列島横断 廃校廃村をめぐる旅(1)

列島横断 廃校廃村をめぐる旅(1) 静岡県浜松市天竜区新開,有本

磐田市(旧福田町)福田海岸から見た遠州灘です。



2008/4/27〜28 浜松市天竜区(旧龍山村)新開,(旧水窪町)有本

# 26-1
「廃村と過疎の風景(3)」の旅も開始してから丸3年,まとめの時期になりました。当初の目標、47都道府県の「学校跡を有する廃村」リストの作成は煮詰めの段階に入って久しく,関東1都6県の「廃校廃村」17か所(当時)の全訪も成し遂げて久しくなりました。
「まとめに何をすればよいか」と考え,思いついたのは長野県の「廃校廃村」24か所(当時)をすべて訪ねることで,残りは9か所です(南信6か所,中信3か所)。旅の計画は,太平洋側 天竜川河口の静岡県磐田市から日本海側 姫川河口の新潟県糸魚川市まで,東経138度線近くを三度のツーリングで北上し,静岡県(再訪)2か所,長野県(再訪)4か所,新潟県5か所を含めて,計20か所の廃校廃村をめぐるというものになりました。

# 26-2
第一陣の目標は,「熱中時間」ロケでも訪ねた静岡県旧龍山村新開,旧水窪町有本,南信の最南部 天龍村長島宇連,泰阜村栃城,川端,南信の中心都市 飯田市松川入,大平の7か所となりました。大平からは埼玉も大阪もほぼ同じ距離(約280km)なので,バイクは大阪・堺市の実家に預ける予定です。
旅の出発は平成20年4月27日(日),前日に雨が降ったことため一日遅れで,天気は晴れ。ツーリングは何よりも天気が重要です。年休の取得は1日で,振休が1日。南浦和を朝8時25分に出発し、GWとは思えない快調なペースで首都高・東名を走ると,袋井ICには11時50分に到着していました。
袋井ICからは,遠州灘沿岸,天竜川河口に回り道をするということで,磐田市旧福田(Fukude)町の福田漁港(豊浜)を目指しました。

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# 26-3
福田漁港では生シラスがあるお店を探したのですが,見つからなかったので,釜揚げシラスとコンビニおにぎりを買って,漁港を見下ろす公園で昼食休みとなりました。漁港ではバイクのキックレバーが折れるというアクシデントがありましたが,幸い近くにバイク店があり修理してもらえました。
豊浜からは福田海岸の砂丘を経由して,天竜川河口を目指しました。遠州灘の砂丘は中田島が有名ですが,福田の砂丘も果てしない広さがあります。
初めて訪ねた磐田市旧竜洋町の天竜川河口には,竜洋海洋公園という大きな公園が広がっていて,河口のそぐそばには大きな風車と小さな灯台(掛塚灯台)がありました。川の流れと海の波が混じり合う風景は独特のもので,「遠くに来た」という気分になりました。

# 26-4
天竜川河口は,姫川河口までの列島横断ツーリングの出発点です。横風が強い天竜川左岸の道を北上すると、25kmで旧天竜市二俣に到着。R.152を走り,この日宿泊の旧龍山村新開「ペンションふるさと村」に到着したのは夕方5時15分。新開は天竜川河口から52km、道中,太平洋に最も近い廃校廃村です。
瀬尻小学校高誉分校はへき地等級3級,児童数28名(S.34),昭和36年閉校。最終年度(S.35)の児童数は34名。分校跡に立つ金原明善顕彰碑のそばには周囲の風景をぐっと明るくするヤエザクラが咲いていました。GW中ですが日曜日ということで,宿泊客は私ひとりです。ご主人(小川博義さん)と,営林集落跡のこと,春に龍山村から中学校が併合によりなくなったこと伺いながら,静かな夜は更けていきました。この日の走行距離は348kmでした。



# 26-5
翌朝(4月28日(月))の起床は朝6時で,天気は快晴。すでに周囲は明るくなっており,朝食まで間があったので,小川さんに教えていただいた往時のかまどが残る住宅跡を訪ねました。場所は宿の上流側の防災倉庫の近くで,川の反対側の山中です。草が茂る坂を上ると,石垣のある平たい場所があり,その奥のほうにかまどを見つけることができました。小川さんによると,ここでは昭和30年頃に火事が起こり,その後そのままになったとのこと。
防災倉庫の近辺には森林鉄道の線路が見られましたが,これも「新開に縁がある方が来ると喜ばれる」と,小川さんが掘り起こしたものとのこと。
「ペンションふるさと村」出発は朝8時半頃。帰り道,植木鉢の様子を見ると,新緑の中,冬よりも活気があるように感じられました。


# 26-6
続く目標は旧水窪町有本です。今回のツーリングの主目標は長野県の廃村廃校なので,旧水窪町は有本ひとつに絞りました。「寒中ツーリング」と同じ道のりで水窪市街を通過し,有本に到着したのは朝9時40分頃。車道の行き止まりの集落跡入口にはイヌがいて,吠えられてがっかりです。
イヌから離れる方向の道から坂を上がっていくと,ほどなく公民館跡風の建物のところまで来ました。周囲は枯れ草に覆われており,冬に訪ねたときとの印象の違いはありませんでしたが,写真を見比べると新緑が鮮やかです。空の木の箱の左横には「親と子が くらしを語る ゆうげどき」という色あせた看板があり,右横には赤いホース収納箱があります。改めて見ると,箱の中に入っていたのは公衆電話ではなく消火器だったかもしれません。


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# 26-7
集落跡最上部にある有本分校跡にも,再び足を延ばしました。水窪小学校有本分校はへき地等級2級,児童数29名(S.34),昭和46年休校(実質閉校)。最終年度(S.45)の児童数は13名。こちらも冬に訪ねたときとの印象の違いはなく,「本当だったかな」と思ってひねった敷地の真ん中の蛇口からは水が出ました。よく見ると,門柱跡の近くには新たにスギの苗木が植えられており,少しずつ分校跡の雰囲気は変わっていくのかもしれません。
時間があったら東隣の廃村 大寄にも立ち寄りたかったのですが,公民館跡風の建物のそばからおそらく大寄へ向かう山道に入り,森に暗がりにかかる手前まで歩いて確かめてから引き返しました。戻るときに見た有本の廃村の風景は,冬は見なかった角度からのもので,新鮮な印象を受けました。



# 26-8
小1時間探索して車道の行き止まりに戻ると,またイヌの鳴き声のお出迎えです。イヌがいるということは,有本に関係する方が来ているということなのですが,先を急ぐこともあり,そそくさとその場を後にしました。
新開,有本ともに「熱中時間」ロケで訪ねたときの雰囲気と比べて,ほとんど違いはありませんでした。つまり「廃村めぐりの雰囲気はそのまま伝わっていた」ということで,改めて「ロケはうまく行ったんだなあ…」と思いました。
有本からは水窪市街には戻らず草木に抜けて,平成6年夏以来14年ぶりに長野県旧南信濃村に向かって兵越峠への道を走りました。



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