三度の判断ミスをカバーした執念

三度の判断ミスをカバーした執念 北海道和寒町東和,東和開拓,____
_________________________________小平町川上,滝下東和,増毛町歩古丹

漁村の廃村 歩古丹(あゆみこたん),小学校跡の建物が海の縁に残っていた



2015/5/29 和寒町東和,東和開拓,小平町川上,滝下東和,増毛町歩古丹

# 20-1
平成27年1月,ムック本『廃村をゆく』(イカロス出版刊,2011)の縁から,新たなムック本『日本の廃村をめぐる』(仮題)の執筆の依頼が入った。本業の傍ら110ページの本の執筆を単独で行うのはたいへんなことなので,完成のメドは平成28年3月としていただいた。
これに加えて,平成27年4月,書籍『撤退の農村計画』(学芸出版社刊,2010)の編著者 林直樹さんから,新たな書籍『縮拓の技術』(仮題)での章単位の原稿執筆の依頼が入った。分量はおよそ20ページ,原稿〆切は6月末,完成のメドは11月頃とのこと。私はこれまで市販本の執筆はしたことがない。縁とは重なるものである。

# 20-2
平成27年5月,函館在住の探索仲間のラオウさんと北海道・道南の廃校廃村をめぐる予定は,1年前頃から計画されていた。道南の前に『日本の廃村をめぐる』道北 和寒町東和開拓の取材,後に『縮拓の技術』秋田県上小阿仁村萩形の取材が加わり,行程が確定したのは出発5日前のことである。
平成27年5月29日(金),起床は未明4時,早朝のJR南浦和駅では,3日前,改札近くに突然現れた馬の巨大オブジェが迎えてくれた。東京モノレールでは車両故障にぶつかり,しかたなく京急へ振り替え輸送。羽田空港着は6時21分。予定の20分遅れ。モノレールは運休のままだ。旭川行きのエアドゥ便の出発は6時45分。やや急ぎ気味ぐらいで搭乗手続きに向かうとかなりあわただしい状況になっているらしいことがわかった。

早朝のJR南浦和駅,改札近くに突然現れた馬の巨大オブジェ

# 20-3
しかし,チェックイン,保安検査場ともに,行列の人なみに委ねられることに変わりない。結局,保安検査場からは,駆け足で搭乗口へ向かうことになり,最終の乗客として飛行機に乗れたのは6時47分。保安検査場では「フライトまで時間がない!」とアピールすることが大事という教訓を得た。羽田発は10分ぐらい遅れたようだが,旭川空港着は8時25分で定刻通り。着陸間際の機窓から見える上川盆地には,一面水を張った田んぼが続いていた。
旭川空港では,今回初めて一緒に探索する仲間の田中さん(旭川在住)のクルマが迎えてくれた。旭川市街を避けて,上川盆地を走り抜け,ゆるやかな塩狩峠(標高259m)を越えて,和寒町に入ってすぐ,田中さんは私が予定していなかった塩狩(Shiokari)の小学校跡地を案内してくれた。

# 20-4
塩狩小学校は,へき地等級2級,児童数25名(S.34),昭和7年開校,昭和44年閉校。「編者が訪ねた「廃校廃村」リスト」のトップを飾るのは,昭和56年7月,駅近くのユースホステルに泊まったことに起因する。それから34年経ち,駅から4qほど離れた小学校跡に初めて行くことができた。また,塩狩,東和,東和開拓の様子は,長い付合いの探索仲間の成瀬さん(札幌在住)のレポート(平成22年)でなじみがあり,「ようやく行けた」と思った。
塩狩からは和寒バスターミナル横のセイコマに立ち寄り,和寒町最北部の廃村千選のポイント 東和(Touwa)に向かった。東和は3戸7名(H.26)の高度過疎集落。小学校跡地の案内板は,平成24年,和寒町内のすべての学校跡に一斉に建てられたもので,東和でも見当たった。

