チームワークで到達した開拓分校跡

チームワークで到達した開拓分校跡 北海道上ノ国町中外鉱山,大安在,__
___________________________________________上ノ沢,北斗市盤の沢,峩朗

戦後開拓集落の廃村 大安在(おおあんざい),分校跡には綺麗な便器が残されていた



2015/5/31 上ノ国町中外鉱山,大安在,上ノ沢,北斗市(旧上磯町)盤の沢,峩朗

# 22-1
平成27年5月31日(日),北海道・秋田の廃村めぐり3日目,起床は朝5時半頃。外は夜からの雨が降っており,少しひんやりとしている。部屋で軽い朝食をとり「繁次郎番屋」を出発したのは朝6時40分頃。悪天候のため,一行の足取りはやや重いが,天気予報は曇りのち晴れとのこと。足慣らしがてら,まず一行は江差線江差駅跡を訪ねた。平成26年5月に廃止された駅舎入口には「ありがとう江差駅」と記された標柱が建っていた。
この日,私の定位置はラオウさんのクルマの助手席。最初の廃校廃村は,上ノ国町中外鉱山(Chuugai-kouzan)。名称は鉱業会社の名前に由来する。主にマンガンを産出した鉱山は,昭和14年から61年まで稼働した。象徴的なペンシル型の焙焼炉は,集落の手前,道道右手にズリ山とともに残っていた。

中外鉱山・象徴的なペンシル型の焙焼炉(人物はラオウさんと成瀬さん)


# 22-2
中外鉱山集落跡の中心T字路に着いた頃には,雨は上がっていた。若葉小学校は,へき地等級2級,児童数336名(S.34),昭和15年開校,昭和62年閉校。集落の離村は平成初頃。学校跡はT字路の左手にあり,横断歩道があるのでわかりやすい。跡地には「若葉小学校跡 祝昭和40年卒業15回生 還暦記念 学舎は永遠に 平成21年9月29日」と記されたいう木製の案内板が立っている。二階建て木造校舎は,案内板が立った頃に取り壊されている。
T字路をまっすぐ進むと「通行止」の看板と閉ざされたゲートがあって,その脇には壊れた家屋が残っていた。ラオウさんによると商店跡の建物とのこと。地域の方のクルマが停まっていたので,様子をうかがうと,通いの耕作で来られているようだった。

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若葉小学校跡には卒業生製作の木製案内板が立っている            中外鉱山・ゲートの脇に壊れた商店跡の家屋が残る  .


# 22-3
T字路を折れた方向に進むと鉱山の鉱毒処理施設があり,ラオウさんのクルマのカーナビにはその先に鳥居マークが示された。このマークを追いかけてクルマを走らせると,草が整理されたような空間があったが,探索するほどの興味は起こらなかった。
二番目の廃校廃村,戦後開拓集落 大安在(Ooanzai)の探索は,この日のメインイベントだ。十数年前,大安在を探索されたことがあるラオウさんが居るとはいえ,跡地の実態はほとんど明らかではない。大安在は標高約330mの高原面にあり,昭和35年から36年にかけて,地元の二三男とその家族8戸が入植。開拓者は共同で作業し,酪農郷の経営を目指したが,条件の劣悪さなどにより,昭和41年には全戸が離農した。

# 22-4
成瀬さんがたくさん大安在の資料を持っていたことから,中外鉱山を出発する時ラオウさんのクルマの助手席は成瀬さんにタッチして,私は再び田中さんのクルマの助手席に移動した。上ノ国市街でR.228から道道に入り,中須田(河北小学校所在地)で枝道に折れて,大安在開拓集落跡はダートをおよそ8km走った先にあるが,家屋は点在しており,五万地形図(上ノ国,S.50)に文マークは見当たらない。
ダートの標高が高くなっていくうちに,霧が濃くなってきた。やがて林道が二又になっていたので,ここにクルマを停めて,一行が集落跡へ続くと思われる右側の道を歩きだしたのは午前8時50分。このとき,ここが地形図の大安在環状ルートの東側にある分岐点だと解釈したのは,大きな誤りだった。

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大安在・分岐の右側の道が開拓集落跡へと続いている            開拓集落跡へと続く道には,ヒグマのふんが落ちていた

