八丈小島・黒潮の海に切り立つ無人島 再び

八丈小島・黒潮の海に切り立つ無人島 再び 東京都八丈町宇津木,鳥打


廃村 鳥打(とりうち)に残る小中学校跡の門柱と水槽です。



2006/6/3 八丈町宇津木・鳥打

# 9-1
「廃村と過疎の風景(3)」では,関東の「廃校廃村」17か所(当時)全部に足を運ぶという目標があります。これらの中で他との違いが際立っているのが,伊豆諸島 八丈島の西隣,黒潮の海に切り立つ無人島,八丈小島の2つの廃村,宇津木(Utsuki)と鳥打(Toriuchi)です。
私は平成16年9月,単独で宇津木,鳥打に足を運びましたが,「季節を変えて,メンバーを集ってもう一度行きたい」と思い続けていました。
再訪において,想定した季節はアジサイが咲く頃,中心メンバーは長い付合いの廃墟フリークOFFの仲間です。さらに前回知り合った,小島生まれ,八丈島在住の浅沼孝則さんがガイドしてくださるとのことで,行くことができたら味わい深い旅になることは間違いありません。

# 9-2
日程は「梅雨入り前の土日」がある平成18年6月上旬に決まり,メンバーは廃フリOFFからの「廃屋の猫」Webの廃猫さん,「廃墟に誘われて」Webのウシロさん,SCEの佐藤さんと堀川さんに,八丈小島の検索が縁になったという水上みなみさんを加えて,6人集いました。
オフシーズンなのですが,飛行機のチケットは,土曜日の羽田発第1便と日曜の八丈島発最終便ともにギリギリの数となり,日曜日のウシロさんと水上さんのチケットは第2便(午後4時発)になりました。また,船は土曜朝9時発,八丈島・八重根港発の「正丸」(チャーター船)ということで,浅沼さんとの打合せのため,私と水上さんは金曜の羽田発最終便(午後4時5分発)で八丈島入りの予定となりました。

# 9-3
小島行きでは,「2mを越えたら上陸は難しい」と言われる波の高さはもちろんのことですが,雨も心配です。案の定木曜日の天気予報では,週末の八丈島地方の降水確率は70%から100%でした。しかし風は何とかなりそうな気配であり,「小雨決行」の覚悟を決めました。
6月2日(金)は午後半休。東京の天気は曇り。羽田空港で「はじめまして」の水上さんと落ち合って,飛行機は南へ290kmの八丈島へ。 この旅の宿,「ダイビングスズミ」は,海越しに小島が見渡すことができる丘の上。しかし天気は雨。宿で落ち合った浅沼さんとの相談の結果,「土曜・雨天決行,カッパ持参」が決まりました。夜は重い空気の中,水上さん,宿の方と3人で,のんびりと島焼酎を飲みました。

# 9-4
翌3日(土)の起床は朝6時。道は湿っているものの,天気は曇りで雨の気配はありません。これほど曇り空が嬉しいというのも珍しいことです。
お昼用の弁当を持って宿を出たのは8時15分。宿から八重根港までは緩い下り坂を歩いて15分ほど。「正丸」前で水上さんと話をしているうちに,浅沼さん,宿のクルマで空港から直行の4人組,正丸の船長の順でメンバーが集まり,出航は9時25分頃となりました。
波は2mほどで,船はなかなかに揺れます。しかし,進行方向にどんどん大きくなる小島は,太平山(標高618m)の頂上まで見えていました。「東京を朝に出て,その午前中に小島に渡れるなんて,普通ありえんぞ!」という浅沼さんの言葉は,とても印象的でした。


# 9-5
八重根港を出ておよそ20分で,「正丸」は宇津木の船着場(コウブネゴウ)に到着しました。上陸は船の舳先からで,7人が下りると船は沖へと離れていきました。浅沼さんにご用意いただいた地図には宇津木の船着場は5つあり,往時はサスゲエが主な船着場だったとのこと。
岩の塊にコンクリートを塗って作られた急な階段を登ると,見晴らしのよい丘の上に浜小屋跡の石垣とコンクリート造(機関場と呼ばれていた)の建物がありました。前回はわからなかったサスゲエから船を引き上げるスロープも,巻き柱とともにはっきり見出せます。浜小屋跡近くの水溜まりは,カツオブシ工場の痕跡とのこと。丘の上にはピンクのハマヒルガオや,黄色の小さな花が咲き乱れていました。



# 9-6
機関場跡から招魂社,拝所,金次郎の墓,玉石垣などを見ながら,7人それぞれのペースで宇津木集落跡を目指しました。玉石垣近くの海へまっすぐ落ちる崖の高さは50mを超え,すごい見晴らしです。そして,坂道を道なりに曲ってすぐ右手が宇津木小中学校跡です。
宇津木小学校はへき地等級5級,児童数5名(S.34),昭和44年閉校。集落跡に唯一残る建物跡ですが,前回残っていた屋根は台風により落ちていました。また,学校敷地内のコンクリートの建物の上には,ビニールシートで屋根が作られていました。集落跡では,あちこちにガクアジサイの青い花が見られます。また,門柱のくぼみに生えているのはハマユウで,往時からのものとのこと。


