未年 旅の始めは越中路

未年 旅の始めは越中路 富山県富山市大玉生,東原,_____________
______________________________________南砺市草嶺,北原,高沼,押場

廃村 高沼(たかぬま)の分校跡の校舎は,雪に埋もれていた



2015/1/9〜10 富山市(旧八尾町)大玉生,東原,南砺市(旧利賀村)草嶺,北原,高沼,押場

# 16-1
平成27年(未年),新年初の廃校廃村への旅は,あえて雪と縁が深い富山県旧八尾町,旧利賀村の廃村を目指した。旧八尾町大玉生(Oodamou),東原(Higashihara)は,前年(H.26)11月の富山の廃村めぐりの未消化分から選んた。旧利賀村北原(Kitahara),高沼(Takanuma),草嶺(Sourei),押場(Oshiba)は,北原に3年半前(H.23)の夏に泊まった民宿「利賀乃家」があり,ここに泊まる計画を立てたことから訪ねることになった。
当初は単独で,雪道をレンタカーで走ることに挑戦しようと立てた計画だったが,国立環境研究所の研究員 深澤圭太さんに話をしたところ,複数での探索に発展した。メンバーは深澤さん,国土交通省の調査官 岩浅さん,東京大学農学生命科学研究科の次期大学院生 杉本さんと私の4名となった。

# 16-2
1月9日(金),南浦和の家出発は朝6時50分。天候は太平洋側は晴,日本海側は曇時々雪。大宮から乗った新幹線「Maxとき」で一行に合流し,乗り納めの在来線「はくたか」に乗り継いで富山駅に到着したのは午前10時20分頃。「雪の利賀村へ向かう」ので,オプションのタイヤチェーンを借りた。
運転は主が深澤さん,サブが私の担当となった。富山市街から越中八尾駅まで,道端にちらほら見られるぐらいだった雪は,八尾から大長谷川沿いのR.471を山へと進んでいくうちにどんどん深くなってきた。三ツ松でR.471から分岐した大玉生までの道では向こうから除雪車が走ってきて,別世界に来た感じとなった。除雪車はショベルカーとロータリー車(スノウブロワー)の組み合わせになっていて,狭い道ですれ違うとすごい迫力が感じられた。

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大玉生へ向かう道で作業するロータリー除雪車

# 16-3
大玉生は6戸14名(S.50)が3戸8名(H.24)。市指定天然記念物のカツラの大木と,桂の清水という湧き水がある。カツラの木の前にクルマを停めて周囲を見渡したところ,人の気配がある家が1戸,少し離れた場所に見当たった。
6戸ほどの閉ざされた家々は,屋根の雪下ろしがされているものとされていないものが半々ぐらい。除雪車の方と話ができたので,伺ったところ,冬の大玉生で住まれているのは1戸のみで,平成になってから越されてきた方とのことだった。
大玉生では1kmほど奥の廃村 吉友(Yoshitomo)に向かう道で,カンジキ歩きの練習を行った。私を除く3名は,カンジキは今回は初めてだ。

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大玉生・カツラの大木(市指定天然記念物)            深さ1m以上の雪に埋もれた大玉生−吉友間の道    .

# 16-4
除雪の終了地点で山となった雪の上に登ると,道には同じ高さの雪が積もっていました。深さ1m以上の雪の中のカンジキ歩きは私も初めてのことだ。ストックを持った深澤さんを先頭に200mほど先の橋を目指して歩いたところ,「これは片道500mぐらいが限度」という見当がついた。
仁歩小学校大玉生分校は,へき地等級1級,児童数52名(S.34),明治20年開校,昭和48年休校,昭和58年閉校。二万五千図(山田温泉,S.45)に文マークは記されていなかったが,除雪車の方のおかげで,カツラの木よりも下手,道から見上げる方向に分校跡の木造校舎を見ることができた。
分校跡付近で昼食をとった後,東原に向かう道では私が運転した。少し前まで付いていても使わなかったカーナビだが,あれば便利なことは違いない。

人の気配は感じられない東原バス停

# 16-5
東原は6戸18名(S.50)が2戸4名(H.24)。八尾から大長谷川流域最奥の集落 庵谷(Ioridani,1戸1名)にある大長谷温泉行きのバスは日に2往復。バス停は雪に埋もれていて,周囲を歩くと2戸の家々が見つかったが,人の気配はなかった。
大長谷小学校東原分校は,へき地等級2級,児童数56名(S.34),明治21年開校,昭和53年休校,昭和59年閉校。二万五千図(利賀,S.48)に文マークは記されていたが,雪の中のせいなのか,その場所に学校跡の気配は感じられなかった。
大長谷村は昭和の大合併まで存続した自治体で,戦前(S.10)1,457名だった人口は,412名(S.50),53名(H.24)と,減少率は著しい。

# 16-6
東原・大長谷川流域から利賀村方面に向かうR.471には,栃折峠という難所がある(標高625m)。市境になっているこの峠の少し手前で,クルマの前輪がスリップし始めた。急きょチェーンをかけることになり事なきを得ましたが,単独だと機転の利いた動きは難しかったに違いない。
峠を越えて山田川流域に入り,百瀬川では2mを超える雪の壁があって,冬の雪国の気象の厳しさが実感できた。途中,廃村 高清水(Koushumizu)に向かう歩道の入口は雪に埋もれてわからなくなっていた。百瀬川から利賀村中心部(利賀川流域)には,トンネルで緊張感なく抜けることができた。
夕闇が迫る中,目指した草嶺のR.471から鎮守様(神明宮)までの道のりは150m。その入口は,電話ボックスがなければ見つからなかったかもしれない。

