秋の田んぼに実りあり(1)

秋の田んぼに実りあり(1) 秋田県湯沢市雨沼,横手市夏見沢,____________
__________________________湯沢市蓮花台,由利本荘市水無,手代沢,
___________________________袖川,十二ヶ沢,軽井沢,金山,美郷町湯田

廃村 蓮花台(れんげだい)には,分校跡地の石碑が建っていた



# 24-0 はじめに
平成27年秋,9月下旬から11月上旬にかけて,3泊4日×3回(計9泊12日)で,私は東京大学大学院農学生命科学研究科(当時)の林直樹さんとともに,秋田県の70か所の廃村を訪ね,うち66集落において現地調査を行った。国土交通省の「国土政策関係研究支援事業」に選定された調査で,タイトルは「将来的な再居住化の可能性を残した無居住化に関する基礎的研究:農村再生に向けて」,3班構成のうち,生産基盤班(秋田班)のフィールドワークである。
現地調査を行った62集落(オプション4集落を除く)の抽出条件は,まず『消えた村』に掲載されていることであること(すなわち,戦後開拓集落,鉱山集落は含まれない)。そして,(1)最盛期戸数が5戸以上,(2)ダム建設に係わっていない,(3)営林事業集落ではないの3点を充たすことである。

# 24-1 雨沼(Amanuma,2015年 9月20日(日)訪問)
雨沼は落合川上流域の山中にあり,その標高(390m)は調査対象62集落の中で最も高い。平成4年まで2戸で存続した集落跡までの道は,中心部まで舗装されていた。この2戸は集落再編成事業によって移転した。私は初訪だが,林さんは平成20年9月に訪ねている。その時原型を保っていた家屋は大破しており,敷地の中には自然の水流を活かした水道が引かれていた。
稲荷神社は本殿が残っていたが,中破しており,維持管理は難しいと思われる。皆瀬小学校雨沼冬季分校は,へき地等級不明,児童数11名(S.52),昭和40年開校,昭和55年閉校。分校跡は外浦への分岐点から雨沼へ100m進んだ道の右手にある。何とか見つけ出した校舎は,ガレキとなっていた。

雨沼・冬季分校跡に残っていたガレキ


# 24-2 夏見沢(Natsumizawa,2015年 9月21日(月祝)訪問)
夏見沢は市境を挟んで,大森夏見沢(横手市)と南外夏見沢(大仙市)に分かれる。大森夏見沢は楢岡川支流最上流沿いにあり,広域農道(出羽グリーンロード)が通じ,地内の丘陵には牧草地がある。広域農道から集落跡に入る道の入口(四差路付近)には,大正期の庚申碑が建っていた。集落跡に通じる道は広域農道だが,集落跡内の道は未舗装だった。四差路付近の広い田んぼは耕作されていたが,川の下手の狭い棚田は休耕田になっていた。
白山小学校夏見沢分校は,へき地等級2級,児童数14名(S.34),明治37年開校,昭和48年閉校(同年離村)。二万五千図(角間川,昭和50)の文マークは四差路の西側にあるが,人工林となっていて跡地の特定はできなかった。南外夏見沢寄りには,往時の家屋を改装した作業小屋が見られた。

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夏見沢・分校跡付近の風景(道の右手が分校跡)                 蓮花台・分校跡付近の風景(道の右手が分校跡)


# 24-3 蓮花台(Rengedai,2015年 9月22日(火祝)訪問)
蓮花台は,切畑川上流域の山間にある。平成17年頃と離村時期が新しく『消えた村』には掲載されていないので,調査ではオプションとした。集落跡には家屋(別宅)が一軒あり,イヌの鳴き声がするなど,生活感があった。出会った別宅のご夫婦は,「旧稲川町の本宅と行き来しているが,田んぼがある蓮花台に滞在する時間は長い」と話された。車道終点には「ごみ集積場」があり,ふたつきのゴミ箱が置かれていた。
山田小学校蓮花台分校は,へき地等級無級,児童数15名(S.34),昭和24年開校,昭和47年閉校。分校跡は蓮花台と上畑の分岐点にある。集落跡を背にして車道左側のスギ林には「分校跡地之碑」(平成20年,卒業生ほか有志建立)が建っていた。校舎が右側にあったが,ガレキの確認もできなかった。