# 22-5
道の途中,左手に少し入った場所には大きな反射板があるが,何のためのものかはわからない。それよりも先に進むと草をかき分けなければいけない箇所が出てきて,あわせて緑色っぽいヒグマのふんも出てきた。さすがに気味が悪いので,私は熊鈴をつけたが,一行で熊鈴を持っていたのは私だけだった。霧の中,ササ,フキ,イタドリが茂る藪は進むごとに濃くなり,一行はクルマを停めた場所に戻ることになった。
分岐の左側の道も走ってみたが,それは比較的新しい林道のようで,地形図情報はあてにならない。意外なことに,林道では何台かのクルマを見かけた。出会った方にお話をうかがうと,「フキとネマガリダケの竹の子採りで山へ入っている」とのことだった。

# 22-6
最初の分岐に戻ったのは午前10時40分。あきらめの気配が漂い始めた頃,私はラオウさんのクルマのカーナビを使って現在地の特定を試みた。道の形状の比較から,現在地が大安在環状ルートのいちばん南側にあることがはっきりした。これで自信をもって再び道をたどることができるようになった。
改めて地形図を見ると,学校跡は大安在環状ルートの西側の三差路付近の可能性が高い。三差路を左に折れて心当たりをたどっているうちに,田中さんが成瀬さん資料の現地画像の木の生え方が同じポイントを発見した。ササ藪を切り拓く成瀬さんと田中さんは,行く手にフキとイタドリのみが四角に生える不自然な空間を見つけた。足元には建物の基礎があって,資料と照らし合わせたところ,「分校跡の校舎に違いない」と判断することができた。

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大安在・分校そばに残っていたブロック造りの建物           分校跡地の草の切れ間に白い便器を発見した         .


# 22-7
河北小学校大安在分校は,へき地等級4級,児童数18名(S.39),昭和38年12月開校,昭和41年3月閉校。実際に現地で授業が始まったのは昭和39年4月だったから,分校は正味2年しか稼働しなかったことになる。ある程度草を整理すると,校舎の基礎は建物の形がわかるぐらいしっかり残っていた。そばにはブロック造りの建物が残っていて,往時住まれていた方のブログには「石炭小屋,教職員の風呂として使われていた」との旨が記されている。
4名もいるので,成瀬さん,田中さんは校舎の輪郭調査,ラオウさんと私は,教室のフキ・イタドリ退治と任務分担して往時の痕跡を探った。やがて,「トイレが見つかりました」という声が届き,見にいくと,草の切れ間に白い便器が確認できた。

# 22-8
便槽は3つ並んでいて,そのうち2つは便器がそのまま乗っかっていて,真ん中の便器は破損ひとつしていなかった。草を整理してから,私が「美しいですねー」と言いながら写真を撮ると,田中さんから「便器って美しいですかね」というツッコミが入った。
ラオウさんは「十数年前に大安在を訪ねたときは分校跡までクルマで行けたはずだから,間違っていたかもしれない」と話された。十数年経って,跡地の様子が変わったのかもしれないが,その実際は謎である。教室のフキ・イタドリ退治が一段落して,集合写真を撮った頃には,霧はすっかり晴れて青空が覗いていた。大安在の廃村探索は3時間半もかかったが,無事に分校跡を発見できたのは,個性豊かな4人の微妙なチームワークの賜物に違いない。

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  フキ・イタドリを退治した大安在分校で集合写真を撮る           大安在入口の分岐に戻ったときにはすっかり霧は晴れていた


# 22-9
大安在からはラオウさんのクルマの助手席に戻り,宮越駅跡と小さな木造校舎が残る宮越小学校跡(平成10年閉校)に立ち寄った後,三番目の廃校廃村,戦後開拓集落 上ノ沢(Kaminosawa)を訪ねた。手前の集落 湯ノ岱から4kmほど,舗装道がダートに変わってまもなく右手に,白い標柱が立っていた。
湯ノ岱小学校上ノ沢分校は,へき地等級2級,児童数22名(S.34),昭和33年開校,昭和43年閉校。集落の閉村は平成初頃。分校跡地の標柱は,「昭和62年7月21日 道標建立の集い 関係者一同」と記されている。分校の歴史や職員名が入った立派なものだが,傷みが進行していた。成瀬さん,田中さんは校地の草をかき分けたが,建物の基礎は見つからなかった。開拓集落の中心は分校跡よりもやや上手にあって,訪ねたところ作業小屋が見当たった。

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  上ノ沢・分校跡そばの集落跡の風景(中心はやや上手にある)        上ノ沢分校跡地の標柱は傷みが進行していた

