草津・温泉地の3つの硫黄鉱山跡

草津・温泉地の3つの硫黄鉱山跡 群馬県草津町白根鉱山,
____________嬬恋村石津鉱山,吾妻鉱山


廃村 吾妻鉱山(あがつまこうざん)の小中学校の体育館跡です。



2006/4/30 草津町白根鉱山,嬬恋村石津鉱山,吾妻鉱山

# 6-1
関東の「廃校廃村」17か所(当時)のうち,群馬県は9か所。そのうち6か所は天下の名湯 草津温泉の近くに集中しています。最寄りのIC(関越道渋川伊香保IC)から草津温泉までは60km,東京圏から1泊2日のツーリングに出かけるにはちょうどよい距離です。
草津温泉は標高1200mの高原面にあり,戦国時代の武将が入湯したという歴史を持ちます。温泉の特徴は,湯畑で冷やして使うほどの高温,源泉をかけ流しで使うほど豊富な湯量,そして硫黄分を多く含む強酸性(pH 2.1)です。
私はこれまで数回草津に足を運びましたが,宿泊の機会はありませんでした。温泉地で泊まり,無料の外湯に入るのは楽しみです。

# 6-2
草津温泉の近くには,大正の頃から高度成長期まで複数の硫黄鉱山が稼動していました。このうち学校をもつ鉱山集落があったのは,草津町白根鉱山,嬬恋村石津鉱山,吾妻鉱山,小串の4か所です。これらの鉱山集落は,すべて閉山と同時に無人となりました。
硫黄は,石油を精製するとき副産物として多量に得られるため,高度成長期,石油の消費量が増加し,精製技術が向上するとともに,一気に価値を失いました。岩手県の松尾鉱山を代表格とするわが国の硫黄鉱山は,昭和46年までにすべて閉山となっています。
私がこれまで訪ねた鉱山関係の廃村は,長崎県の端島をはじめ5か所ほどであり,まとまった数の鉱山系廃村を一度にめぐれることも楽しみです。



# 6-3
草津ツーリング第1陣の出発は4月29日(土)午後1時半。関越道は空いており,夕方5時半には草津に着いていました。途中,長野原ではサクラが満開でびっくり。宿の草津高原ユースホステルは,スキーのお客さんで賑わっていました。外湯は「千歳の湯」と「地蔵の湯」に入りました。
翌30日(日)の起床は朝6時。天気は曇り時々晴。宿は7時に出発して,草津から4kmほどの白根鉱山(Shirane-kouzan,標高1300m)を目指しました。白根鉱山の創業は昭和8年,閉山は昭和46年。草津小学校白根分校は,へき地等級1級,児童数55名(S.34),昭和38年閉校です。
鉱山跡に続く道から見える本白根山は雪で真っ白です。朝7時15分頃,集落跡に到着すると,まず大きなスキー場跡の施設に驚かされました。

# 6-4
白根鉱山の跡地は,静可山スキー場としてリゾート開発されましたが,開業時(平成2年)はバブル期の終わり頃であり,スキー場は10年目(平成12年)で廃業となりました。古い地形図を確認すると,ロッヂが建てられた場所は,ちょうど分校だった様子です。
ロッヂの正面には大きなグラウンドとスキーゲレンデがあり,広々としてよい気分です。敷地の奥のほうには「白根鑛山跡地」と記された石碑があり,横には雪が固まっていました。碑の横の荒れた坂道を登ると,ほどなく神社の鳥居と祠が見つかりました。
少し曲った鳥居や祠の屋根はステンレスで守られており,鉱山の関係者(碑によると白根会)の方が管理されている様子でした。

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# 6-5
神社を後にしてグラウンドを横切り,初心者用ゲレンデの緩斜面を歩くと,リフトの終着点あたりから鉱山跡らしい石垣やコンクリートの施設が目立つようになりました。さらに傾斜のない地道を歩くと,ホッパーや鉱石集積場などの鉱山の施設を見出すことができました。
これだけの規模の鉱山跡を訪ねたのは,平成12年秋の端島以来5年半ぶりです。端島では海の濃い青と未明の空の藍色が印象的でしたが,白根鉱山で印象的だったのは山の白さと空の淡い青色です。きれいな遠景を見ていると,「険しくも景色がきれいな場所に集落ができるのは鉱山ならではなんだなあ」と感じられました。それゆえ,集落は鉱山の閉山とともに消える運命にあるわけなのですが。

# 6-6
ひとり占めするのは申し訳ないほどの広がりがある風景でしたが,約2時間の探索の間,白根鉱山では誰にも出会いませんでした。倒れた「静可山スキー場」というバス停の標識はまだ新しく,無念さを語っているようでもありました。
次に目指したのは石津鉱山(Ishidu-kouzan,標高1470m)です。古い地形図には両鉱山間を結ぶ5kmほどの山道があるのですが,道は見当たりませんでした。一度国道に戻り,真新しい道(つまごいパノラマライン)を走って,石津鉱山に到着したのは午前9時45分。13kmの所要は25分でした。
石津鉱山の創業は昭和7年,閉山は昭和46年。石津小学校は,へき地等級3級,児童数119名(S.34),昭和46年閉校です。

