午年の旅の終わりは富山の廃村

午年の旅の終わりは富山の廃村 富山県富山市高清水,深道,数納

廃村 高清水(こうしみず)には,冬季分校跡の建物が残っていた



2014/11/7 富山市(旧山田村)高清水,深道,数納
[ 南砺市(旧利賀村)高沼 ]

# 15-1
近年,毎年11月に行っている大学同窓会(堀田コンパ),平成26年は11月8日(土),愛知県の離島 篠島(しのじま)で実施することになった。この旅にあわせた廃村めぐりは,高山本線を使うと名古屋までのアクセスがよく,かつ北陸新幹線が開通すると交通体系が大きく変わる富山県へ出かけた。
当初は,その実態がはっきりしない旧八尾町の4か所の廃校廃村(小井波,足谷,大玉生,東原)を訪ねる予定を立てた。しかし,書籍「村の記憶」を読んでいるうちに,旧八尾町の西隣,旧山田村高清水(Koushimizu)に残るらしい冬季分校の建物を見に行きたくなってきた。旧山田村には全部で3か所の廃校廃村(高清水,深道,数納)があるので,まず旧山田村を訪ね,時間があれば旧八尾町まで足を運ぶ予定へと変化した。

# 15-2
11月6日(木,旅1日目),普段通りの仕事をこなし,南浦和の家で夕食を取った後,旅に出発したのは夜7時55分。この日は上越新幹線,ほくほく線に乗って新潟県糸魚川市に前泊した。前泊の理由のひとつは,富山駅に朝8時に到着して,レンタカー店に朝一番で足を運びたかったことにある。 もうひとつは,北陸本線のうちに(三セクに移管する前に),糸魚川−富山間のローカル列車に乗っておきたかったからだ。
翌7日(金,旅2日目),糸魚川始発の富山行普通列車は未明5時45分発。3両編成の電車の乗客はわずかで,旅人はおそらく私ひとり。50分ほどの時間の余裕があったので,新潟県最西端の駅 市振で途中下車して,早朝の落ち着いた駅,集落,北国街道の関所,港,日本海の様子を楽しんだ。

市振駅に到着する富山方面行きローカル列車

# 15-3
富山駅前のレンタカー店で借りたクルマはSクラスのホンダフィット。天気は曇時々晴。二万五千図(山田温泉,S.45)で見ると,高清水,深道に行くには,居舟口,脇谷,高沼,菅沼の4つのルートがある。「村の記憶」には「高沼からは車で20分で着く」とあったので,まず高沼を目指した。
北陸道(富山IC−砺波IC),R.156,R.471とやや急ぎ足で走って,旧利賀村高沼の「道の駅 利賀」に到着したのは午前9時35分。「何かしら食べ物を持っておかねば」と思いつき,チョコレートとリアルゴールドを購入。高沼では利賀小学校高沼分校跡(昭和52年休校,平成8年廃校)の校舎をちらりと見学した後,「行けるところまでクルマで行こう」と枝道に入ると,1km弱,そばに高沼の氏神様(八幡社)が奉られている場所で行止まりとなった。

....

3年ぶりに訪ねた高沼分校跡のRC二階建て校舎                   偶然たどり着いた高沼の氏神様(八幡社)    .

# 15-4
神社のおかげで場所がはっきりしたので,ヘアピン状のカーブの場所まで戻ってクルマを停めて,ここを高沼ルートの始まりと捉えて,クマ除けの鈴を腰に着けて高清水を目指して歩き始めたが,道を覆う草は深く,10分ほどで撤収することとなった。
「道の駅 利賀」の手前,脇谷の湧き水のそばには鎖が張られた県道59号線の入口があったので,ここを脇谷ルートの始まりと捉えて,再び歩き始めたが,この道も歩き通せる雰囲気ではなく,10分ほどで撤収となった。戻ったクルマの中で「次は居舟口ルートか、菅沼ルートか」しばし考え,「高清水までの距離が短い」ことを決め手に菅沼ルートを選ぶことになった。

# 15-5
R.471は旧利賀村の中心部を回るため,地図で見るとUの字を描くような道程となる。途中,北豆谷から越道峠を越えて菅沼へ向かう短絡道があるが,分岐がわからなかったので,そのままR.471を走り続けた。
新楢尾トンネルを越えてすぐに,百瀬川という空に広がりがあって少し落ち着いた感じがする集落がある。道の左手に利賀小学校百瀬川分校跡(平成元年休校,平成8年廃校)のRC三階建ての校舎が見当たったので,クルマを停めて写真を撮った。百瀬川(川の名称)が菅沼ダムあたりから山田川になることと,菅沼が「村の記憶」にも載っている廃村(昭和33年離村)ということは,この時現地で知ったことである。

「菅沼2 スノーシェッド」の脇にクルマを停めて歩き始める

# 15-6
越道峠からの道が合流してすぐ,「菅沼2 スノーシェッド」の左手に道の分岐があったので,これを菅沼ルートの始まりと捉えて,クルマを停めて歩き始めた。ダートの道にあるクルマの轍は「もう少し先まで行けたかな」と思わせるほどしっかりしている。しかし,水流で荒れた箇所の突破はレンタカーでは無理で,歩く判断は正解だった。尾根に近い高清水に向かう山道歩きは見晴らしが良く,熊鈴のリズムもあってなかなか気持ちが良い。
歩き始めて35分ほど,3kmぐらいの地点で,特徴がある直線道までたどり着き,「高清水に着いたかな」と思いながら路傍を見ると,コンクリの家屋の基礎が見当たった。道なりに右カーブを曲がってすぐ,左手に冬季分校跡の校舎の二階が見えた時には「ついに来た!」と思った。

......