# 22-10
上ノ沢からは,神明駅跡と長い一線の木造校舎が残る神明小学校跡(昭和51年閉校)に立ち寄って一服。そして,県道のトンネルを越えた渡島管内 木古内町,海辺の温泉施設のレストランで昼食休みをとったのは午後2時頃。ここまでの走行距離はおよそ155km。大安在で3時間半費やしたにもかかわらず,5つの廃校に足を運ぶというのは,とてもハイペースだ。点数が多い廃校主体の探索は,廃村主体の探索よりも早いペースになるものとなるようだ。
四番目の廃校廃村 盤の沢(Bannosawa)は,旧上磯町 茂辺地市街から8kmほど山に入った農山村集落である。ラオウさんによると「茂辺地川沿い,「茂辺地自然体験の森」という自然観察施設の「みんなの森」の駐車場が小学校跡」と,地域の方からうかがったのことだった。

# 22-11
盤の沢小学校は,へき地等級3級,児童数12名(S.34),昭和28年開校,昭和40年閉校。集落の閉村は昭和50年頃。開校当時は,大字名に由来する茂辺地小学校市ノ渡分校だった。みんなの森近辺の岩盤がむき出しとなった茂辺地川の渓谷は「盤の沢渓谷」と呼ばれ,道道には盤の沢橋が架かっている。一行は駐車場と橋を見てから,上流側,五万地形図(函館,S.46)に湯ノ沢と記された辺りを探索したが,広々とした農地跡しか見つからなかった。
私はその影の薄い現況に「盤の沢は戦後の開拓集落だったのかな」と思った。探索をきっかけに盤の沢を掘り下げることとなり,後日,二万五千図(茂辺地,S.34)を確認したところ,みんなの森より700m下流側,戸田橋近辺に文マークが見つかった。地域の方の声は必ずしも正しいわけではなかった。

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   茂辺地川「盤の沢渓谷」に架かる盤の沢橋                盤の沢(湯ノ沢)の探索で見つけた広々とした農地跡


# 22-12
盤の沢からは,この日最後(五番目)の廃校廃村 鉱山集落 峩朗(Garou)を目指した。峩朗鉱山は,石灰を産出する太平洋セメントの現役鉱山で,一般の立入は制限されている。ラオウさんは十数年前,太平洋セメントに連絡をとって,職員の方の案内で集落跡を訪ねたことがあるという。
峩朗小学校は,へき地等級2級,児童数32名(S.34),大正8年開校,昭和36年閉校。同年閉村。鉱山正門脇には「保安第一 ようこそ峩朗鉱山へ」と記された大きなタイヤが置かれており,「集落跡についた」という気分に浸ることができた。ラオウさんによると,集落跡は正門左側のズリ山の裏手あたりにあるとのこと。後日,二万五千図(陣屋,S.34)を確認すると,五万地形図(大沼公園,S.34)にはなかった文マークが正門左側に記されていた。

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「ようこそ峩朗鉱山へ」と記された大きなタイヤが迎えてくれた           峩朗小学校は,正門左側のズリ山の裏手あたりにあった  .


# 22-13
ハイペースな探索のおかげで,上磯市街には午後5時には到着していた。江差から上磯までの走行距離はおよそ240km。3日間のトータルでは920kmに及んだ。田中さんは相当きつかったはずだが,引き続き成瀬さんと函館市街地の廃校数校を回ったそうだ。
旭川から3日間同行した田中さん,瀬棚から2日間同行したラオウさん,成瀬さんとは上磯でお別れ。廃村(廃校)めぐりが盛んな北海道ならではの賑やかな3日間だった。ラオウさんのお勧めで,お別れのひとときは入江の対岸に函館山が見える上磯の海辺で過ごした。海には峩朗鉱山の石灰石を原料とするセメントの積出しや,石炭などの燃料の受入れを行う桟橋を兼ねたベルトコンベアが突き出ていて,眺めているうちに桟橋に貨物船が入ってきた。

北海道の旅の〆,函館山,石灰石のコンベアと貨物船が見える海辺の風景

# 22-14
互いに助手席にいたので,成瀬さんと話す時間は短く感じた。「縮拓の技術」の原稿書きを進めていた私は,八雲町の廃村 夏路を来春提出の卒業論文に取り上げるという成瀬さんに,「論文は,冒頭と結論を先にまとめておくとよい」などと話したが,何か参考になっただろうか。ちなみに私が盤の沢を「縮拓の技術」で取り上げることができたのは,成瀬さんから「茂辺地小学校開校130周年記念誌」などの資料を紹介していただいたおかげである。
木古内行きローカル列車が上磯駅を出発したのは夕方6時1分。木古内から乗った青森行きの在来線特急「白鳥」は,今回が乗り納めだ。宿は,2月も泊まった青森駅前「いろは旅館」。3日間で13か所の廃校廃村を探索した北海道の行程の疲れと,翌日の秋田県の行程を考慮して,この夜は休肝日とした。



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