大規模炭鉱と酪農地帯の廃村を訪ねる

大規模炭鉱と酪農地帯の廃村を訪ねる 北海道釧路市雄別,鶴居村暁峰,_____
___________________________________標茶町上久著呂,新久著呂,阿歴内共和

炭鉱集落の廃村 雄別(ゆうべつ),森の中に病院跡の建物が残る



2016/5/28 釧路市(旧阿寒町)雄別,鶴居村暁峰,標茶町上久著呂,新久著呂,阿歴内共和

# 26-1
平成26年,平成27年と,北海道の廃村探索は,5月下旬が定番となってきた。前々回が道央,前回が道北〜道南だったので,今回は道東・釧路管内に的を絞って計画を立てた。釧路管内への旅は,平成4年8月以来24年ぶり。廃村めぐりは初めてとなる。
釧路管内・厚岸町には,小島という冬季は無住となる小さな島がある。この島を訪ねることを軸として調整した結果,日程は今回も5月下旬(道内2泊3日)となり,メンバーは前回ご一緒した田中基博さん(旭川在住),成瀬健太さん(札幌在住)に加え,道東の廃校にとても詳しいK・Tさん(北見在住)が参加されることになった。小島行きには前々回ご一緒したウインデーさん(千歳近郊在住)をはじめ,4名が加わることになった。

# 26-2
平成28年5月28日(土),道東・釧路の廃校廃村めぐり1日,南浦和の家出発は朝5時50分,羽田の保安検査場混雑のため,釧路空港到着は定刻の20分遅れの午前9時45分。飛行機を使うと浦和から4時間弱の釧路だが,帰路には鉄道で,用事がある秋田県を経由するルートを使うことになっている。
釧路空港は釧路市街から西北西に約20km,釧路市と白糠町の境目近くの丘にある。「たんちょう釧路空港」という名前は,着いたとき知った。「たんちょう」というと丹頂鶴のことを指すのはわかるのだが,どうしても「単調な根釧台地の風景」を連想してしまう。釧路空港では,田中さん,成瀬さんが迎えてくれた。今回は空港を振り出しにして,田中さん,K・Tさんのクルマを足にして1泊2日で7か所の廃校廃村を合同探索でめぐる。

雲ひとつない青空の「たんちょう釧路空港」


# 26-3
R.240を走り,旧阿寒町中心部のセイコマに立ち寄る。 そばの三差路には「布伏内9km 雄別15km」という表示があった。雄別炭鉱(三菱系)は大正9年に開発され,最盛期には3千人超の従業員と1万2千人の人口(布伏内を含む)を擁する道東最大規模の炭鉱だったが,石炭産業の斜陽化により,昭和45年2月に閉山となった。
手前の布伏内(Fubushinai)には約200人(H.22)が住み,炭鉱閉山後は工業団地が誘致されたが,稼働している区画はあまりなく,集落は閑散としている。布伏内から4qほど進むと,左手にガソリンスタンドの跡が見えてきて,ここから先が炭鉱集落 雄別(Yuubetsu)の跡地だ。

....

「火気厳禁」の赤い看板が印象的な雄別のガソリンスタンド跡            寺の跡地に建つ雄別炭砿記念碑  .


# 26-4
雄別炭鉱・集落の跡地は,しっかり探索すると一日あっても足らないほどの規模がある。このため,「2時間ぐらいでサクサク回ろう」と決めて臨んだ。ガソリンスタンド跡ではクルマから降りて深呼吸をして,雄別に到着したことを肌で確かめた。ガソリンスタンド跡に続き,道の右手に現れる中学校跡(現肥料工場)は匂いがきついこともあり,車窓から門柱を見ただけで通過した。
続いて右手に現れる「雄別炭砿記念碑」(昭和58年建立)は寺の跡地に建てられたもので,クルマから降りて,大きさが実感できるよう,しゃがみ込んで碑を見上げた。その先,道が舗装からダートに変わって間もなく,左手に購買所跡が見えたので,ここでクルマを停めて探索を開始した。

....

森の中に大きく口を開けた購買所跡の建物が残る                   建物の中は,とてもすっきりとしていた     .


