中信・偶然見つけた峠の上の廃校舎

中信・偶然見つけた峠の上の廃校舎 長野県生坂村入山


廃村 入山(いりやま)の時が止まったような分校の教室跡です。



2006/5/14 生坂村入山

# 7-1
平成18年の冬は全国的に寒い上に雪が多く,「長野県飯山市,栄村(秋山郷),新潟県津南町といった豪雪地帯では,4mを超える積雪があり,集落の孤立,建物の崩壊が起きている」といったニュースが流れました。「雪降ろしはうんざり」という声は何度も耳にしました。
高度過疎集落 堂平の住民の避難,市街地の体育館の崩壊が報じられた飯山市には,前年夏に行って,サクラの頃になったら改めて訪ねてみようと思っていた廃校廃村(沓津,堀越(立石分校))があり,私はニュースのたびに「分校は大丈夫かな」と気になっていました。
4月になっても寒い日が続いていたので,飯山市観光協会に問い合わせるなどした結果,訪ねる時期はGW明けの5月中旬となりました。

# 7-2
「長野県の廃校リスト」の吉川泰さんとお会いするにもよい機会です。電話でご連絡をしたところ,「14日の日曜日ならば一日お付き合いできる」とのこと。当初JR飯山駅から自転車を借りて出かける予定だったので,クルマに便乗させていただけるとずいぶん楽になります。
日程は,仕事の都合で10日の水曜日の休みが取りやすかったので,10日(水)=「サクラの可能性がいくらか高いが年休が必要,吉川さんとお会いできるのは夜に2時間ほど」,14日(日)=「年休は不要で吉川さんとゆっくりお会いできるが,サクラの可能性は低くなる」の間で天秤を掛けました。それに当日の天気を判断要素にした結果,悪天の水曜日は見送りとなり,日曜日に実行することになりました。

# 7-3
前日の土曜日(5月13日)は,東京地方も長野も一日雨。「クルマならば,午前中飯山を回って,午後からはもう一つか二つ,信州の廃校廃村を廻れるのではないか」と思い付き,高速を使えば行ける生坂(Ikusaka)村入山と,松本市(旧四賀村)東北山の古い地形図を,国会図書館でコピーしました。そのことを吉川さんにメールすると,「長野県内なら,古い地形図はすべてある」との力強いお返事をいただきました。
当日,5月14日(日)の起床は朝5時50分頃。幸い天気はまずまずの好天。朝一番の新幹線で,大宮から長野を1時間14分で移動し,長野駅到着は朝8時4分。やはり新幹線は早いです。しかし,地形図は吉川さんのお返事に甘えてしまったからか,忘れてしまいました。

# 7-4
長野駅の改札で吉川さんに合流。「はじめまして」の吉川さんは,私と同い年(昭和37年生まれ)の高校の社会科の先生です。会話がてら午前中の行程の打合せをし,沓津分校,立石分校の順で巡ろうとなりました。私は昨年8月ぶり,吉川さんは10年ぶりとのこと。
飯山南高校の近くから清川沿いのダートを走ると,道の荒れ方が気になりました。日当たりの悪いところには雪が残っており,春の雨が加わってあちこちでガケが崩れている様子です。それでも,周りには農作業をされる方の姿も見えます。午前9時15分,沓津・堂平の三差路に着くと,沓津側には「道路工事のため通行止」という沓津愛郷保存会名の車止めがあり,ここから先は歩いて行くことになりました。


# 7-5
沓津までの1.5kmほどの道も土砂で荒れている箇所がありましたが,地域の方が十数人,道を整える作業をされていました。ご挨拶をして先に進むと,三差路から20分ほどで沓津分校に到着しました。残念ながらサクラはほぼ散り,ほんの少し花を残すのみになっていました。
グラウンドに多くの軽トラックが置かれた分校の入口の扉は開けられており,作業が終わったらここで食事会をされるような雰囲気でした。二階の窓に地域の方(男性)の顔が見えたので,ご挨拶をしてお話をし,「中を見せてください」とお願いすると,快諾をいただきました。
沓津分校の閉校は昭和47年。中の様子を見ると,廃村の中の廃校舎がこれだけ整った形で残されていることに改めて驚くところです。

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# 7-6
感謝状や写真が飾られた教室跡で,昨年8月もお会いした佐藤さんとお話をすると,佐藤さんは50代後半で,弟さんは分校最後の卒業生とのこと。沓津愛郷保存会では,年に二度(春と秋),神社の例祭を行い,皆が集うとのこと。今日は来週に行なわれる春の例祭の準備で,道や集落の整備をしているとのこと。今年は雪が多く,例年GWに行われる例祭は3週間延期になったそうです。
そのうちに,吉川さんの知り合いの先生が沓津分校に勤められていたことがわかり,話は盛りあがりました。「来年は解村35年の節目なので例祭もより盛大に行いたい」という佐藤さんの言葉は,故郷を思う地域の方の声を代表するようで,とても印象に残りました。

# 7-7
気になっていたサクラの時期は例年ならばGWの頃とのこと。「来年,また来るべきかなあ…」と思いながら,裏側から撮った写真は,サクラのなごりにスイセンの花,公衆電話の看板がある萱葺き屋根の家がひとつにまとまり,よい感じに撮ることができました。
三差路まで戻って,堂平,斑尾高原,堀越は素通りして,立石分校跡入口に到着したのは午前11時20分。夏と違って藪は薄く,多少の倒木はあるものの,道をたどるのは全然楽です。吉川さんによると,10年前は分校跡グラウンドにクルマを乗り入れることができたとのこと。入口から10分ほどで,分校跡校舎が見出されました。夏にははっきりしなかったプールの跡も,すっきり見ることができました。