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塩狩・校歌や沿革等が記された小学校跡の案内板               東和・生ごみ処理場入口に立つ門柱風モニュメント


# 20-5
東和小学校は,へき地等級2級,児童数99名(S.34),大正6年開校,昭和51年閉校。学校跡には,二町(和寒・剣淵)の広域生ごみ処理場が建っているが,建物は広い敷地の中にあるので,荒れた感じはしなかった。三差路の角には商店跡があり,印象的だった看板は,残念ながら失われていた。 東和からは舗装道をほぼ南に向かって進み,東和開拓の小学校跡(東陵小学校跡)を目指した。東和開拓には,昭和22年,海外からの引揚者,農家の二三男などが入植を開始した。和寒町内には,東和をはじめ7つの戦後開拓地がある。東和−東和開拓間は4q強。整備された舗装道をクルマで走るとすぐだが,ダートを歩くとまずまずの距離が感じられたことなのだろう。住宅地図から推定した東和開拓の離村年は平成12年頃である。

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    東和開拓・小学校跡の案内板は,和寒町内共通仕様          無住の地に立つ 和寒町営バス 東陵バス停

# 20-6
東陵小学校は,へき地等級3級,児童数76名(S.34),昭和27年開校,昭和46年閉校。学校跡はササ藪と雑木林になっており,案内板がなかったら気がつかないに違いない。無住の地に立つバス停は健在だったが,平成26年より予約方式(デマンド)となったためか,時刻表は外されていた。
東陵小学校跡と東和二股(東和寄り)バス停の間,主要道沿いには畑と作業小屋,往時の住居と思われる家屋が見られる。地形図で見て,道路の右側には,トラクターが置かれた作業小屋がある。周囲には畑があり,通いで耕作されている様子だ。道路の左側には,木造二階建ての風情ある家屋が建っている。今は物置として使われているのであろうか。そばに大きなマツの木が立っているのが印象的だ。

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東和開拓・主要道沿いのトラクターが置かれた作業小屋              大きな木の下に木造二階建ての風情ある家屋が残る

# 20-7
東和開拓の探索のいちばんの目的は,「集落の記憶」で往時の様子を語っていただいた下司さんのブロック造りの生家跡を見に行くことだ。主要道からの分岐点 東和二股のバス停が見当たらないため,「学校跡からだと2つ目の橋を渡ってすぐ左手の脇道を進む」とアタリをつけて,ダートの脇道に入りクルマをゆっくり走らせた。成瀬さんに貸していただいた「東陵小学校閉校記念誌」の中の校下略図は,探索にはとてもありがたい資料だ。
やがて,青っぽい作業小屋が見えてきたので,ここでクルマを停めた。大きなフキの葉が,あちらこちらに茂っている。校下略図を確認すると,作業小屋はTさんの開拓農家跡地に建てられているらしい。

# 20-8
草が茂る頼りない小道を田中さんとふたりでたどると,やがて行く手はササ薮になったが,幸い周囲はなだらかで見晴らしのよい草地だ。ササ薮を避けて丘を上る方向に草地を進むと,やがて錆びたトタン屋根とガレキが残る家屋跡にたどりついた。 校下略図を確認すると,ここにはかつてMさんの開拓農家が建っていたらしい。下司さんの生家跡は,Mさんの開拓農家跡よりも奥にあることは間違いない。
しかし,道筋は定かではなく,川近くの道筋がありそうな場所はササ藪となっている。朝に届いた成瀬さんからのメールを見直すと,「遥か先にマツの木が見えますので,それを目標にすると良いと思います」と記されている。行く手の方向を見ると,谷間に一本高い木が見える。

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東和開拓・錆びたトタン屋根が残るMさんの開拓農家跡              下司さんのブロック造りの生家跡は,屋根が陥没していた

