ついに道が通じた陸の孤島

ついに道が通じた陸の孤島 北海道せたな町日中戸,ヌタップ,____
__________________________________________________________________厚沢部町須賀

漁村の廃村 日中戸,学校跡から見た日本海と川の河口



2015/5/30 せたな町(旧北檜山町)日中戸,(旧大成町)ヌタップ,厚沢部町須賀

# 21-1
平成27年5月30日(土),北海道・秋田の廃村めぐり2日目,起床は朝5時40分頃。23年ぶりに泊まった銭函の旅人宿「小さな旅の博物館」(ちいたび)の2階の客室からは,ほんのりと日本海が見え,道沿いにはレモンイエローの交通安全旗がはためいている。
朝食時,「レモンイエローの交通安全旗を見ると,北海道に来たって気がするんですよ」と宿主のわんわんさん,田中さんに話すと,二人ともピンと来ない様子だ。私にとって非日常的な風景が,二人にとって日常的なものであることがよくわかる。ちいたびを出発時,ふと,23年前,私は今の田中さんと同い年だったことに気が付いた。

北海道らしいレモンイエローの交通安全旗(「小さな旅の博物館」前にて)

# 21-2
この日は,午前10時半,210km先の檜山管内のせたな町瀬棚港フェリーターミナルで,ラオウさん,成瀬さんと待ち合わせる予定になっている。銭函出発は午前6時50分。平均時速50km/hで走っても予定時間には到着しない。
「安全第一で,マイペースで走りましょう」と話しながら,小樽,余市,岩内と淡々と走る。それでも途中,道の駅「いわない」近辺では食堂に立ち寄り,たらの塩焼き定食で鋭気を養った。後志管内西端の島牧村まで来ると,最果て感が強くなる。運転しながら田中さんは,「この集落にはこんな廃校があって・・・」と話すのだが,残念ながら立ち寄る余裕がない。一か所ぐらい「これは」という場所に立ち寄ってもよかったかもしれない。

# 21-3
メールで「少々遅れそうです」と連絡を取りながら,瀬棚港に到着したのは午前11時半。ラオウさんとは平成24年5月以来3年ぶり,成瀬さんとは平成23年8月以来4年ぶりの再会となる。瀬棚のセイコマで昼食を買って,まず,長い間陸路がなかった漁村の廃村 日中戸(Nicchuube)を目指した。
旧北檜山町の行止まり集落 日中戸は,明治期から大正期にかけてニシン漁で賑わったが,川のそばにあった漁業集落は昭和38年9月の集中豪雨で壊滅的な被害を蒙り,翌39年3月に全戸離村した。海辺の道道は長い間通じないままだったが,平成25年4月に開通し,クルマで行けるようになった。
私は昭和63年8月,手前の水垂岬付近までバイクで走ってきたが,「通行止」の看板に阻まれて戻って以来,27年ぶりのリベンジだ。

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日中戸に残る木製の電柱,電気は自家発電だった           河口の船着場跡らしき古いコンクリートの護岸        .

# 21-4
道道に架かる「日中戸橋」を渡ったところにクルマを停めたのは正午頃。日中戸小学校はへき地等級3級,児童数11名(S.34),明治31年開校,昭和39年閉校。川の北岸,小高くなった場所に木製の電柱が立っていて,上がった場所に石垣と学校建物の基礎が見つかった。
ラオウさんと成瀬さんはこのGW頃にも日中戸を訪ねたが,「フキやイタドリが成長して,雰囲気はずいぶん違う」とのこと。五万地形図(久遠,S.36)を頼りに成瀬さんは学校跡からさらに上の神社跡をめざしたが,残り3名は見守ることにした。橋の横から川へ下りていくと,河口には往時の船着場らしき古いコンクリートの護岸が見つかった。河原は丸い花崗岩の石ころで真っ白だった。

# 21-5
北海道本土最西端の尾花岬近辺を長いトンネルで越えて,昼食はトンネルの先の集落 太田の小学校跡でとった。太田小学校はへき地等級5級,児童数49名(S.34),明治15年開校,平成13年閉校。学校は,昭和38年9月の集中豪雨の被害を契機に移転したため,集落からは500mほど入った高台にある。
旧大成町の行止まり集落 太田は,昭和63年8月のツーリングでも行きたかったポイントで,このような形で足を運べるとは思いもよらなかった。太田集落の高齢化率は76%(H.26)と高いが,26戸46名とまずまずの規模がある。単独で訪ねていたら集落を歩いて,出会う方がいたらお話でもしたかったところだ。田中さんが話題にしていた,15世紀からの歴史があり,とても険しい参道の先にあるという太田神社も興味深い。

昼食休みで,太田小学校跡に立ち寄る

# 21-6
旧大成町中心部を過ぎ,宮野のセイコマで一服した後,戦後の開拓集落の廃村 ヌタップ(Nutappu)を目指した。海辺の宮野から川沿いのダートを7kmほど進むと,集落入口付近,道の右手の少し高い場所に「開拓記念之碑」と刻まれた古い石碑(昭和28年建立)が見当たった。
ヌタップは,昭和24年,樺太からの引揚者などが入植して拓かれ,昭和37年には12戸51名が暮らしたが,昭和39年,前年秋の豪雨被害を契機に全戸離村した。平和小学校はへき地等級5級,児童数25名(S.34),昭和26年開校,昭和39年閉校。学校跡はダートから右に入った場所にあり,五万地形図の文マークの場所にはササ藪の中に建物のガレキが見つかった。ラオウさんは今回ヌタップを訪ねて,奥尻島を除く道南の廃校廃村をすべて踏破した。

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   ヌタップ・「開拓記念之碑」と刻まれた古い石碑                ササ藪で見つかった平和小学校跡らしき建物のガレキ

# 21-7
日中戸,ヌタップと比較的簡単にたどり着いたこともあり,一行は足取りも軽くR.229を南下して,厚沢部町の戦後開拓の廃村 須賀(Suga)を目指した。宮野−須賀間は70kmほどあるが,約1時間半で到着した。須賀の5kmほど手前には館(Tate)というまとまった規模の集落があり,過疎の匂いは薄い。
須賀には昭和21年夏から樺太引揚者など30戸の入植があり,過疎化が進んだ昭和48年でも8戸の暮らしがあった。集落の無人化は昭和末頃。須賀小学校はへき地等級2級,児童数34名(S.34),昭和24年開校,昭和49年閉校。学校跡は主道と「町道須賀線」の分岐のすぐそばにあり,やや傷んだ校舎が残されていた。ラオウさんによると,校地は東京在住の卒業生が厚沢部町から購入し,近くに住む農家の方が運動場跡に畑を作り管理しているとのこと。

傷みながらもその姿を残す,須賀小学校跡の校舎

# 21-8
厚沢部町内では富里小学校跡(S.34 鷲巣小学校,昭和60年閉校),清和小学校跡(S.34 鶉越小学校,平成10年閉校),旧鶉小学校跡(平成10年移転)にも立ち寄った。私は守備範囲外だが,昔ながらの校舎を見るのは悪くない。道南の木造校舎に到達できて,田中さんはとても喜んでいた。
この日の走行距離は370kmぐらいあって,前日を上回った。田中さん,引き続き運転おつかれさま。宿は道の駅「江差」内の簡易宿泊施設「繁次郎番屋」。景色がよい海辺にあって,仲間で気楽に使うにはちょうど良い施設だ。夕方5時半頃に受付を済ませ,江差町郊外のショッピングセンターで食料を,近くのセイコマで酒を調達し,4名で再会を祝しながらひとときの宴を楽しんだ。



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