南信・廃村に出かけて学校跡に泊まろう(2)

南信・廃村に出かけて学校跡に泊まろう(2) 長野県豊丘村野田平,
___________________________________________中川村四徳,伊那市芝平


廃村 野田平(のたのひら)に残る分校跡の校舎の廊下です。



2007/5/12〜14 豊丘村野田平,中川村四徳,伊那市(旧高遠町)芝平

# 18-1
「廃村に出かけて学校跡に泊まろう」,3泊4日のツーリング。2日目(5月12日(土))泊の学校跡は長野県豊丘村の廃村 野田平(Notanohira)にある「野田平キャンプ場」です。廃村の学校跡が宿泊施設になっている例は,長崎県小値賀町の野崎島など,全国的にもわずかです。
キャンプ場には管理人さんがひとりいるだけで,他にお客さんはいません。宿泊手続きを取ると,校舎にはコンロはなく,別棟の新しいバンガローにはコンロがあるとのこと。校舎に泊まれないと値打ちがないので,食事はバンガローで,宿泊は校舎でという,変則的な形を取ることになりました。
ふとんはレンタルで,食事はミートスパゲティ。人里離れた標高840mの廃村で過ごす二人きりの夜は,とても非日常的でした。

# 18-2
豊丘南小学校野田平分校はへき地等級3級,児童数33名(S.34),昭和51年休校の後,昭和56年閉校。神稲(豊丘村の中心)−野田平はおよそ8km。門柱の脇にある「望郷の碑」(平成2年建立)には,「最盛期七十戸の部落も満州移民三六災害等により27戸に減少した 益々進む過疎化に対処し住民の総意により移転を決意し村の指導を仰ぎ集落整備事業により昭和55年新天地への移住を完了した」と記されていました。
野田平の校区は,5つの小集落(野田平,北山,本谷,萩野,坂島)からなり,北山,本谷,萩野は,教室の名前として使われています。私たちはいちばん入口寄りの萩野という教室に泊まりました。「豊丘村誌」によると,野田平の「のた」とは,シカの住む所を表すとのことです。


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# 18-3
3日目(5月13日(日曜日))の起床は朝4時半頃。曇り空でしたが,山中で迎える未明から早朝のひとときは値打ちがあります。分校の近くを歩いて探索すると,校舎の裏手に木地師の墓を見つけました。もう一度布団に戻ってだらだらし,keikoと朝食のひとときとなったのは8時頃。
そのうちに校庭にクルマが3台到着し,おじさんにご挨拶をしたら,野田平出身の方(男性ひとり)の案内による山菜取りとのこと。
萩野,坂島を除く3つの小集落の位置関係がわからなかったので,野田平出身の方に尋ねると,分校の裏手のダートを上り,左手に折れてすぐにあるのが野田平,まっすぐ進む少し離れたところが北山,分校手前の橋を渡らず,舗装道をまっすぐ山へ向かったところが本谷と教えていただきました。

# 18-4
朝食の後,「どれか1か所,様子を見てみましょう」とkeikoと一緒に出かけたのが本谷です。バイクでしばらく走ると左手に鳥の巣箱のような廃屋が見え,神社や入口にロープが張られたいくつかの廃屋が見られました。印象深かったのは,黒くて大きなイノブタに出会ったことです。「野生かも」とも見えたのですが,よく見ると豚舎で飼われている様子でした。廃村だと匂いの問題が生じないので,ブタを飼うにはよいかもしれません。
管理人さんにお礼をいって野田平キャンプ場を出発したのは10時半頃。周辺の舗装道には細かい砂利が乗っていて,滑りそうでおっかなかったのですが,これは崩れて砂になりやすい花崗岩を多く含む地質のためのようです。

# 18-5
村役場近く(神稲)のコンビニに戻って,次に目指したのは中川村の廃村 四徳(Shitoku)です。四徳は,伊那谷三六災害(昭和36年6月の集中豪雨による広域災害)で壊滅的な被害を受けたため廃村になったということで知られています。
神稲からは県道(一部R.153)を結んで小渋湖まで走り,小渋湖−四徳の6kmではサルの群れに遭遇しました。下村橋を渡ると,谷は浅く,空は広くなり,路傍の石垣に集落跡に着いたことを実感しました。しばらく走ると右手に「長久山福泉寺跡 四徳人会建立」という看板があり,まずここで一服。寺跡からやや上手の道の左手には「四徳学校跡」と記された看板があり,その裏に広がる大きな更地には「いかにも学校跡」という存在感がありました。