# 6-7
鉱山跡地は閉山してすぐに大東文化大学に引き継がれ,現在,集落跡には大学の嬬恋セミナーハウスが建っています。学校跡はセミナーハウスの道を挟んで反対側にあり,グラウンドを歩くと,往時の玄関に続くコンクリートの階段と朝礼台が見つけることができました。
鉱山の施設を目指して地道を登っていくと,高さ6mほどの錆びた鉄塔が見つかりました。がいしがあるので,電気関係の塔なのでしょう。
鉄塔から道を挟んで反対側には古びた大きた建物があり,セミナーハウス付属のバンガローの施設として使われている様子でした。後で「何の建物だったのだろう」と調べたところ,この建物は往時は映画館などの福利厚生施設として使われていたことがわかりました。

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# 6-8
もう一つ印象に残ったのは,ササに埋もれた祠です。地形図に神社が記されている場所には池があるだけで,あきらめてセミナーハウスまで戻って,改めて山を見ると屋根らしきものが見つかりました。祠には,道なきガケを慎重に上って何とかたどり着くことができました。
石津鉱山でも誰にも会わず1時間半ほどの探索を終え,次に目指したのは吾妻鉱山(Agatsuma-kouzan,標高1420m)です。古い地形図では,両鉱山間は車道で10kmほど。しかし,昔も今も,吾妻鉱山には有料道路(万座ハイウェイ)を使わなければ行くことができません。
「どうなることやら」と心配しながら走ると,パノラマラインは万座ハイウェイを立体交差で通り抜けてしまいました。進入する道はありません。

# 6-9
パノラマラインの走り心地はすこぶる良く,どんどん走っているうちに14km先の干俣まで行ってしまいました。しかたがないので,JR吾妻線の終着駅がある大前まで下りて,村役場近くの食堂で昼食をとってしきり直しをしました。満開のサクラ並木の横目に見ながら,三原から万座ハイウェイに入り,料金所で720円払って吾妻鉱山を目指しました。途中の温度表示は12℃とありました。
吾妻鉱山の創業は大正3年,閉山は昭和46年。吾妻小学校は,へき地等級2級,児童数187名(S.34),昭和46年閉校です。
到着は午後1時頃。鉱山跡入口の分岐から通行止の看板を越えて,ゆるやかな坂を下っていくと,古びた学校跡の門柱が迎えてくれました。

# 6-10
学校跡には往時の体育館が残り,閉校後にホテルの施設として作られた感じのテニスコートもありましたが,使われている様子はありません。広々としたグラウンドの隅には,ブランコ,回旋塔やサッカーゴールがありました。白根鉱山,石津鉱山,吾妻鉱山はどれも深い山の中にして広いグラウンドがあり,それは往時の繁栄を想像するにはちょうど良い空間といえます。
神社が記されている方向に足を運ぶと,途中の道には予想しない量の雪が積もっていました。あきらめて万座ハイウェイに戻って,万座温泉側に少し進むと,道路のすぐ下方に神社の鳥居と祠が見えてきました。これは行かないわけにはいきません。

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# 6-11
目では近くに見える神社ですが,行こうと思うとなかなか手強く,道なき斜面を慎重に下ってたどり着きました。鳥居や祠の屋根は銅で補強されたと思われる緑色で,すっきりと整備されていました。今も例祭が行なわれているのかも知れません。鳥居をくぐり石段を下りるといくつかの廃屋があり,様子を伺った作業小屋跡の入口には,往時の消防信号の看板と風呂の腰かけが落ちていました。
さらに山の奥(平均標高1600m)にある小串は,積雪のため5月下旬まで行けないとのことで,今回の探索の予定には入れていませんでした。昭和31年の草津・嬬恋の硫黄鉱山の総生産実績は約7万5000トンで,国内総生産の約35%を占めていたとのことです。

# 6-12
万座ハイウェイには,観光のクルマがいっぱい走っているのですが,約1時間半の探索の間,吾妻鉱山でも誰にも出会いませんでした。
ハイウェイの料金所は1か所で,来た道を戻れば二度支払わなければなりません。「遠回りだけど万座温泉まで行くか」とバイクを走らせると,パラッと雨粒が落ちてきました。「これは早く山を降りろということだな」と判断し,渋々Uターンすることになりました。くやしいので,少し下手にある嬬恋牧場の休憩所で新タマネギを土産に買いました。幸い雨はすぐに止み,カッパは着ないで済みました。
GWの日曜日とは思えないほど人の気配がない草津・硫黄鉱山跡めぐりでしたが,帰り道のクルマの量は十分にGWのものでした。



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