# 26-5
購買所跡の建物の中はとてもすっきりとしており,その大きさに1万人超の炭鉱町の賑わいが想像できた。屋上にあがる外付けの階段があったので,崩れかけた階段を上ると,広々とした屋上が迎えてくれた。灌木が生えていたが,切った形跡も見られた。
田中さんは,大学の頃釧路に住まれており,雄別はその頃以来数年ぶり2度目という。成瀬さんは,この2月,雪の中訪ねて以来3度目という。私は初めてだったが,雄別はよく情報が知られた炭鉱集落跡,「実際に行くとこんな感じなのか」という視点で現地を歩いた。 森の中を流れる川にしっかりした護岸がアンバランスで,集落跡を歩いている実感が湧いてくる。

しっかりした護岸がある川が森の中を流れる

# 26-6
雄別には,10数年前,出身の方のWebからプリントした案内図を持って出かけた。「神社には行っておきたい」と,五万地形図(雄別,S.32)と案内図を組み合わせながらフキを踏みながら森の中を歩くと,頼りない道にたどり着き,道を少し歩くと左手に参道跡が見つかった。案内図には「階段だけが残っている」と記されていたが,登ってみると,狛犬を置いていたと思われる一対の台座が残されていた。
小道を下る方向に歩いていくと,はっきりとした道に合流し,やがて車道沿いの雄別炭山駅跡にたどり着いた。釧路駅と雄別を結んだ雄別鉄道は,閉山の2日月後,昭和45年4月に廃止になった。案内図によると,写真を撮った側が2番ホーム,車道側が3番ホームらしい。

....

  一対の台座が残る雄別神社                            細く小高い雄別炭山駅跡のホーム

# 26-7
雄別炭山駅跡から車道に停めた田中さんの黒いクルマに戻ると,すぐそばに白いクルマが停まっており,その後の行程を同行するK・Tさんに合流できた。4名そろって最初に訪ねたのは,やや奥にある雄別小学校の跡地だ。
雄別小学校は,へき地等級無級,児童数1717名(S.34),大正12年開校,昭和45年閉校。同年炭鉱集落も閉村。学校跡地と道は擁壁で隔てられており,行き来には少々難儀した。案内図には載っていない学校跡地だが,歩いてみると水回りの施設跡など,ちらほらと痕跡がうかがえた。しかし,何よりもその広がりは大きな炭鉱町ならではのもので,存在感はとても強いものだった。

大きな炭鉱町ならではの広がりがある雄別小学校跡

# 26-8
小学校跡地からは,往時は各地区に暖房用・浴場用の蒸気を送ったという総合ボイラー煙突前,購買所跡を経て,象徴的な遺構,炭鉱病院跡へと向かった。 フキを踏みながら森の中を歩き,雄別炭山駅跡から続く道を捕らえた。途中に残る炭鉱関係の施設に立ち寄りながら先へと進むと,やがて左手に二階建てのすっきりした建物が見えてきた。
病院跡は,落書きで荒らされていると耳にしたことがある。どんな様子かと思いながら中に入ると,確かに落書きの跡があったが,多くは塗り直されていた。雄別にかかわる方々が根気よく修繕した成果なのだろうと思った。

....

購買所と小学校跡の中間に建つ総合ボイラー煙突        昭和43年(閉山の2年前)に建てられた雄別炭鉱病院跡     .


# 26-9
昭和13年の開通以来,すべての出炭を担ったという雄別通洞坑口は,炭鉱病院跡のそば,川沿いやや奥にある。閉ざされた坑口には「安全第一」という標語の看板があって,パッと見たとき「すごいものが残っているなあ」と思ったが,作りはしっかりしており,往時からのものではなさそうだ。おそらく,雄別にかかわる方々が跡地を整備してつくったものなのだろう。
川沿い,坑口の反対側には,大規模な鉱員風呂の跡が見られた。K・Tさんは,往時,上手の風呂は炭を落とすため,つねに真っ黒で,下手にいくほど普通のものになっていったと話していた。