# 24-4 水無(Mizunashi,2015年 9月22日(火祝)訪問)
水無は丁川上流部の山間にあり,山中としては広い平地がある。集落跡中心の分岐左側は大平キャンプ場があり,丁岳登山の方などに利用されている。笹子小学校水無冬季分校は,へき地等級3級,児童数4名,昭和30年開校,昭和48年閉校。分校跡地は大平キャンプ場となっている。
 集落跡中心の分岐右側,少し進んだ右手の家屋は大破していたが,入口に張られたロープから管理されていることがわかった。先に進むと小さな橋が2つあり,渡った車道の終点付近では往時の蔵が見られた。そばには休耕田があり,作業をする元住民の方と出会った。家庭菜園規模の畑もあって,カバーを被ったトラクターが置かれていた。

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       水無・大平キャンプ場となった分校跡地              手代沢・気象庁の火山音響・振動観測局の施設がある分校跡地


# 24-5 手代沢(Teshirozawa,2015年 9月22日(火祝)訪問)
手代沢は子吉川最上流部,上玉田川と赤沢川の合流地点付近,標高490mの深い山中にある。農山村ではなく営林事業集落なので,調査は行わなかった。『消えた村』には,「手代沢事業所は昭和15年に設置された」とある。往時は袖川から続く川沿いの森林軌道跡が唯一の交通手段だった。調査が順調に進んだので,大平から袖川に向かう途中,昭和36年に開通した百宅からの峰越しを林道を使って出かけた。
直根小学校手代沢分校は,へき地等級5級,児童数11名(S.34),昭和23年開校,昭和36年閉校(同年離村)。分校跡は川沿いの道から少し入った場所にあり,気象庁「火山噴火警戒避難対策事業」の施設が建てられていた。

# 24-6 袖川(Sodegawa,2015年 9月22日(火祝)訪問)
袖川は,子吉川上流部の山間にある。私は平成20年7月以来7年ぶりの再訪(初訪は平成11年10月)。前回は「徳光和夫の逢いたい」というTVのロケで出かけた。森林軌道跡を利用した未舗装道を走ると,やがて長さ626mの狭いトンネルに差しかかる。トンネルを抜けると整った発電所の施設があり,その先の集落跡の耕作放棄地には,ススキが生い茂っていた。16年前は左右ともに田んぼだった。7年前は右側は休耕田だった。
変化を目の当たりにして,私は少なからず衝撃を受けた。直根小学校袖川分校は,へき地等級3級,児童数13名(S.34),昭和26年開校,昭和43年閉校。分校跡は2つのため池の間にあり,16年前には半壊した校舎を見かけた。しかし今回は背の高い草のため,分校跡とは思えなくなっていた。

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袖川・現実の厳しさを感じた耕作放棄地                       十二ヶ沢・往時の面影を残す分校跡の平地


# 24-7 十二ヶ沢(Juunigasawa,2015年 9月23日(水祝)訪問)
十二ケ沢は,大砂川支流(十二ケ沢川)上流沿いにある。矢島市街東側の川の上流部の地勢は険しく,1km先の行平,2km先の貝喰はともに無住化している。平成7年頃と離村時期が新しく『消えた村』には掲載されていないので,調査ではオプションとしている。
十二ケ沢の探索は,貝喰からの帰り道,短時間で行った。橋の北側には,門構えがある往時の家屋が建っていた。最後まで暮らされていたのは,この家の方であろう。矢島小学校十二ケ沢分校は,へき地等級3級,児童数16名(S.34),明治43年開校,昭和47年閉校。橋の南側には,ひと目でそれとわかる分校跡の平地があった。『消えた分校』に画像が掲載されている地区会館は見当たらなかったが,その代わりに小さな物置が建てられていた。

