海の日で 500か所まであと2つ

海の日で 500か所まであと2つ 宮城県栗原市玉山,大土森

高度過疎集落 玉山(たまやま)の分校跡には,門構えが残っていた



2016/7/18 栗原市(旧栗駒町)玉山,(旧鶯沢町)大土森
[ 大崎市(旧古川市)化女沼 ]

# 29-1
平成28年の年始め,「廃村千選」の累計訪問数500か所超えは,同時に県単位の全訪を目指すことから,宮城県(全12か所)になる見当がついていた。ただ,宮城県には未訪の廃校廃村が4つあり,どのように回るかは直前まで決めていなかった。7月になって,なかなかまとまった時間ができないことから,日帰りで二度に分けて訪ねることを思いついた。一度目は「海の日」,比較的訪ねやすい栗原市玉山(Tamayama),大土森(Oodomori)を選んだ。
東北地方南部に出かけるには,JR東日本の「週末パス」を使うと都合がよく,海の日に週末パス+レンタカーの旅を試すことになった。これも思いついて,5日前にワープロ通信の頃(平成初頃)からの付き合いの米本剛さん(東京在住)に電話をしたところ,「了解です」という返事が来た。

# 29-2
平成28年7月18日(月祝),起床は朝6時。海の日の天気は快晴。大宮駅からはやてに乗って,古川駅に到着したのは午前9時12分。米本さんは同じ便に乗っていて,改札を出る前に落ち合えた。「元気にしてるかい」などと話しながら,古川市街から旧栗駒町へとクルマを走らせた。
小一時間,車窓の風景は田園地帯が中心だったが,三迫川沿いの道が栗駒ダムに近づくと空気は山間のものに代わった。「こっちに行ってみましょう」といって通った旧道は,ダム堤体1q前あたりで閉ざされたゲートに突き当たった。「歩いていくと面白いかも」とも思ったが,季節は梅雨の終わり頃。ロクなことにならないことは明らかなので,ゲートの先には足を踏み入れなかった。頭を非日常に切り替えるにはちょうどよい出来事だった。


玉山・栗駒ダムへ続く旧道は閉ざされていた


# 29-3
玉山旧集落は,栗駒ダム(昭和37年竣工)の建設によって水没。その際,ダム湖畔の放森(Hanaremori)に小数戸が移転した。栗駒小学校玉山分校は,へき地等級1級,児童数24名(S.34),大正5年開校,昭和41年閉校。最終年度(S.40)の児童数は5名。二万五千図(沼倉,S.43)を見ると,文マークはダム湖の南側にポツンと記されている。住宅地図を調べると,その場所は旧道沿いの除雪基地になっていた。
新道のトンネルを抜けて,心当たりの場所に行くと,「いかにも学校跡」という門構えがある除雪基地が見当たった。玉山旧集落の移転は昭和36年だが,分校の周囲には家々は作られなかった。事前の確認がなかったら,ただの除雪基地にしか見えなかったかもしれない。


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玉山・除雪基地の門構えに分校跡の匂いを感じた                門構え脇のため池には,ハスの花が咲いていた


# 29-4
除雪基地の敷地を歩いてみたが,分校跡を彷彿させるものは何もなかった。門構えの脇にハスが浮かぶ池があったので,花を見ながら米本さんと語り合った。米本さんとは,平成12年11月に東京・奥多摩の廃村 峰に二人で出かけている。街からひととき離れて,山間の空気を味わうという構図は,16年前と同じだ。しかし,栗駒山麓は二人とも初めてで,土地勘がないせいか,岩手県境に近い宮城県北部という距離感が今ひとつつかめていない。
分校跡からは,旧道を走ってダム堤体へと向かった。旧道は堤体のところで閉ざされており,人の気配はない。ダム湖案内板には,湖の中に「玉山神社」と記されていたので,戻り道,車窓から湖畔を注意深く見たが,それらしきものは見られなかった。

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栗駒ダム湖,奥のほうに移転地 放森がある           ダム湖案内板には,湖の中に神社が記されていた     .


