ついにクマに遭遇した富山の廃村

ついにクマに遭遇した富山の廃村 富山県黒部市嘉例沢,魚津市古鹿熊

廃村 古鹿熊(ふるかくま)の分校跡には,教員住宅を改装したふるさと会館が建っていた



2014/7/14 黒部市嘉例沢,魚津市古鹿熊

# 11-1
平成26年梅雨時,大阪土日出張の機会を使った廃村めぐり,第二陣は,北陸・富山県を選んだ。目的地の黒部市嘉例沢(Kareisawa),魚津市古鹿熊(Furukakuma)は,ともに平成25年10月のBAJAでのツーリングで出かけようとして,日暮れのため積み残しになった廃村で,そのとき足を運ぶイメージを作っていた。当日は,事前の準備はほとんどなし。服装,カバンも仕事の続きという軽い気持ちで出かけた。
平成27年3月の北陸新幹線開業に伴い,金沢−直江津間のJR北陸本線は県ごとの第三セクター(富山県はあいの風とやま鉄道)に変わり,サンダーバードは大阪−金沢の特急となる。何度も乗った北陸本線(金沢−直江津間)へのお別れの気持ちを込めて,旅は魚津で前泊する計画を立てた。

# 11-2
平成26年7月13日(日),仕事が捌けてから,大阪駅発富山行きサンダーバードに乗り込んだのは午後4時38分。列車は何とか自由席窓側の席に座れるぐらいの混み具合。富山駅でローカル電車に乗り換えて,魚津駅に到着したのは午後8時20分。宿は駅前の「ビジネスホテル美波」。魚津ではバーのようなラーメン屋に入ったり,ナイトパブでビールを飲んだり,いつもと違う動きで夜を過ごすと,就寝までの3時間がとても長く感じられた。
翌14日(月)の起床は早朝5時半頃。JR駅隣接の新魚津駅から富山地方鉄道線に乗って,レンタカー店最寄りの稲荷町駅(電鉄富山駅のひとつ手前)を目指した。富山地鉄線に乗るのは今回が初めて。昔の京王線のような色合いの2両編成の電車は,通勤・通学でまずまず賑わっていた。

富山地鉄線に乗って稲荷町駅へ到着


# 11-3
富山市街の一角,ガソリンスタンド副業のレンタカー店で6時間借りたクルマはSクラスのヴィッツ。平成25年7月,福井・武生で借りて以来だ。富山市街を抜けて,岩瀬浜から海に近い道を選びながらクルマを走らせると,魚津港辺りの富山湾の堤防はとても低くて,日本海とは思えないほど穏やかさだ。
片貝川河口に架かる橋を渡って黒部市に入り,田籾(Tamomi)までは平野から山間へと川沿いを進んでいった。田籾から,狭くて急傾斜になった舗装道をたどると,クルマが停まっていたスペースに「嘉例沢地すべり防止区域」という看板があったので,位置を確認した。クルマには電力関係の方が乗っており,「調べ物で嘉例沢に行きます」とご挨拶したら,「クマに気をつけて」という声がかかった。

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「嘉例沢地すべり防止区域」という看板があった                  しっとりした中に閉ざされた家々が建っていた

# 11-4
やがて特徴的なカーブの右側に屋敷跡が見えて,嘉例沢に到着したのは午前10時頃。クルマを停めて見に行った屋敷跡は,キャンプができそうな感じで整えられていた。丸石の石垣の脇にある小道を上ってみると,その先にはしっとり落ち着いた雰囲気の中に2棟の閉ざされた家々が建っていた。しかし,時期は梅雨時,天候は雨上がりの曇り空,少し歩くと靴下が濡れてしまうほど,茂った草は濡れていた。
集落跡の真ん中には「嘉例沢集落足跡」という大きな碑があって,「平成12年で住む人がいなくなった」ことがわかった。碑の建立は平成17年,裏面には往時の村の地図が刻まれていて,昭和27年には34戸の家々があったようだ。最初に見た屋敷跡には「卍 火葬場」と記されていた。

# 11-5
田籾小学校(のち東布施小学校)嘉例沢冬期分校は,へき地等級1級,児童数15名(S.44),明治23年開校,昭和52年閉校。往時の村の地図によると,冬季分校は碑より少し南側,ちょうどクルマを停めた場所の辺りにあったようだ。「この辺なのかな」と注意して歩いてみたが,痕跡は見つからなかった。代わりに,少し先に古い廃車と風呂場とその屋根だけが残った家跡が見つかった。
集落足跡の碑のすぐ裏には「朽ち果てないように建て替えた」という観音堂があって,向かい側には,養魚場の建物と施設の跡が残っていた。「お邪魔します」とご挨拶をして建物の中を探索すると,「嘉例沢イワナ生産組合さんへ 1996.4.27」という色紙が貼られていた。

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「嘉例沢集落足跡」の大きな碑と観音堂                      「嘉例沢の石仏」の説明板(左横は鞘堂)