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# 18-6
中川東小学校四徳分校はへき地等級1級,児童数71名(S.34),閉校は昭和38年。現在四徳には,四徳温泉「いもい荘」という宿とオートキャンプ場がありますが,民家は1戸もありません。論文「長野県の山村・四徳の集団移住とそれに伴う社会構造の変化」(横山周司さん,「駿台史学」,明治大学)によると,「7名が犠牲となり,災害当時の84戸中61戸が流出・倒壊などの被害を受けた」とのこと。
また,論文には「度重なる会議の末,翌37年6月,国の『集団移住臨時措置法』の適応を受け,全戸集団移住を正式に決定した」と記されており,このことを「過疎の進行を予測する村のリーダーの存在や,これを支持する四徳人達の地域意識の強さが表れている」との旨,まとめられています。


# 18-7
四徳(標高870m)は5つの地区(下村,小河内,中村,大張,平鈴)からなり,分校跡は中村にあります。広々とした分校跡の敷地の奥のほうには,盛り土の上に「心のふるさと 四徳学校跡」と記された石碑(昭和46年建立)があり,碑の左手には往時からのサクラの木がありました。
後に「中川村誌」で確認したところ, 碑のあたりに校舎があって,サクラの木の根元の石で囲まれた窪みは積もった土砂を示している様子です。
少し上手の県道対岸の丘の上には四徳神社があり,祠とともに災害記念碑,平和祈念碑などが整然と建てられていました。
四徳に滞在したのは1時間弱,地域の方とはお会いできませんでしたが,その雰囲気から「四徳人の地域意識の強さ」を実感することができました。

# 18-8
2kmに及ぶ四徳集落跡を抜けて,折草峠を越えて,昼食は当初伊那市街に出てローメン(伊那名物の中華めん)を食べる予定でしたが,百々目木川沿いに休憩にちょうどよいお店があったので,あまごの炊き込みご飯を食べて一服。天竜大橋近くから見上げる木曽駒ヶ岳は雄大です。
路傍にハトに赤丸の友愛マーク(全国禁煙友愛会)の看板,大きく「庚申」と記された石碑などを見ながら,県道(一部R.152)を結んで走り,美和湖を経由して,この日泊まる伊那市(旧高遠町)荊口(Baraguchi)の学校跡の宿「御宿 分校館」に到着したのは午後3時前でした。
次に目指す廃村 芝平(Shibira)は荊口から4kmほどの距離なのですが,ここはまず,荷物を置いて一服です。



# 18-9
三義小学校荊口分校はへき地等級1級,児童数67名(S.34),閉校は昭和40年(碑には昭和46年とあるが,後に転用された幼稚園の閉校時期ではないかと思われる)。この日の「御宿分校館」の宿泊客は私たち二人だけ。13年前(平成6年夏)に県道を通ったときの看板は「シニアホステル」,少し前に確認したときの屋号は「シニアホステル分校館」。宿のかた(東さん)にこのことを尋ねると,シニアホステルは説明が難しいので改称したとのこと。
営業を始めて22年という分校の宿は,廊下と囲炉裏がある食事の部屋,喫茶室(ともに体育館を改造)に,その趣を色濃く残していました。
荊口の標高は1000mあり(高遠市街は800m,芝平は1140m),雪はあまり降らないけれど,冬はマイナス20℃に冷えることもあるそうです。

# 18-10
芝平は,地域の方が高遠町内に新しい芝平集落を作って集団移住し廃村になってから,主に首都圏方面から新しい住民が越してきて,新たな村づくりを始めているという話を耳にしたことがあり,どんな様子なのか楽しみにしていました。
一息ついてから芝平へ向かうと,荊口集落から山に入った箇所に「この道路は私たちがきれいにしています 芝平管理委員会」の看板がありました。
細い県道をしばらく進むと,道の左手に古びた家々が見え始め,「芝平之里」(離村記念碑),「芝平分校跡」という石碑に続いて,木造二階建の芝平分校の姿が目に入りました。新しい芝平の住民の交流の場として使われているという分校跡は,13年前とあまり変わることなく建ち続けていました。