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# 7-8
立石分校の閉校は昭和55年,昭和34年には21名だった児童数は閉校時わずか2名でした。遠目には昨夏とほとんど変わらない分校跡校舎でしたが,近づいてみると,壁が崩れたり窓枠が落ちたりして,豪雪の被害を受けていることがわかりました。
「秋津小学校の沿革」によると,沓津分校の現校舎の落成は昭和30年,立石分校は昭和32年。名実ともに兄弟関係といえる両分校です。
吉川さんによると,両木造校舎の壁はモルタルで塗られており,豪雪地仕様になっているから強いのではないかとのこと。プールの横で山菜採りをしている地域の方とお話をすると,「手入れはされてなくても,この分校は地域の顔なんだなあ」と感じられました。

# 7-9
クルマに戻って,車窓越しに堀越の集落を見ましたが,萱葺き屋根の家にかぶせられていたトタンがずれ落ちていたり,蔵の萱葺き屋根がぐしゃりと乱れていたりで,豪雪の被害が目に付きました。分校跡を挟んで反対側の柳久保には,今回も行きませんでした。
お昼の食事は,中野市(旧豊田村)親川の信州そば屋さん。吉川さんには,伊那のほうで私が気が着かなかった分校跡がある廃村を3つほど紹介していただいたりで,話はつきません。「午後の目標はどうしましょうか」と,ふたりで古い地形図を見ながら考えること数分。「入山,東北山の方面へ行きましょう」と提案し,高速道路を飯山豊田ICから麻績ICまで走ることになりました。

# 7-10
「長野県の廃校リスト」に挙がっている廃校の数は458校。吉川さんはそのうち306校を確認されています(H.17)が,入山分校,北山の分校はともに未確認となっています。このことを吉川さんに尋ねると,「現地にはクルマで行くので,山が深い場所では取回しがしづらく足を向けにくい」とのこと。その意味では今回は良い機会であり,山中のUターンなどではしっかりナビをしなければいけません。
当初,吉川さんは「車道がはっきりとある東北山のほうががよい」という雰囲気でしたが,私は事前の調査で入山に家が一軒あることを知っていました。結局,「家があるところまではクルマはいけますよ」という私の声を採用していただき,入山を目指すことになりました。

# 7-11
生坂中央小学校入山分校は,へき地等級2級,児童数19名(S.34),昭和40年閉校です。古い地形図を見ると,分校は入山と丸山という2つの山村集落のほぼ真ん中の峠の上にあり,神社のマークと並んであります。目標が二つあるということで,場所は特定できそうです。
県道からダートもある林道を4kmほど上がり,午後3時40分頃到達した終点には家がありました。家の玄関先にはおばあさんが座っていたので,まずご挨拶をしました。私もしゃがみ込んでお話をすると,おばあさん(池田さん)は一家5人で住んでいて,お子さんはクルマで里へ通勤しているとのこと。「わしゃ松本なんかで暮らしとうない」「ここは住むにはいいとこなんよ」という言葉が印象的でした。

# 7-12
生坂村は長野市と松本市の間にありますが,松本市にやや近く,長野県の中の地域区分では中信と呼ばれます。長野市や飯山市が含まれる北信の気候とは明らかな差があり,入山は標高6950mという山の中にもかかわらず,この冬でも雪は30cmくらいしか降らなかったそうです。
「分校や神社には手前に分岐する道があるが,わしゃ全然行っていないからわからんよ」との声に送り出されて道を戻ると,歩くのがやっとという狭い山道が見当たりました。クルマを分岐点に止めて,山道を歩き始めると,古い蔵や廃屋を見つけることができました。「生坂村誌」によると,入山は戸数17戸(S.40)が1戸を残すのみ(H.4)となり,丸山は無人になったとあります。

# 7-13
山道を歩き始めて20分(およそ1km)。道が峠に差しかかると,左手にちらりと建物が見えました。先を歩く吉川さんから「すごいものを見つけました!」との声。私も続いて確認すると,「旧生坂入山分教場跡」という生坂村教育委員会名の看板があり,草木が茂った運動場があり,その後には二階建ての古びた校舎跡が建っていました。「あっても痕跡だけだろう」と想像していたので,これはびっくりです。
看板には「明治44年新築移転」と記されており,建物の様子を見たところ,明治44年に建てられたと考えてよさそうな感じでした。教室跡には机や椅子,「へき地教育」,「へき地通信」といった往時のものがそのまま残されており,圧倒されるばかりでした。

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# 7-14
神社のほうは,分校の裏山にあったと思われるのですが,はっきりした痕跡は見当たりませんでした。クルマが入れない場所にある廃校は,300校を超える廃校を探索している吉川さんも初めてとのこと。私もこれほど山道を歩いた場所にある廃校を訪ねたのは初めてです。
帰り道のクルマで吉川さんと話していて気づいたことは,「廃村の廃校は,土地を再使用する見込みがない場合が多く,そのままの形で残りやすい」ということです。私は市街地の廃校に目が行かないので,吉川さんと行動をともにして「なるほど」と思ったことです。
その後,JR信越線篠ノ井駅近くの焼肉屋で打上げをしたので,帰りの新幹線は上田駅発夜9時13分,大宮着10時14分となりました。



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