# 29-5
住宅地図に記された放森の戸数は,4戸(H.17)から2戸(H.28)に変化している。そのうちの1戸には「栗駒焼大渓窯」という陶芸家の方(小柳さん)のお店兼用の家だ。お邪魔して,玉山,放森についてお話をうかがうと,「東日本大震災(H.23)の後,放射能の影響を心配して2戸が移転した」とのこと。小柳さんは東京出身で,昭和末頃に放れ森に移転して窯を開かれた。分校跡,神社についても尋ねたが,ピンと来ないみたいだった。
玉山からは大峰森の開拓地を抜けて,二迫川沿いの道を下って大土森へと向かった。道沿いには「細倉マインパーク」(細倉鉱山跡を利用したテーマパーク)を示す案内板がよく見られる。細倉鉱山は,江戸期からの歴史を持ち,昭和62年の閉山まで,わが国屈指の規模の鉛・亜鉛鉱山として栄えた。

# 29-6
大土森鉱山は,細倉鉱山に隣り合う中規模の鉛・亜鉛鉱山で,分校の閉校時期から昭和38年閉山と推測しているが,詳しいことはわからない。奥には大土ヶ森(おおどがもり)という山があるが,鉱山集落名には「ヶ」はつかない。二迫川沿いの道から大土森へ向かうにあたって,カーナビは細倉マインパークを経由する回り道を案内したが,「どう考えてもこっちでしょう」と言いながら,川の流れをさかのぼる枝道を選んだ。
最寄りの集落(なぜかこの集落名も放森)からの道はやがてダートになったが,「かつて鉱山があった」ことを彷彿させる古い橋やトンネルがあって,「この道を選んでよかった」と思った。やがて,養豚場跡の施設が見えてきて,午後12時30分頃,大土森鉱山集落跡の三差路付近に到着した。

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大土森・鉱山があったことを彷彿させる古い橋とトンネル                 養豚場跡の施設の看板には「ヶ」がついていた    .


# 29-7
細倉小学校大土森分校は,へき地等級1級,児童数106名(S.34),昭和15年開校,昭和38年閉校。最終年度(S.38)の児童数は10名。二万五千図(岩ヶ崎,S.41)を見ると,三差路付近に多くの家屋があったことがわかるが,文マークは記されていない。季節柄を考えて,探索は道沿いのみにしたところ,橋の下を流れる川の護岸に集落跡の匂いが感じられた。ふと思いついて、米本さんにこの橋の上で地図を見る私の後ろ姿の写真を撮っていただいた。
後日,検索から知った「細倉フォトギャラリー」Webで,大土森鉱山の詳細図や往時の写真を発見した。詳細図には高台にある分校の写真が載っており,「分校はこの辺りにあったんだなあ」と想像できた。その他,大土森では,綺麗に咲くヤマユリの花,並んで建つ植林記念碑と「山神」碑が見られた。

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       大土森・集落跡の匂いが感じられる川の護岸            橋の上で地図を見る後ろ姿を撮っていただいた


# 29-8
住宅地図には,大土森三差路よりも奥に1戸の農家らしき家が記されている。「そんな様子かな」と思ってクルマを走らせたが,はっきりとわからなかったので,大土ヶ森登山口の駐車場で折り返した。
この日の宮城県への旅では,廃村めぐりとは無関係だが,古川市街の北側にある「化女沼レジャーランド」跡地に足を運ぶ予定があった。化女沼(けじょぬま)というインパクトがある沼の名前は,お姫様(照夜姫)の伝説に由来するという。鉱山ゆかりの「細倉マインパーク」に背を向けて,遅めの昼食休みを築館スポーツ公園でとって,化女沼を訪ね、沼周囲の道を走っていると,唐突に観覧車の廃墟が視界に入った。

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       「化女沼レジャーランド」跡を象徴する観覧車の廃墟         たまには廃墟・サブカルチャーの世界もよいものだ


# 29-9
化女沼レジャーランド(化女沼保養ランド)は昭和54年開園,平成13年閉園(実働23年)。この観覧車は人気があって,私達が探索している間にも二組のカメラ持参の方とすれ違った。地域の方が運営されていたレジャーランド跡は,元職員の方々などの手で整った状態に保たれているという。
古川駅に戻り着いたのは夕方4時20分。その後は在来線のリゾート列車で仙台駅に出て,私,米本さん共通の通信仲間,須川敏幸さん(仙台在住)と待ち合わせて,駅近くの海鮮居酒屋で10数年ぶりの再会を祝して乾杯した。ガールポップという通信の頃の話題に加えて,廃村めぐりのこと,近況など,わいわいと語らいあった。玉山,大土森を訪ねて,「廃村千選」の累計訪問数は498か所となった。あと2か所の訪問で500か所達成だ。


(追記) 大土森の橋の上で撮った私の後ろ姿は,10月下旬に完成した『秋田・廃村の記録』(秋田ふるさと育英会刊)の表紙イラストの元画像となった。



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