# 18-11
三義小学校芝平分校はへき地等級1級,児童数85名(S.34),閉校は昭和40年。離村記念碑(昭和63年建立)には「芝平地区は広大な山林と石灰岩に恵まれ村民は豊かな生活を営む事ができたが 終戦後国の施策は工業立国を進める様になり過疎化が進み 昭和53年最後に残った37戸が集団移住をよぎなくされ七百有余年続いた芝平の幕を閉じたのである」と記されています。
離村記念碑が建った場所に新しい住民が住み,新たな歴史が作られるというのは珍しいことです。廃屋に交じって往時の家屋を補修して使っている家屋があり,真新しいログハウスはわずかです。昔ながらの暮らしが見直される機会が多い昨今,芝平の新しい住民は増える傾向にあるようです。

# 18-12
芝平は6つの地区(下芝平,大下,卯沢,荒屋敷,宮下,辰尾)からなり,分校跡は大下にあります。分校跡からしばらく上手に走ると古びたバス待合所跡があり,「高遠町芝平区 卯沢 全国禁煙友愛会」という看板がありました。その近くには大きく「庚申」と記された石碑が3つ並んでいました。
keikoと一緒ということもあり,廃村探索は軽めに切り上げ,宿に戻ったのは午後5時頃。この日の走行距離は芝平までの往復を入れて88kmでした。
夕方,なつかしい感じがする荊口集落を上手に向かってkeikoと散歩をすると,赤坂に古びたバス待合所跡があり,「舞う煙 自分も短命人になる」という全国禁煙友愛会の古い貼り紙がありました。その近くには6つ並んだ石碑の中に大きく「庚申」と記された石碑が3つ混じっていました。

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# 18-13
友愛会の看板,庚申の碑は,13年前に見たときから印象が強く,今回もkeikoとの与太話の種になっていたのですが,気になっていけません。
後で調べると,全国禁煙友愛会は昭和30年設立,伊那市を本部とし,現在(H.15)は三都県に3万2千人の会員を持つ全国有数の禁煙運動の団体とのこと。
また,「高遠町誌」によると,庚申の碑(庚申塔)は庚申講に係わりがあり,道祖神の脇に建てられるもので,庚申の年(60年に一度),各部落で部落の総意で作られるものとのこと。荊口の庚申の碑の建立は昭和55年(1980年)でした。この独自性の強い碑は,2040年にも建つのでしょうか。
この日の夜は,宿で風呂に入って,シカ肉の刺身,シシ鍋を食べて,ゆったり過ごすことができました。


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# 18-14
4日目(最終日,5月14日(月))の起床は朝6時半頃。良い天気ですが,山間のため日影が多くあります。早朝の芝平では,昨日も見た「芝平之里」,「芝平分校跡」の石碑,分校跡の建物もまた違う雰囲気に見えます。日の長い季節にして,分校に日が当たりだしたのは7時半頃でした。
二度訪ねた芝平ですが,クルマの姿,イヌを連れて散歩する新しい住民の方を見かけただけで,地域の方とお話をする機会はありませんでした。
喫茶室で朝食をとり,東さんに芝平について尋ねると,「住民の方は小中学生を自家用車で荊口バス停まで送り迎えされている」,「冬の積雪期でも無人になることはない」など,その様子を教えていただきました。田んぼが見える喫茶室の窓ガラスは,年期を感じさせる厚さのムラがありました。

# 18-15
東さんの見送りを受けて分校館を後にしたのは朝10時半頃。首都圏から意外と近い高遠には,何かの機会に再訪することになりそうです。
荊口から中央道方面までの道は,芝平峠を越える林道にはダートがあるとのことで,杖突峠を越えるR.152を選びました。
中央道は諏訪南ICから一宮御坂ICまでとして,塩山からは柳沢峠を越えるR.411(青梅街道)を走り,青梅,所沢を経由して,南浦和に帰りついたのは午後6時頃でした。初日は強風に悩まされましたが,雨には一度も降られない,快適なツーリングでした。
この日の走行距離は242km(4日間のトータルは770km)。途中,山梨と東京の県境付近の奥多摩湖では,湖に下りて浮き橋を渡るほどの余裕がありました。



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