観光地ではない炭鉱施設跡の「安全生産」の看板


# 26-10
雄別からは,クルマ2台でR.274などを通って,鶴居村へと移動した。車窓から見る根釧台地は,どこまでも酪農の牧草地が続く。鶴居村中心部・村役場前のセイコマで昼食休みをとって,戦後開拓集落の廃村 暁峰(Gyouhou)を目指した。
暁峰は,鶴居村中心部から東に7kmの場所にあり,学校跡は集落跡中心部,十字路の南東部とわかりやすい場所にある。暁峰小学校はへき地等級3級,児童数23名(S.35),昭和35年開校,昭和44年閉校,最終年度(S.43)の児童数は3名だった。私達4人はそれぞれ学校跡の平地を探索したが,その痕跡を示すものは何も見つからなかった。

....

  暁峰・十字路南西部に建つ肥料工場                         十字路南東部の暁峰小学校跡の平地

# 26-11
十字路南西部には肥料工場が建ち,北東部には往時のサイロがポツンと残されている。成瀬さんからいただいた「鶴居村 地域社会の研究」(S.27)という資料には 「暁峰(ツルハシナイ)は大正末の集団移民8戸と戦後の分家開拓12戸からなり,製炭・農業・造材を生業とするが,孤立した山間の生活は厳しい」 との旨が記されている。
サイロがあるということは,その後村が振興した酪農がなされたのであろうが,長くは続かなかったのであろう。暁峰の離村時期は,閉校(S.44)と同時期ではないかと推測される。

暁峰・十字路北東部にポツンと残る往時のサイロ

# 26-12
暁峰からは,クチョロ原野にある奉安殿の祠,林となった久著呂小学校跡に立ち寄った後,農山村の廃村 上久著呂(Kamikuchoro)へ向かった。簡易郵便局がある中久著呂から上久著呂小学校跡までは12kmあり,うち鶴居・標茶の町村境から先の3kmはダートだった。
二万五千図(奥久著呂,S.40)を見ると,上久著呂と思われるには5kmに渡って家々が散在しており,文マークはそのほぼ中心部に記されている。上久著呂小学校はへき地等級5級,児童数23名(S.34),昭和3年開校,昭和44年閉校,最終年度(S.43)の児童数は8名。ダートに特徴があるカーブがあったので,学校跡はすぐに見つけることができた。

倒れたコンクリの煙突が残る上久著呂小学校跡

# 26-13
案内してくれたK・Tさんは,「文マーク入りの地形図は持っていなかったが,今年3月訪ねたとき,倒れたコンクリの煙突があることからここが学校跡と見当をつけた」とのこと。
学校跡からはさらに1q少し進むと,上久著呂唯一の酪農家Yさんの家がある。私は成瀬さんと2人でご挨拶に足を運び,お話をすると,Yさんは「昔は少し奥に住んでいたが,風の影響が少ない今の場所に越してきた」「上久著呂の雪は1mを越えることもあるが,除雪してくれるから安心だ」と話された。気になっていた地形図の「奥久著呂」という地名について尋ねたところ,「この辺りは上久著呂で,奥久著呂と呼ばれることはない」とのことだった。

....

上久著呂・酪農家の方の牧場付近の風景                    上久著呂小学校跡対面に残る往時のサイロ

# 26-14
また,神社の場所を尋ねると「学校跡の向かいにサイロの跡があって,その裏山の上にあった」と教えていただいた。帰り道, 裏山にあるという神社跡を探したが,特定はできなかった。上久著呂の離村時期(1戸になった時期)は,学校手前の酪農家Tさんが離村した平成中頃と推測している。
上久著呂からは,中久著呂,下久著呂まで戻り,沼幌(Numaoro)から回り込む形で戦後開拓集落の廃村 新久著呂(Shin-kuchoro)を訪ねた。鶴居・標茶の町村境を流れる久著呂川流域にある地名にすべて「久著呂」「クチョロ」が着くので,単調な根釧台地がさらに果てしない感じがする。しかし,地図をよく見ると,新久著呂があるのは コッタロ川,ヌマオロ川流域である。

