れ草が倒れているので,前回とは異なり「ここに田畑があった」という雰囲気がよく出ていた。深澤さんは「イメージよりも,ずっと整っている感じがした」そうだ。二幣地の閉村時期は昭和50年,その後おそらく手入れはされていない。放棄されて40年近く経っても往時の雰囲気が残っているのは,冬の間は雪に埋もれるので,植物が生えにくいことに関係するようだ。

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二幣地集落跡で見かけたタイル貼りの風呂                  耕作放棄地ではミズバショウの花が咲いていた


# 7-4
東山小学校二幣地冬季分校は,へき地等級5級,児童数3名(S.34),昭和16年開校,通年の分校になった翌年(昭和50年)閉校。前回「分校跡ではないか」と推測した点灯記念碑(昭和40年点灯)がある平地には,小さな耕地があった。関係の方に出会えたら,分校の位置を特定することができそうだ。
仕事柄,深澤さんは植物や昆虫の名前に詳しいので,集落跡で目立つ植物の名前を伺ったところ,耕作放棄地でよく見かける若葉がついた背が高くて細い木はハンノキ,葉がなくて直線的な細い枝が目立つのはオニグルミと,教えていただいた。別の季節に見ると違う印象を受けるかもしれないが,基礎的な知識として役に立ちそうだ。あと,奥の耕作放棄地では,ミズバショウの花の群れを見ることができた。

# 7-5
二幣地に続いて,湯川沿い,ひとつ下流の中湯川(Nakayukawa)に足を運んだ。往時の家屋が「土人形工房」として使われているなど,人の気配が感じられる。赤い鳥居が目を引く稲荷神社の手前には,「古峯神社」(明治31年建立)と刻まれた石柱があって,上部の切り欠きにはお札が納められていた。同じ形の石柱は二幣地や湖南地区でも見かけており,会津の各所に建っていることが推測された。
東山小学校中湯川分校は,へき地等級4級,児童数22名(S.34),大正元年開校,昭和48年秋休校,翌春閉校。神社の少し先,新しい家屋前で作業をする地域の方(年配の男性,Nさん)が居たので,ご挨拶をして,分校のことを尋ねたところ,家の中から額に入った分校の写真を見せていただくことになった。

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   中湯川・古峯神社の石柱と稲荷神社        Nさんが額に入った分校の写真を出してきてくれた(深澤さん撮影)


# 7-6
木造平屋建ての分校,その所在地は県道から集落に入る橋の手前の平地だった。Aさんに案内していただき,現地を訪ねると,建物の基礎を確認することができた。分校跡の隣にはお墓があって,昔はお墓の先にも歩道があって,二幣地まで続いていたとのこと。
中湯川からは,この日の宿「ホテル伏見荘」がある東山温泉に向かい,温泉街の食堂で昼食休みをとった。あまり距離は走らず,午前と午後で2〜3ずつ廃村をめぐるのは,サンプリングの下見にはちょうどよいペースだ。深澤さんは,今回の探索の結果を受けて,サンプリングに備えて,昭和40年〜50年代の航空写真から土地の利用の様子を推測して,その様子を再現した地図を用意すると話された。

# 7-7
昼一番は,サンプリング候補地外だが,東山ダム建設(昭和57年竣工)に係わった廃村 川渓(Kawadani)を訪ねた。川渓の集落跡はダム湖の南端に位置し,通り道の県道から古い橋を見下ろすことができる。
前回は県道から見下ろすだけだった古い橋,今回は茂みが薄いこともあり,斜面を下って現地まで足を運ぶことができた。東山小学校川渓分校は,へき地等級1級,児童数17名(S.34),明治7年開校,昭和40年閉校,昭和47年冬季分校閉校。二万五千図(若松,S.51)では,川渓の家屋は橋の両側に記されており,橋の東側では家の敷地が見当たった。また,西側では蔓草が絡まった電柱が見つかった。おそらく分校も橋の近くにあったはずだ。

