御巣鷹山・晩秋の廃村 一泊二日ふたり旅

御巣鷹山・晩秋の廃村 一泊二日ふたり旅 群馬県上野村本谷


廃村 本谷(ほんたに)の晩秋の神流川の流れです(本谷一号橋付近)。



2005/11/23 上野村本谷

# 4-1
平成17年10月現在,関東1都6県で見出せた「廃校廃村」は17か所。「廃村と過疎の風景(3)」では,これらを全部訪問しようと思います。「年内にもうひとつ足を運ぼう」と目指すことになったのは,群馬県上野村の営林事業集落の廃村 本谷(Hontani)です。群馬県の廃村を訪ねるのは,これが初めてです。
前日光ツーリングは,あわただしいひとり旅だったこともあり,今回は1泊2日のkeiko(妻)とのふたり旅としました。keikoのバイクは,9月に買い換えたばかりのオフ車 SL230。今年中に遠乗りをするにはちょうどよい機会ですし,上野村ならば夏の信州ツーリングでも出かけているので,土地勘もあって好都合です。宿は「温泉が良い!」ということで,上野村の野栗沢温泉「すりばち荘」です。

# 4-2
本谷の分校は,関東(離島を除く)では2か所しかないへき地5級校のひとつで,標高およそ1000mの神流川の最上流部にありました。集落は高崎営林署の本谷国有林で働く方々とその家族,学校関係者からなり,農山村よりも鉱山集落に近い雰囲気があります。
往時の本谷の分校や暮らしの様子は,『さらば興安よ,そして上野村へ』(柴崎芳子さん著,文芸社刊,以下『上野村へ』と略す)に記されています。柴崎さんは昭和26年から32年まで(ご主人は34年まで),分校の教師をされていました。交通は,8km手前の集落 浜平からのガソリンカー(森林鉄道)だけだったそうです。その後,昭和38年の営林署の事業所閉鎖とともに分校は閉校,集落は閉村となりました。

# 4-3
本谷国有林には,昭和60年8月に起きた日航ジャンボ機墜落事故(犠牲者520名,生存者4名)の現場 御巣鷹の尾根が含まれます。『上野村へ』には,事故の残骸を集める場所として分校の跡地が利用されたと記されています。事故の前,あやふやな山道だったという本谷までの道は,事故の後急ピッチで作られて,今では幅の広い車道が尾根への登山口まで整備されています。
本谷の集落や分校が記された地形図はなく,「御巣鷹の尾根に続く道路が,その途中で2つに分かれて広くなっている場所が分校の跡」という『上野村へ』に記された記事しか手がかりはありません。たどり着けたとしても,痕跡が残っている確率は小さそうです。

# 4-4
上野村・御巣鷹ツーリングの出発は,11月22日(火)。天気は快晴ながら気温は平年よりやや低め。今回も1日は年休取得です。
南浦和出発は,朝9時少し過ぎ。産業道路からR.17,県道,R.254,R.462と一般道をつないで,群馬県鬼石町着は正午頃。鬼石では,冬桜の季節ということで,桜山公園に立ち寄って昼食休みと紅葉狩り兼お花見。冬桜の公園は予想よりも本格的でびっくり。
オフ車2台ということで,鬼石町から上野村には御荷鉾(Mikabo)林道という尾根伝いのスーパー林道を走ったのですが,山の尾根はもう初冬。林道には雪がうっすらと積もったり,凍結した箇所がありました。塩之沢峠までの約42kmの道のりのうち,約12kmはダートが残っていました。



# 4-5
「すりばち荘」到着は,あたりは闇となった午後5時40分頃。この日の走行距離は約190km。宿のご主人と話をすると,「野栗沢は,つい先頃秩父の大滝村に抜ける道ができて便利になったけれど,通過するクルマが増えたのは困ったものだ」とのこと。宿では温泉で暖まり,イノブタ鍋を食べながらお客さんと世間話をしたりで,のんびりとしたひとときを過ごしました。
翌23日(水)の起床は朝7時。外は 真っ白な霧でしたが,宿出発(午前9時半)の頃には晴れていました。午前中は本谷を含めた上野村の分校跡めぐり,最初に立ち寄ったのは,宿からほど近い上野東小学校野栗沢分校です(へき地等級1級,児童数19名(S.34),昭和51年閉校)。


# 4-6
「すりばち分校跡地」という石碑のある場所から,狭い集落内の道を上がると,すべり台が目に入りました。他にブランコ,鉄棒などが集まった狭い敷地は,確かに分校跡です。二階建てのプレハブの地区会館は,昭和46年から閉校まではその一階部分が分校として使われていたとのこと。「すりばち」は山間の谷のすりばち状の地形に由来するとのことですが,野栗沢という地名とよくマッチしています。
野栗沢を後にして,次に訪ねたのは上野西小学校三岐分校です(へき地等級2級,児童数57名(S.34),昭和48年閉校)。野栗沢から三岐までの道は日影や橋の上では凍結していて冷汗ものでしたが,約15kmを20分ほどで走ることができました。