# 20-9
幸い,木までは広い草原が続いているので,田中さんと「あの木を目指して行きましょう」と先を進むことになった。私の探索のスタイルでは,木を目印にすることはこれまでなかった。本州以南と植生が大きく違う,北海道ならではのスタイルなのかもしれない。目印の木の近くまでたどり着くと,雑木,ササ藪,フキ,イタドリ,シダ類と,高さがある草がしっかり生えていたが,フキ,イタドリ,シダ類は折っていけばよいから,何とかなりそうだ。
下司さんの生家跡は,残念ながら屋根が大きく陥没していた。中をうかがうと,いろいろなものがガレキになっていた。木で造られた棚や机は,少しずつ朽ちて,土に還ってゆくのだろう。ブロックのコーナーとなっている場所は,窓ガラスが割れずに残っていて,部屋の雰囲気を醸し出していた。

ブロックのコーナーとなっている場所は,和寒高校の貼りものが見られた


# 20-10
この日は旭川空港から和寒町東和開拓,増毛町歩古丹(Ayumikotan)を経由して,小樽市銭函まで約310km走るというスケジュール。陸の孤島の漁業集落 歩古丹の様子も,成瀬さんのレポート(平成21年)でなじみがあり,「よい機会なので,あわせて訪ねよう」となった。「昼食をどうしよう」と田中さんと相談したところ,東和開拓から約45km離れたR.239とR.275の交点,幌加内町添牛内の旧JR深名線添牛内駅跡でとることになった。
深名線の廃止は平成7年9月だから,今年は20年目。田中さんによると,「添牛内駅の駅舎は,旧深名線の中でいちばん雰囲気が保たれている」とのこと。幌加内町というと,そばの産地で有名だが,人口はわずか1600名。ずいぶん過疎が進んでいることを改めて知った。

# 20-11
添牛内駅跡からはR.239で霧立峠を越えて,途中から県道に入り,川上,滝下,達布を通るルートを選んだ。添牛内から達布までの道は,平成元年8月,KATANA750でツーリングしたときにも通っているが,まったく記憶に残っていない。26年ぶりに訪ねた廃村千選のポイント,小平町川上(Kawakami)には,大きな肉牛肥育の施設があって,その片隅に「懐古の碑」と刻まれた離村記念碑が建てられていた。
川上小学校は,へき地等級4級,児童数32名(S.34),明治44年開校,昭和49年閉校。五万地形図(達布,S.35)を見ると,碑は学校跡の敷地に建てられている様子だ。近くには「農作業管理休養施設(川上)」という標札がある建物があり,旧川上集落に係わるものではないかと推測される。

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  川上・分校跡に建つ「懐古の碑」と刻まれた離村記念碑           サイロと「農作業管理休養施設(川上)」という標札がある建物


# 20-12
川上「懐古の碑」からは県道を下り,次のポイント滝下(Takishita)を目指した。五万地形図(達布,S.35)の「滝下」という地名のそばに文マークがあるが,この場所は今は小平ダムのダム湖(おびらしべ湖)となっており,湖にかかる中記念別橋のやや東側の様子だ。
滝下小学校(のち東和小学校)は,へき地等級3級,児童数93名(S.34),明治41年開校,昭和38年改称,昭和43年閉校。訪ねた時点は,滝下小学校は移転せず東和小学校と名祢変更したと思っており,「学校跡地を橋から見ることができたらよし」という気持ちでいた。すると,田中さんから「2kmほど上流にもうひとつ文マークがあるでしょう。これは東和中学校で,滝下小学校は名称変更時にここに移転したんですよ」という話が出てきた。

# 20-13
そう,私は五万地形図の「2kmほど上流のもうひとつ文マーク」に気が付いていなかった。東和中学校は,へき地等級3級,生徒数42名(S.34),昭和25年開校,昭和43年閉校。学校から5kmほど離れた十五号の沢沿いには,新日本炭業福久鉱という炭鉱が短期間稼働していたとのこと(昭和42年閉山) 。
東和小中学校跡のそばにかかる照曜橋(おそらく廃橋)は,クルマの窓から見えていた。滝下小学校跡を確認後,「道を戻って,チェックしておくべきかなあ…」と,いくぶん迷ったが,戻り道はせず先を急いだ。字滝下(達布の東隣,小平ダムの手前)の規模は,5戸11名(H.26)。これまで滝下は高度過疎集落として扱っていたが,「距離的にも切り分けたほうがよい」と判断し,「滝下東和」という名称で,炭鉱関係の廃村として扱うことになった。