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# 9-7
さらに草をかき分けて急な坂を登ると,為朝神社にたどり着きました。背の高い草で覆われた境内は 7人では狭く感じられます。源為朝は,平安末期の武将(頼朝,義経の伯父)で,その最期は流刑先の伊豆諸島 八丈小島で自刃したと伝えられています。浅沼さんによると,境内の大きな長石は島付近の海底から運び出されたもので,為朝神社が持っていた強い権力を象徴するものとのこと。
住居跡の地図があったにもかかわらず,その多くは草木に埋もれていて,見出せたのは集落入口の海沿いの住居跡だけでした。帰り道,崖の上から招魂社あたりの丘を見下ろすと,じゅうたんのような黄色い花の中に浅沼さんと水上さんの姿は,とても小さく見えました。

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# 9-8
再び「正丸」に乗り込んで,鳥打の船着場(フノーケ;船浮)に到着したのは,11時45分頃。この頃には雲間に青空が見え始め,前日に「雨が降ったらどうしようか」と心配していた昼食の時間も,機関場跡近くの草原に座って,余裕で迎えることができました。
招魂社や拝所がある小島でいちばん広い草原は,往時はハマンテーロ(浜平)と呼ばれ,牛の放牧場などとして使われていたとのこと。
食事が進むうちに,6人の輪のすぐそばに「みゃー」と鳴き声をあげてウミネコが近づいてきました。この辺りの磯は,釣りの方も多く訪ねられる場所であり,どうやらエサをねだりに来ている様子です。まさか小島でウミネコにエサをやるとは思いませんでした。

# 9-9
食事が終わり,再び浅沼さんと合流して,鳥打集落跡の探索に出かけたのは午後1時少し前。草は前回よりも茂っています。
浅沼さんにご用意いただいた住宅地図に記された住居は15戸。これに加えて教職員住宅(教住)は7戸もあり,小島の集落における教師の比重の大きさが感じられます。どこに何があったかが一目瞭然で,住宅地図は探索をするにあたってたいへん役に立ちました。
今回は,所々に見られる真っ赤な花はアマリリスで,浅沼さんによるとヤギがいなくなって,昨年頃から見られるようになったとのこと。
坂を登る途中で小雨が降りましたが,カッパを試しに使う程度で済みました。ウシロさんのカッパは小島によくマッチする迷彩模様でした。

# 9-10
四角いコンクリート製の水槽や,火山岩を積んだ石垣は,これからどれだけ年を重ねても,そのままの姿で残っていくことでしょう。住居の入口の部分の石垣(オリカド)は,左右互い違いに組まれており,その家のステータスを示しているとのこと。
また,「少年よ大志をいだけ」という往時の生徒が樹木に刻んだ言葉は,浅沼さんの案内で今回初めて見ることができました。
集落跡の中ほど,坂道が道なりに曲る手前の右手が鳥打小中学校跡です。浅沼さんによると,往時の鳥打村役場(八丈町役場鳥打支所)は学校跡の門柱の左側,水槽の並びに建物があったとのこと。学校跡に着いた頃には,思いがけない日射しが空から注ぎました。

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# 9-11
鳥打小学校はへき地等級5級,児童数20名(S.34),昭和44年閉校。「惜別の詩」が書かれた廊下の壁は,辛うじて残っていましたが,赤ペンキは読み取れない薄さになっていました。いつかこの壁は,文字を復元させて民俗資料館に飾ってほしいものだと思ってやみません。
学校跡を後にして少し坂道を登ると,なじみのお地蔵さん。草に埋もれていましたが,アマリリスとアジサイに囲まれて賑やかです。
さらに坂を進むと,浅沼さんが教師をされていた頃(S.42〜44)に住まれていた教住跡があり,離島時に残したというソテツが生えていました。「実家から通われていたのではなかったのですね」と浅沼さんに話すと,「そりゃ教住は,気楽でいいもんなー」とのお返事でした。

# 9-12
教住を過ぎたところで道は二股に分かれており,左側の道を進んでしばらく行くと右手にビロウの樹(亜熱帯樹)が並んでいます。この並木に沿って登ったところに戸隠神社があり,「奉納 戸隠神社」と書かれた丸い石柱や狛犬などが残されていました。
私は,二股の右側の道の行止まりの小さな渓谷あたりが戸隠神社跡だと思っていました。この場所は,浅沼さんの同行がなければわからなかったことでしょう。神社の水場はチョウノソウ(庁の沢),渓谷の水場はカミガコウ(神ヶ江)と呼ばれていたとのこと。
境内の奥には,湧き水(今は枯れている)の起点を示す小さな半円形のプールがあり,すぐそばには石造りの祠が残されていました。