# 11-6
県指定史跡「嘉例沢の石仏」は,大きな岩に彫刻された五体の石仏で,うち三体は南北朝・室町期,二体は江戸期のものとのこと。石仏達はしっかりした鞘堂に納められていた。村の北端にある白山神社は,神社に向かう小道は草で埋もれていたので,車道から鳥居を見下ろすだけに留めた。
集落足跡の碑文を読み直すと「生活共同の絆を強める祭事,火まつり,えびす講,庚申講,観音まつり,盆や正月等の行事によって,山村文化が栄えていった」という箇所が印象に残った。
嘉例沢の探索はおよそ1時間,地域の方には出会わなかったが,「集落があったことを後世に伝えたい」という意気込みが感じられた。

# 11-7
次に目指す古鹿熊は,「村の記憶」(桂書房,1995年)の記事の中でも気になっていた廃村で,名前になじみが出来たのは平成12年のことだ。「村の記憶」には「古鹿熊という地名は,未開拓時代にこの地一帯に鹿や熊が住み,たびたび出没していたことからつけられたらしい」とある。
また,「古鹿熊の特産物はクズ粉で,高度成長期前までは木炭,ワラ仕事もあって,食料も豊かだった村の経済は余裕があった」と記されている。
嘉例沢−古鹿熊間は,新川広域農道でショートカットした。昨秋のBAJAでのツーリングでも使ったこの道,前回は魚津市から黒部市方向(今回と逆方向)に走っている。角川ダムを過ぎた三差路には古鹿熊入口を示す看板があって,古鹿熊へ向かう道はしっかりしていた。

角川ダムを過ぎた三差路にある古鹿熊入口を示す看板

# 11-8
県道古鹿熊滑川線の終点を確認し,坂を上り詰めて「古鹿熊ふるさと会館」に到着したのは午前11時50分。クルマを降りると,会館の反対側には個人の顕彰碑と仏様の像があって,ハスの花の上に座った仏様は,無住となった集落を見守っているようだった。
松倉小学校古鹿熊分校は,へき地等級2級,児童数44名(S.44),明治34年開校,昭和47年閉校。ふるさと会館は分校の教員住宅を改装した建物で,分校跡には高い屋根の東屋が建てられていた。「村の記憶」の記事によると,昭和35年の戸数は27戸,昭和47年秋に残った11戸が魚津市当局の勧めで集団移転したとのこと。また,旧住民の会によって,毎年お盆頃に分校跡で獅子舞などの故郷を偲ぶ行事が行われていると記されている。

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   古鹿熊分校跡,ふるさと会館と高い屋根の東屋              ハスの花の上に座った仏様が見守る


# 11-9
分校よりも山のほうに歩いていくと,行く手左側から「ガサッ」と物音がして,目をやると,茂みのすき間から茶色い毛皮の動物の背中が見えた。どう見てもイノシシにしては大きく,どうやらクマに遭遇したようだ。立ち止まって息をのみ,遠ざかっていくような物音を確認してから,なぜか「ワンワン!」と吠えながら走ってその場を離れた。長い間,廃村めぐりを続けているが,クマに遭遇したのは今回が初めてのことだ。
経験的に,クマの気配を感じる廃村には「注意 クマ出没」などの看板は立っておらず,嘉例沢,古鹿熊にもなかった。熊鈴は,平成17年頃に買ったけど,旅で持ち歩く習慣はこれまでなかった。今回の一件で「熊鈴ぐらいは持ち歩くべきだなあ」と強く思った。

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    ふるさと会館の入口下方に現れたマムシ                  神社やお寺の跡にはたどり着けずに,探索は時間切れ

# 11-10
冷や汗をかいて分校跡に戻って,ふるさと会館の標札を見ていたら,入口の下方にはマムシの姿があって,再び冷や汗が出た。梅雨時の曇り空の中で行う廃村探索は,危険動物との遭遇の確率を考えても,お勧めではなさそうだ。
分校手前の分岐でクルマを停めて,草道を歩いてみたが,「石垣のすき間からマムシが出てくるのでは」とか考えると足が進まなかった。「村の記憶」の記事の写しを持っていなかったこともあり,神社(春日社)やお寺(神宮寺)の跡にはたどり着けず終いとなった。
古鹿熊の探索もおよそ1時間,地域の方には出会わずだった。それにしても「古鹿熊でクマに遭遇」は覚えやすい出来事で,強く記憶に刻まれた。

富山ライトレールに乗って富山駅へ到着

# 11-11
古鹿熊から富山市街のレンタカー店までは,50分ほどで帰り着き,富山駅までは,奥田中学校前という電停から富山ライトレールに乗ってみた。ライトレール(LRT)に乗るのも今回が初めて。道中,いろいろな鉄道に乗るのも楽しいものだ。
富山から直江津までの北陸本線では、朝にコンビニで見かけた熊本の芋焼酎「房の露」のくまモンラベルを買いたくなって、魚津で途中下車した。
直江津からは,やはり北陸新幹線開業に伴い第三セクターとなるJR信越本線のローカル電車で長野に出て,長野市在住のネット仲間 のら猫さんと駅近の居酒屋「とくべえ」で乾杯。長野発午後8時27分の長野新幹線あさまは,この春から走り始めたE7系に当たった。



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