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     草嶺・深さ2m近い雪が積もった棚田の跡                 草嶺・カンジキを履いて歩いてたどり着いた鎮守様(神明宮)


# 16-7
草嶺は2戸15名(S.50)がゼロ(H.24)。無住化は平成11年。冬季分校の閉校は昭和52年。深さ2m近くある雪原には,棚田の跡の段々がはっきり表れていた。ゆるやかな坂を下ること20分ほどで到着した神明宮では,3年半前の記憶の通り,見事な木彫りの獅子が迎えてくれた。
皆で木彫りを眺めていると,杉本さんから「獅子の横に居るのはゾウですよね」という声が上がった。改めて見てみると,確かにゾウの姿があった。複数で訪ねると,いろいろなものが見えてくる。杉本さんは平成2年生まれ,廃村は今回が初めてだが,見る目はなかなか鋭いようだ。北原の「利賀乃家」到着は,夜の帳が下りた午後6時。心配していた宿近くの急坂も,チェーンのおかげで安心して乗り切ることができた。

# 16-8
温泉に入ってひと息ついた後,「利賀乃家」で食べたお刺身はヤマメと寒ブナ。お酒は五箇山の地酒「三笑楽」。深澤さんは昭和58年生まれ,岩浅さんは昭和54年生まれで,私(昭和37年生まれ)よりもふた回りぐらい若く,だんだん年配の層に押し上げられていくことが実感された。
1月10日(土),起床は朝6時。夜の間に降った雪で,クルマは真っ白になっていた。しかし,道が凍結しておらず,まずまず温かいようだ。北原は1戸3名(S.50・H.24とも)。利賀小学校北原分校は,へき地等級2級,児童数18名(S.34),明治35年開校,昭和46年休校,昭和60年閉校。深澤さんと二人で宿の目の前にある分校跡の雪原を横切ってたどり着いた鎮守様(八幡社)は,6年前(H.21)の冬よりも明らかに深い雪に包まれていた。

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「利賀乃家」の目の前にある北原分校跡                     北原・6年ぶりに訪ねた雪の鎮守様(八幡社)


# 16-9
朝食をとって一服した後,「利賀乃家」を出発したのは午前9時30分頃。クルマの雪を下ろしながら宿のご主人にお話を伺ったところ,「この頃の冬は雪が多いが,昔と比べて湿り気が多くなり,雨が降ることも多くなった」とのこと。
R.471を利賀村中心部に向かって走ると,栗当の辺りから陽が射してきたので,脇谷の湧き水を汲みがてら集合写真を撮った。高沼は3戸13名(S.50)が1戸2名(H.24)。利賀小学校高沼分校は,へき地等級2級,児童数52名(S.34),明治35年開校,昭和53年休校,平成8年閉校。1戸残る大きな木造2階建ての家屋の前にある井波と利賀村中心部を結ぶバスは日に3往復。家の屋根には多くの雪が積もっていたが,住まれる方は在宅の様子だった。

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 脇谷の湧き水のそばで集合写真を撮る                      高沼・1戸残る大きな木造2階建ての家屋

# 16-10
押場の集落入口から鎮守様(八幡宮)まではゆるやかな下り道で約500m。ちょうど良い距離なので,押場までのカンジキ歩きをこの旅のメインイベントと位置付けた。若い衆3名がカンジキ歩きに慣れるスピードは速く,私はのんびり最後尾についた。途中,水の流れがある箇所では2m超の高低差がある雪の切れ目ができていたが,段を作りながら下ってから上って乗り切った。
押場は3戸13名(S.50)が,ゼロ(H.24)。無住化は平成12年。冬季分校の閉校は昭和43年。見かけたのは八幡宮とその隣の建物,道の終点の大きな廃屋。3年前(H.23)の夏,バイクで訪ねたとき,相当傷んでいた大きな廃屋は,すごい量の雪を背負いながらもしっかり建っていた。

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押場・3年半ぶりにたどり着いた道の終点の大きな廃屋                   押場・帰路は道を外れて雪の斜面を歩く     .

# 16-11
八幡宮にお参りした後,帰路は雪の斜面をショートカットしたが,雪中に草むらはなく,問題なくR.471まで上がることができた。利賀村は平成の大合併まで存続した自治体で,戦前(S.10)3,055名だった人口は,1528名(S.50)が587名(H.24)。昼食は村中心部のスーパーで買ったカップ麺で済ませた。
杉本さんの祖父(杉谷和男さん)が旧細入村加賀沢(Kagasawa)という廃村の出身で,「加賀澤村と杉谷」という書籍を出されている縁を考えて,先を急ぐ岩浅さんと私は越中八尾駅でJR高山本線に乗り継ぎ,八尾からクルマで1時間弱の距離にある加賀沢を目指す深澤さんと杉本さんを見送った。
岩浅さんと富山駅で分かれ,乗り納めの富山発「サンダーバード」に乗って,大阪・堺の実家に到着したのは午後8時過ぎ(定刻の28分遅れ)だった。



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