# 26-15
新久著呂小学校はへき地等級4級,児童数22名(S.36),昭和36年開校,昭和45年閉校,最終年度(S.44)の児童数は4名。K・Tさんはpiro(旭川在住)さんとともに,平成22年9月,新久著呂を訪ねていて,その様子が「学舎の風景」Web(管理者piroさん)に掲載されている。Webでは,一部建物が残る学校跡は,深い茂みの中にあるように見えた。
しかし実際に訪ねてみると,そこは起伏はあるが,根釧台地の牧草地の一角だった。三差路付近にクルマを停めて,坂を下って小さな林となった区画を探索すると大破した学校跡の校舎,立ったまま残る2本の煙突,比較的整った教員住宅,何とか原型を留めるトイレ棟が見つかった。

煙突を残して崩壊した新久著呂小学校の校舎


# 26-16
新久著呂は広い範囲に家屋が散在するため,「集落」ととらえるのが難しい。学校を中心に半径500m以内に現住家屋は皆無だが,沼幌方面(北東)約1kmに1戸,中久著呂方向(西北西)約3kmに2戸の酪農家が住まれているので,新久著呂は高度過疎集落としている。ただし,これら酪農家の方々が学校が開校していた頃から住まれているのかどうかは,調べていない。
学校跡の探索では,3人が車道へと戻った後,単独で改めてトイレ棟を見にいった。どこまでも広々とした大地の一角に密かにトイレ棟だけが残る学校跡には,この地域ならではのものが感じられた。

....

単独で改めて訪ねた新久著呂小学校跡のトイレ棟                      個室が整った状態で残っていた      .


# 26-17
新久著呂からは,JR塘路駅付近をかすめて,農山村の廃村 阿歴内共和(Arekinai-kyouwa)へと向かった。二万五千図(塘路湖,S.46)のこの地区の文マークは原野の中にポツンと記されている。広い範囲に家屋が散在するため,「集落」ととらえるのは難しい。しかし「共和」という地名が記されているおかげで,何とか「共和という集落」と読み取ることができている。
田中さんは,廃校の位置をGPS機能がある地図ソフトにプロットしていて,訪ねた場所の点は緑色から赤色に替えていっている。共和の学校跡は,田中さんのクルマの先導で目指した。どこまでも続く牧草地の一角,T字路にクルマを停めて田中さんは「ここです!」と私に紹介してくれた。

阿歴内第三小学校跡は,広々とした牧草地となっていた

# 26-18
阿歴内第三小学校はへき地等級5級,児童数24名(S.34),昭和11年開校,昭和50年閉校,最終年度(S.50)の児童数は2名。二万五千図の文マークは,十字路から左へ入った場所だが,どうやら文マークのすぐそばに新しい道が作られている様子だ。周囲には建物ひとつ見当たらない。
学校跡を中心に半径500m以内に現住家屋は皆無だが,北北東から南東にかけて,4戸の酪農の家が点在する。そのうちの1戸,Aさんの家を成瀬さんとともに訪ねて,お話をうかがった。Aさんは近年酪農の仕事をするため移り住んできたそうで,4戸のうち2戸は学校が開校していたころから住まれているとのこと。「共和」という地名について尋ねたところ,「ここの地名は塘路原野で,共和は聞いたことはない」とのことだった。

# 26-19
阿歴内共和からは,片無去(Katamusari),太田を通って 厚岸市街を目指した。翌日の小島行きの船が出る港は,移動中(上久著呂−新久著呂間)の携帯電話でのやり取りで厚岸港から床潭漁港に変更となった。
計画を立てる段階では「厳しいかな」と思った釧路管内5か所の廃校廃村めぐりだが,比較的ゆとりをもちながら探索することができ,5か所すべての学校跡を特定することができた。厚岸市街に到着したのは,まだ明るい夕方6時頃,空港からかかった時間は8時間半だった。
この日の宿は,厚岸市街の民宿「喜多岬」。名物のカキ鍋を食しながら,明日の好天を祈って4名で乾杯した。



「廃村と過疎の風景(11)」ホーム
inserted by FC2 system