      「高清水に着いたかな」と感じた特徴がある直線道           「ついに来た!」 高清水冬季分校跡の木造校舎

# 15-7
鍋谷小学校深道分校高清水冬季分校は,へき地等級3級,児童数9名(S.34),昭和34年開校,昭和42年閉校(閉村も同年)。「村の記憶」によると,往時の高清水の戸数は4戸。これとは別に黒鉛鉱山(昭和41年閉山)の宿舎兼事務所があり,所在は先に見たコンクリの家屋の基礎あたりのようだった。
木造二階建ての冬季分校跡の校舎は,放棄されて久しい様子だったが,「お邪魔します」とご挨拶して,急な階段を上ってみた。二階には,分校時代のものと思われる富山県の古い地図と,森林開発公団(平成11年まで存続した農水省所管の組織)のポスターが貼られていた。校舎の側面にも森林開発公団の丸い小さな看板が張られていることから,放棄前,この建物は公団の作業所として使われていたことが想像された。

....

 木造二階建ての校舎が,傷みながらも残っていた                二階には,森林開発公団のポスターが貼られていた


# 15-8
分校跡の少し先には,落ち着いた佇まいの五箇徳次郎碑(明治40年建立)とお墓が見当たった。チョコレートをかじりながら,「菅沼に戻ろうかな」とも思ったが,高清水とその先の深道(Fukadou)の間は約4q。道はしっかりと続いていそうなので,「深道まで歩こう」と判断した。
標高は高清水が680mに対して,深道は570m。山道は高沼・脇谷ルートとの三差路を過ぎたあたりから下りが始まった。とても深い山田川の谷を挟んで向こう側には,菅沼と数納を結ぶ舗装道の道筋がはっきり見下ろせた。途中の紅葉はとても綺麗で,往時の村の人達もこの道を歩いたことなのだろう。 高清水から歩き始めて45分ほどで「生活環境保全林整備事業」という山田村の名称入りの看板が見えてきた。

# 15-9
深道の集落跡は,ブナ林の散策地として整えられている様子だが,簡単に人が来れそうな感じではない。高清水とともに電柱はなく,往時も電気は通らなかったのではないだろうか。目になじみがある分校跡の標柱(平成4年建立)は,集落の中央部,三差路のすぐそばに立っていた。
鍋谷小学校深道分校は,へき地等級3級,児童数16名(S.34),明治21年開校,昭和45年閉校(同年閉村)。「村の記憶」によると,往時の深道の戸数は8戸。往時は蓑が特産物だったとのこと。行政が管理するブナ林の散策地となった集落跡で見られた往時のものは,モニュメントのようなコンクリに固められた五右衛門風呂の釜だけだった。深道から先,居舟(廃村)に向かう道の様子はわからず終いだが,レンタカーは通れないことだろう。

....

     ブナ林の散策地となった深道集落跡                     小さいながらも存在感がある深道分校跡の標柱


# 15-10
深道から高清水を経て菅沼に戻る道をたどり始めたのは午後1時35分。7kmの帰り道はなかなか長く,1時間50分かかった。リアルゴールドは高清水での休憩時に飲み,チョコレートは菅沼のスノーシェッドが見えたところで食べ切った。
4時間ぶりにクルマに戻り,百瀬川を渡ってすぐの数納(Sunou)に向かう舗装道の入口には通行止の看板が出ていた。しかし,施錠はなかったので「大丈夫でしょう」と信じて走ると,路面に落石があったものの,無事に走ることができた。旧利賀村と旧山田村を短絡するこの道,使用頻度はわずかのようだ。数納の集落跡(標高450m)は,道が急に細くなる箇所の手前にあり,まず「谷口家跡地」という新しい石碑が見当たった。

....

    数納集落跡の中心には地蔵堂が奉られていた                神社跡から移転した「牛嶽社跡 数納」と刻まれた石碑

# 15-11
鍋谷小学校数納冬季分校は,へき地等級2級,児童数12名(S.34),明治27年開校,昭和46年閉校(同年閉村)。「村の記憶」によると,往時の数納の戸数は11戸,電気は通じていたみたいだ。合掌造りの家々は,各地に移設されているとのこと。集落跡の中心には地蔵堂が奉られており,その背後には神社跡から移転した「牛嶽社跡 数納」と刻まれた石碑が建っていた。冬季分校は,この石碑の辺りにあったようだ。
数納から最寄りの集落 谷に出て,川向こうの居舟口バス停を確認に行くと,居舟に続く道の入口には「関係車両以外 通行止」の看板が構えていた。ほど近くの鍋谷小学校跡の石碑に「無事に高清水,深道,数納に行くことができました」とご挨拶した頃には,周囲は夕闇に包まれていた。

# 15-12
旧山田村中心部を経て富山駅前に戻ったのは午後6時頃。この日の走行距離は113km,歩数は3万3千歩。途中の車中で食べた肉まんは,記憶に残る美味しさだった。この夜は富山駅前のビジネスホテルに泊まり。高岡駅で旧知の友人 山崎惟且さんと落ち合って,地域の居酒屋で寒ブリなどを味わった。
翌8日(土,旅3日目),高山本線 猪谷行普通列車は早朝5時42分発。猪谷,高山,美濃太田,各務ヶ原,岐阜と列車を乗り継いで,お昼頃,名古屋駅でコンパの皆と合流。知多半島に足を運ぶのは今回が初めて。この夜は篠島の民宿に泊まり,太平洋の波音を聞きながら皆でフグ料理を堪能した。
午年の廃村探索はこれにて打ち止め。「廃村千選」の累計訪問数は434か所,新規訪問数は40か所/年(見込みよりやや多めの数)となった。



「廃村と過疎の風景(11)」ホーム
inserted by FC2 system