# 24-8 軽井沢(Karuizawa,2015年 9月23日(水祝)訪問)
軽井沢は,大砂川支流(十二ケ沢川)最上流部の山中にある。十二ケ沢よりも上流部だが,矢島市街へ通じる新しい車道が通じているため,今は十二ケ沢よりも交通の便がよい。平成17年頃と離村時期が新しく『消えた村』には掲載されていないので,調査は行わなかった。
新しい車道から下りの枝道に入ると,車止めがあって,その傍らには大破した家屋が建っていた。家具や照明器具が残る家屋に,離村時期の新しさを感じた。矢島小学校軽井沢冬季分校は,へき地等級3級,児童数15名(S.34),昭和33年開校,昭和47年閉校。『消えた分校』には「家々は山腹の傾斜地に階段状に並んでおり,校舎は一番上にあった」と記されているが,学校跡は探さずに金山へと向かった。

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     軽井沢・残った家屋は大破していた                     金山・残った家屋のそばに移転記念碑が建っていた


# 24-9 金山(Kaneyama,2015年 9月23日(水祝)訪問)
金山は,久保田川支流最上流沿いの山間にある。東中沢から金山入口を経て旧東由利町沼へ通じる車道がある。集落跡には往時の家屋を改装した作業小屋が建っており,そばには水槽,ビニールハウス跡などがあり,小さな「移転記念碑」が建っていた(昭和54年,畑中吾助さん建立)。
前郷小学校金山冬季分校は,へき地等級2級,児童数6名(S.34),大正初期開校,昭和41年閉校。偶然出会った『消えた村』にも登場する元住民の方(畑中吾郎さん,昭和6年生まれ)は,「ビニールハウス跡の先,高所の家屋の手前に冬季分校があった」と話された。金山入口三差路の北側,神社の拝殿では赤ちゃんの誕生を祝う飾り紐が見られた。

# 24-10 湯田(Yuda,2015年 9月23日(水祝)訪問)
湯田は,湯田沢川上流部の山間にある。集落の移転後,六郷砂防ダム(昭和57年竣工)が建設され,集落跡はダム湖に水没した。ダム下流には,六郷温泉美郷の湯がある。ダム堤体の横は広場となっており,「この湖底に湯田ありき」と刻まれた離村記念碑が建っていた(六郷史談会,平成11年建立)。また,湖畔には「六郷砂防ダム完成記念碑」が建っていた(秋田県,昭和57年)。
六郷東根小学校湯田分校は,へき地等級2級,児童数20名,大正4年開校,昭和49年閉校。離村碑そばには「旧湯田集落絵図版」という案内板が建っており,17戸の家と神社,分校が記されていた。湖畔のコンクリ階段から神社をめざして山道を登ると,20分で稜線にある本殿にたどり着いた。

湯田・集落の移転後にできた六郷砂防ダム湖


# 24-11 中間報告(1)
第1陣は,9月20日(日)から23日(水祝)まで(シルバーウイーク),県南(河辺,由利,仙北,平鹿,雄勝)の26か所の廃村に足を運んだ。うち24集落(オプション2集落を含む)を調査した。ここでは,学校跡がある10の廃村を紹介した。平均滞在時間は30分で計画したが,45分取ることができた。
調査項目は,(1)記念碑の有無,(2)学校跡の状況,(3)神社の状況,(4)祠・地蔵等の有無,(5)墓地・墓石の有無,(6)家屋の状況,(7)道路舗装状況,(8)車での到達の可否,(9)電線の有無,(10)田畑の状況などである。第1陣では,大多数(18/24)に家屋が建っており,半数以上(14/24)に田畑の耕作があった。旧河辺町福田はクルマの到達が不能だった(1/24)。すべての廃村の人工林の根元は緑に包まれており,第2陣,第3陣でも共通していた。

(注1) 文中,『消えた村』は『秋田・消えた村の記録』(佐藤晃之輔著,無明舎出版刊,1997),『消えた分校』は『秋田・消えた分校の記録』(佐藤晃之輔著,無明舎出版刊,2001)を示す。

(注2) 家屋の数には,学校跡,神社,寺の建物は含まれていない。

(注3) 田畑の耕作には,家庭菜園規模のものを含む。



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