川渓・古い橋がある場所(集落跡)まで下りることができた

# 7-8
続いて目指した大巣子(Oosugo)は,湯川から離れた山の中腹に位置している。曲がりくねったダートの道を進み,たどり着いた大巣子では,数戸の家屋が見られるけれど,人の気配は感じられなかった。大巣子神社の手前にクルマを停めて集落を探索すると,中湯川よりも標高が高いからか,ヤマザクラが咲いていた。点灯記念碑(昭和20年代点灯)の横には,お約束のように「古峯神社」と刻まれた石柱が建っていた。
東山小学校大巣子分校は,へき地等級2級,児童数22名(S.34),昭和7年開校,昭和52年閉校。前回「分校跡ではないか」と推測した「湯殿山」の石碑がある平地を探索すると,道の反対側に建物の基礎とトイレ跡を見つけることができた。

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大巣子・林道の右側に分校の校舎があったことがわかった           分校跡で見つかった建物の基礎には,2つの便槽があった

# 7-9
集落から少し離れた場所に,農作業をされる地域の方(年配の男性,Oさん)が居たので,ご挨拶をして分校のことを尋ねたところ,推測した場所に分校があったことを教えていただいた。地域の方の声を伺えたら,ひと安心だ。集落と農作業の場所の間には「レストハウス 鷹」という建物があって,「こんなところになぜレストハウス?」という謎が生じた。このレストハウスの由来も,Oさんにうかがっておきたかったところだ。
前回は行けなかった住宅地図の卍マーク(子安観音)のほうにも足を伸ばすと,山の緑に包まれはじめた場所に,赤い屋根の四角いお堂が建っていた。子安観音は「安産をかなえ,幼児の無事を守る」神様。しっかりとした観音堂を見ると,暮らしの中にあった祈りが感じられた。

「安産をかなえ,幼児の無事を守る」,大巣子の子安観音堂


# 7-10
最後に,戸数3戸(H.25)の高度過疎集落 黒森(Kuromori)を目指した。「地理院地図」Webの地形図を見ると,大巣子−黒森間には低い峠を越える林道が通じているようだ。走ってみたら整ったダート道で,峠の近くには紫色の花々(ショウジョウバカマ)が咲いていた。
分校跡が集落の入口にあるので,ここにクルマを停めて探索を開始した。大戸小学校黒森分校は,へき地等級1級,児童数28名(S.34),大正8年開校,平成元年閉校。分校跡の施設「自然体験楽行」が使われる様子はなく,建物は少しずつ傷んできた感じがした。集落へと歩いていくと,人なつこい3匹のヤギの出迎えを受けた。二人でひとときヤギと戯れていると,地域の方(年配の女性,K子さん)と出会ったので,ご挨拶をした。

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黒森ではヤギが迎えてくれた(人物は深澤さん)                    集落のはずれに残る黒森分校跡の建物

# 7-11
K子さんのお話によると,黒森が民宿の里として賑わったのは昭和末頃から平成初頃にかけてで,皆高齢になったため,数年前から営業はしていないそうだ。6年半前に訪ねたときに居たウシは世話ができなくなったので,代わりにヤギを飼うことになったとのこと。集落を一周してから分校跡に戻り,小高い丘の上にある神社に足を運ぶと,その横には大巣子で見たのと同じ形の子安観音堂が建っていた。
黒森を後にして,林道を戻って大巣子を通過し,川渓のダム湖畔の神社(山王神社)に立ち寄り,東山温泉「伏見荘」に戻ったのは夕方6時頃。一日の疲れを癒すには,温泉は良いものだ。宿は翌日のトライアスロン大会を控え,まずまず賑わっている様子だった。

(追記1) 「500か所超えへの道」の旅,紆余曲折の結果,北編と南編の境界は,新潟・富山と岐阜・石川の間で引くことになった。

(追記2) 後日,大巣子のレストハウスは,かつてあったスキー場(おおすごスキー場,営業期間は昭和63年〜平成9年)に係わる施設ということがわかった。



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