中記念別橋から見下ろした滝下小学校跡付近の風景

# 20-14
川上は,昭和49年,集落再編成事業で22戸が集団移転,滝下東和(滝下第二)は,昭和52年,ダム用地となり25戸が集団移転。川上と滝下東和は,立ち寄ったことで新しい発見があり,個人的な注目度は高まった。
中記念別橋を後にして,達布の古い商店でジュースを買って,達布から本郷までは天塩炭鉱鉄道跡の県道を走った。小平から留萌までのR.232沿いには国鉄羽幌線跡の路盤が,留萌から増毛までのR.231沿いにはJR留萌本線の路盤が時々見えた。くしくも6月,「JR北海道は,留萌−増毛間を平成30年度までに廃止する意向」と報じられた。増毛は二階建て木造校舎の小学校跡が有名だが,先を急ぐため,木造校舎は走るクルマの窓から見るに留めた。

# 20-15
増毛市街を過ぎて20分ほど,マッカ岬トンネルを越え,歩古丹に到着したのは午後3時50分頃。R.231の歩古丹橋とすぐ先にある夕観橋の間の駐車スペースにクルマを停めて,夕観橋から浜のほうを見下ろしたが,ネット上でよく見かける歩古丹小学校跡校舎の屋根は見当たらない。
「屋根は見当たりませんね」と私が話すと,「草が茂ると見えなくなることもあるそうです」と田中さんのお返事。「GWに下見で訪ねたとき,少し先にある岬映橋と夕観橋の間に下りやすい箇所を見つけました」とのことで,そこから海岸へ向かって下りることになった。その箇所は,岩が集まる小さな沢で,ところどころに水流があるがまずまず歩きやすく,10分ほどで海岸まで下りることができた。

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   R.231 歩古丹橋の看板近くにクルマを停める               高さ70mほどの崖を下り,たどり着いた歩古丹の海岸

# 20-16
「絶壁の海岸に沿った漁村」への交通手段は船や山道の徒歩交通が主で,移転時,車道は通じていなかった。海岸に着いて,私は五万地形図(雄冬,1961)を見て,「文マークは,向かって右側にありますね」といって,海岸沿いを増毛側に歩き始めた。現在残る歩古丹小学校跡の校舎は,昭和40年5月に建設されたもので,それまでの学校は別の場所にあったらしいことは,旅が終わって,二万五千図(別苅,1969)と比べてわかったことだ。
海岸を歩いているうちに,右手に往時に作られたと思われる丸い岩を積んだ石垣が見つかった。石垣の真上に行くと,木造家屋のガレキが見られた。そばには,小さな川を挟んで木製の電柱が建っている。手元の五万地形図を見る限りではこの辺りに学校があったっぽいが,気配はしない。

# 20-17
電話が通じたので,歩古丹に行かれたことがある成瀬さんに現状を報告して「学校跡が川の向こう(電柱側)にあるか,手前(ガレキ側)になるか」だけ確認したかったのだが,「わかりません」とのお返事。今思えば,話がかみ合わなくてもしかたがない。
歩古丹小学校は,へき地等級5級,児童数10名(S.34),明治25年開校,昭和40年移転,昭和46年閉校(同年閉村)。ガレキから少し上に行ったところに,ゆるやかな小道と広めの平地があった。「校舎が残る学校跡」をイメージしていたから,「何かそれっぽいけど,違いますね・・・」などと田中さんと話した記憶があるが,改めて1961年の地形図から考えると,そこが昭和40年の移転以前の学校跡だったかもしれない。

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       海岸沿いに残る丸い岩を積んだ石垣                 歩古丹橋の下あたりに謎のレンガ造りの構造物を見つけた