# 9-13
続いて,二股の右側の道にも行きました。途中の離れに五右衛門風呂が残されている敷地が浅沼さんの実家跡とのこと。小さな渓谷の手前,標高150mほどの海が見下ろせる眺めの良い場所でひと休み。上陸から5時間近く,みんなよく動いているものです。島影ひとつない水平線を見渡すと,地球が丸いことがよくわかります。「小島はいい」と,理屈なく感じることができるひとときです。
ひと通り廻ることができたので,夕方に帰りの船が出るまで,自由に探索しようとなり,私と廃猫さん,水上さんは再び二股の左側の道へと向かいました。「惜別の詩」を書き残した鳥打村の最後の村長 鈴木文吉さんの家跡を改めて見ておきたかったからです。

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# 9-14
文吉さんの家跡は,神社入口より少し先の左手を下ったところにあります。草の茂ったあやしい枝道も,3人踏むとしっかりした道筋ができます。朝に出会ってご挨拶をした宿のオーナー鈴木基弘さんは,文吉さんのご子息であり,オーナーの実家跡を訪ねたことにもなります。
敷地跡を探索すると,文吉さんの家跡では四角いよく見る形のコンクリートの水槽が,お隣さんの家跡では見慣れない丸い水槽が見つかりました。後で調べると丸い水槽は古くからのもので,粘土で作られたものの上にコンクリートで補強がなされているとのこと。その他,水がたまった井戸状の深みもあり,やぶをかく足取りには注意が必要です。

# 9-15
再び学校跡に戻って,すぐ下手のコンクリートでブロックを固めた教住跡に足を運ぶと,ブルーシートの屋根が掛けられ,中にはビールケースと板でベンチが作られていました。日陰に入って休憩するには絶好のポイントであり,屋根のあるありがたみが感じられます。
すぐ後の四角い水槽は,下方に付いた蛇口をひねることができ,手洗いには十分な水が出てきました。蛇口のある水槽は,いちばん新しい形式とのこと。「キャンプができたらいいねー」と水上さんから声がかかり,私も廃屋の猫さんも「うんうん」とうなづきましたが,小島でのキャンプは禁止されています。これは,どうも海が荒れたら八丈島に戻ることができなくなることが大きな理由のようです。

# 9-16
機関場の辺りで4人に合流したのは午後4時20分頃。ウシロさん,佐藤さん,堀川さんは,浅沼さんの案内で,海辺の水の湧くポイントなどに行かれたとのこと。「正丸」が船着場に来るまでのひとときは,拝所にご挨拶をしたり,集合写真を撮ったりしながら過ごしました。
小島での滞在時間はおよそ7時間。「正丸」の料金は6500円ほど。鳥打の船着場から島の西側の絶壁を見上げると,前回と同じく崖にへばりついた白い点のようなヤギの姿を見ることができました。行きよりも強い揺れとしぶきの中,島が少しずつ小さくなって行く姿に「またいつか来たい」と感じるのは,都会のせわしない暮らしと対極する,時が止まったような世界が,小島にはあるからなのかもしれません。

# 9-17
「正丸」が八重根港に戻ったのは,夕方5時頃。港で船長,浅沼さんにお礼を言ってお別れし,宿までの道を歩いていると,港のかたわらで浜汁の鍋を囲む人の輪があり,「そこの旅の人,ちょっと食べていきなよ」の声。何かと思えば,TV番組のロケとのこと。
料理人 細山和範さんが作った「八丈 沖なます」(アオダイの刺身を使ったごはんもの)は,小島探索成功のお祝いのようなタイミングでした。
夜の「ダイビングスズミ」の料理も海の幸がいっぱいで,大満足です。島焼酎の飲み比べでは,アクの強いメンバーが多いせいか,前日買った芋・麦混合で飲み応えがある「八重椿」のほうが,この日買ったさっぱり味の麦焼酎「情け島」よりも好評でした。

# 9-18
翌4日(日)の起床は朝7時頃。天気は小雨混じりの曇り空。朝食後に地域紙「南海タイムス」の記者さんから小島行きの取材を受け,宿出発は9時半。この日はクルマ2台で島一周のドライブを楽しみました。風はすこぶる強く,小島行きは想像もできない波の高さです。
午後3時頃,レンタカー店で先の便で帰るウシロさんと水上さんを見送って,廃猫さん,佐藤さん,堀川さんと私は民俗資料館へ。一足遅れで4人組が八丈島空港に着くと,ロビーはたくさんの人で埋まっていました。何と4時発の便は強風のため欠航で,さらに最終便(5時半発)は運行というどんでん返し。もう1泊追加となったウシロさんと水上さんのお見送りに,私は「すいません…」と頭を下げました。

(注1) 記事のまとめ(特に小島の古い地名などの詳細部)には,『立命館探検學 第2巻 人と自然との共生』(立命館大学探検部 刊・編)を参照しました。

(注2) 外海に浮かぶ「正丸」の画像は,SCEの堀川さんにお借りしました。



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