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# 4-7
三岐は,御巣鷹の尾根(本谷)への道と,ぶどう峠経由信州への道の三差路にあたります。山間の小集落ですが,平成18年開業予定の新しい温泉が工事中だったり,真新しい住宅が建っていたりで,意外な賑わいがありました。
分校跡は集落を見下ろす丘の上にあり,往時の木造平屋建ての校舎が「三岐学生の家」という公営の研修施設として残っています。
分校跡を後にして,三差路がある橋まで戻って缶コーヒーを飲みながら「本谷には単独で行こうか二人で行こうか」と考えましたが,天気はすこぶるよく,それほど寒くもないので,のんびりとふたりで行こくことになりました。

# 4-8
三岐から本谷までは,浜平を過ぎたら無人の山林ですが,御巣鷹の尾根に向かう道であり,途中にはこの年竣工したばかりの上野ダム(堤高120m,貯水量1840万立方m)があるため,高規格の橋やトンネルが続きます。しかし,ダムを越えると凍結箇所が目立つようになり,三差路がある場所を確認しながらのおそるおそるの走りとなりました。
三岐から約10kmを30分で走り,到着した本谷三号橋の三差路にあるゲートは閉ざされており,バーには「冬期間通行止」との旨が記されていました。橋を渡った先の林道は少し広くなっており,距離的にもちょうど良い位置なので,ここを分校跡と想定しました。

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# 4-9
上野西小学校本谷分校は,へき地等級5級,児童数14名(S.34),昭和38年閉校。営林事業集落跡を訪ねたのは,栃木県塩原町の塩ノ湯事業所以来二度目,「廃校廃村」としては初めてです。本谷事業所の開設は昭和18年。事業所が開かれていた20年間ほどしか存在しなかった集落の跡は,すっかり自然に戻った様子です。もっとも,場所の見当がまったく外れているのかもしれません。
10分ほど探索していると,4台ほどのクルマがやってきて,分校跡と想定した広がりにはクルマが止められました。10人ほどの方々の中には花束を抱えた方もいます。本谷(というよりも上野村)に色濃く残る日航機事故に係わる空気を肌で感じることとなりました。

# 4-10
「こんにちわ」とご挨拶をして,私と同じぐらいの年配の方に「営林集落の分校跡を探しにきました」と話すと,「分校はもっと手前ですよ」とのお返事。「いや,本谷に分校があったのですよ」と答えてもらちがあかないので「そうですか」とお茶を濁しました。
バーを越えて慰霊登山へ向かわれる方々を見送って,本谷三号橋の三差路を後にしたのは午前11時頃。途中,本谷一号橋の三差路周辺も探索しましたが,集落があったと思わせるような痕跡は見当たりませんでした。
次に目指したのは,平成10年竣工の上野スカイブリッジです。全長225m,高さ90mと規模は大きく,上野村の新しい観光のシンボルです。

# 4-11
お昼はスカイブリッジを渡った先のレストランで,地域の名物 炭焼きラーメンとイノブタコロッケなどを食べました。食後は古くからの上野村の名勝「不二洞」(鍾乳洞)の見物。上野村には何度も足を運んでいますが,これら一般的な観光地を訪ねたのは初めてです。
帰路の上野村発は,午後2時半頃。神流川沿い(R.299,R.462)を鬼石町まで戻り,ほぼ来た道をたどって,南浦和に着いたのは午後8時半頃。この日の走行距離は約180km(2日間で約370km)。高速を使わずふたりで走った御巣鷹・一泊二日ツーリングは,前日光ツーリングにはなかったのんびり感を味わうことができました。keikoにどこがいちばん印象に残ったか尋ねると,御荷鉾林道のダートとのことでした。

# 4-12
「学校跡を有する廃村」リスト(現「廃村千選」リスト)の作成は,平成17年末までに全国47都道府県のうち,28都府県が落ち着くところまで進み,計457か所の「廃校廃村」を見出すことができました。
私が足を運んだ「廃校廃村」の数は群馬県本谷で91か所。この時点で関東で未訪の「廃校廃村」は11か所(群馬県8か所,栃木県1か所,神奈川県2か所)。これらをすべて訪ねると,足を運んだ「廃校廃村」の数は100か所を超えます。平成18年の「廃村(3)」の目標は,リスト作成が年末までに残り19道県分の作成,フィールドワークが残り11か所(再訪を含むと残り14か所)の関東の「廃校廃村」全箇所訪問にしようと思います。

(追記1) 平成18年3月,『上野村へ』を編集された永沼眞由美さん(柴崎芳子さんのご子息で,小学3年まで本谷分校に在籍)に本谷について尋ねる機会がありました。永沼さんの情報のおかげで,平成19年9月の本谷再訪時,山の神と分校跡を確認することができました。

(追記2) 『全国学校総覧』,『へき地学校名簿』では,三岐分校は第一分校,本谷分校は第二分校となっていますが,永沼さんに尋ねたところ「第一分校,第二分校と呼ばれたことはない」とのことでした。この話に基づき,記述は三岐分校,本谷分校としました。

(追記3) 平成18年10月,全国の調査が一巡し,見直したところでの全国の「廃校廃村」の数は1000か所になりました。その後,さらに調査を進めた結果,本谷は97か所目になりました。リスト作成途上の「何か所目」はあまり意味のない数字といえそうです。記念すべき100か所目は,平成18年4月に訪ねた群馬県嬬恋村石津鉱山で確定しました。



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