# 20-18
探索の範囲がどんどん崖の上のほうとなってきたので,「成果がなかったら,5時半には国道に戻りましょう」と決めて,各自探索を続けた。 歩古丹橋(標高89m)の下あたりを探索しているうちに,謎の大きなレンガ造りの構造物を見つけた。近寄らなかったのだが,高さは5mぐらいはあると思われる。谷間にあったので,「橋脚ではないか」と考えたが,その実態は謎である。
二人が合流したのは夕方5時40分頃。すでに探索開始から2時間近く経っているが,幸い5月下旬は陽が長い。田中さんと話し合ったところ,「あと1時間,一発勝負をかけましょうか」となり,再び学校跡を目指すことになった。

# 20-19
私は電話で歩古丹に行かれたことがある井手口さんに現状を報告して,取っ掛かりをつかもうとしたが,そうこうしているうちに,田中さんは夕観橋(標高80m)の歩古丹橋寄りの脇から先行して,谷間に下りて行った。このルートはとても険しく,「途中に何かある」という雰囲気は皆無だ。
私は,ゆっくり草や木をつかみながら下りていくと,海岸到着は5分遅れぐらいになった。海岸沿いの石垣に座って携帯を確認すると,井手口さんから「岬映橋の下あたりではないでしょうか」,「夕観橋あたりから降りれないでしょうか」とのメールで返事があった。確認をしているうちに,田中さんが雄冬寄りの海岸からやってきて,「ついに見つかりました!」との声をかけてくれた。

歩古丹小学校跡の校舎の屋根の向こうには,岬映橋と月が見えた

# 20-20
最終年度(昭和45年度)の歩古丹小中学校は児童4名,生徒2名,集落の戸数は4戸だったという。閉校・閉村から44年経って,校舎内部の黒板はめくれ上がり,天井は半ば青空になり,床はガレキだらけになっていた。荒れた光景の中,廊下側の窓から夕陽は,強く記憶に刻まれた。
振り返ると,(1)「最初に岬映橋に行かなかったこと」,(2)「地形図情報を過信したこと」,(3)「再度のチャレンジに,夕観橋から下りるルートを選んだこと」などの判断ミスが続いたにもかかわらず,最後に学校跡が見つかったというのは,田中さんと私の執念の賜物と言えそうだ。
岬映橋に戻り着いたのは夕方7時頃。最初に見るはずの橋から見下した小学校跡の校舎を,私と田中さんは,探索終了後初めて見ることになった。

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夕陽を浴びる歩古丹小学校跡の校舎内部            最後に岬映橋から見下した歩古丹小学校跡の校舎   .

# 20-21
この日泊まる小樽市銭函の旅人宿「小さな旅の博物館」(通称「ちいたび」)に到着したのは夜9時15分頃。旭川空港から,東和開拓,添牛内,歩古丹経由,銭函まではおよそ310km。田中さん,運転おつかれさま。「ちいたび」は,平成元年夏のツーリング,平成4年夏のツーリングでも泊まっており,今回が3度目。宿主(わんわんさん)は,23年ぶりの旅人をほがらかに迎えてくれた。
宿近くのセイコマで調達した夕食をアテに焼酎を飲みながら,3人でわいわいと歓談。田中さんが眠りにつかれた頃から,わんわんさんのギターで,私と2人の「シングアウト」が始まった。私が「サザンの歌が唄いたい」というと,わんわんさんは「旅姿六人衆」というシブい歌を弾いてくれた。

(追記1) 途中立ち寄ったJR深名線の添牛内駅跡を紹介する。芝桜が植えられた駅前には,往時の雰囲気がほのかに残っていた。


(追記2) 『日本の廃村をめぐる』(仮題)は,『廃村をゆく2』というタイトルで平成28年5月に完成した。

(追記3) 『縮拓の技術』(仮題)の完成のメドは,平成29年9月頃になったと思われる(平成29年4月現在)。



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