列島横断 廃校廃村をめぐる旅(3)

列島横断 廃校廃村をめぐる旅(3) 長野県飯田市松川入,大平


廃村 大平(おおだいら)の公民館前に建つ集団移住記念碑です。



2008/4/29 飯田市松川入,大平

# 28-1
京都精華大学での講義「日本の廃村の現状とこれから」の影響で,講義で学生に出された課題「廃村の活用例」について,考えるようになりました。 「多くの廃村は,広さ,日当たりなど,山間でいちばん条件の良いところに作られていた」というのは経験的な私の持論で,廃村には,特に都会に暮らす方にとっては多くの楽しめるものがあると思うのですが,「活用されている」という雰囲気がある廃村は,全国的にも数えるほどしかありません。
廃村の活用例として,全国的に有名なのが飯田市大平(Oodaira)です。大平は木曽谷と伊那谷を結ぶ大平街道の真ん中の旅籠町(大平宿)として栄えましたが,昭和45年秋に全戸移住で廃村となりました。それから38年後の現在,大平は旅籠町の家屋が往時のままに残る,渋い観光地となっています。

# 28-2
大平からほど近い松川入(Matsukawairi)は,大平街道から林道を入った山間にある廃村(昭和41年春全戸移住)で,ネット上にほとんど情報がないことから「離村記念碑が見つかればよしとしよう」という気持ちで訪ねたのですが,松川入も意外な形で活用されていました。
旅3日目(29日,火・祝)の起床は6時半。天気は快晴ですが,天竜川沿いの門島の朝は霜が下りる冷え込みです。「廃村探索は早めに済ませて,明るいうちの大阪到着を目指そう」と,朝食後すぐに「門島館」を出発し,幹線道路(R.151)を走ると,飯田市街には朝8時には到着していました。
松川入・大平には、SNSのmixiで知り合った信州大学の学生(佐合さん)と赤い屋根のJR飯田駅で待ち合わせて,ふたりで訪ねました。

# 28-3
後を走る佐合さんのクルマと程よい距離を取りながら,松川沿いの大平街道を走っていくと,松川ダムを過ぎたあたりで「松川入大山祇神社」という石柱が目に止まったので,まずここで小休止。石柱脇の山道を少し上ると,ダムを見下ろす斜面の上に,真新しい鳥居と拝殿がありました。
山深い集落跡からの移転なのかどうかは想像の域ですが,その規模の大きさから考えると,ダムに沈んだ小集落から移転したものではなさそうです。
「珍しく「熱中時間」風に,廃村を訪ねて最初に神様にご挨拶をした」と笑うと,佐合さんは「熱中時間,見れなかったんですよ」とのお返事。TVはWebに比べて情報量(動画・音声等)が多く,短時間でインパクトを与えることはできるけれども,浸透しにくいメディアのようです。

# 28-4
大平街道から林道に入って3kmほど行くと,「松川入財産区入道事務所」という看板が立つ古びた廃屋があり,入口の脇には黒色の公衆電話が置かれていました。「災害・自己等の緊急時に連絡を取るため」とのことですが,廃村に公衆電話が置かれていることはめったにありません。貼られていた新聞によると,「事務所には昭和30年頃のもので,昭和57年頃まで管理人がおり,森林整備などの現場作業員が出入りしていたとのこと。
松川入の標高はおよそ1000m。日差しは明るく,吹く風は爽やかです。事務所跡のそばを探索すると,渓流(松川)にかかる吊り橋と,川に注ぐ滝があり,事務所のそばにはサクラが咲いていました。昭和41年に集団移住した廃村としては,意外なほど手入れがなされています。



# 28-5
事務所を後にして林道を進むと,橋のたもとには鯉のぼりが上がっていて,「供養碑」という石碑も見られました。「離村記念碑はどこにあるのかな」と,さらに林道を進むと,道が広くなったところの正面にいくつかの石碑が並んでいました。これは,見落としようがないほどの目立ち方です。
いちばん大きなものが「松川入部落 集団移住之碑」で,その右横に「この地に松川入分校あり」という閉校記念碑がありました。大平小学校松川入分校はへき地等級1級,児童数31名(S.34),昭和41年閉校。分校はこの近辺にあった様子ですが,往時の雰囲気は残されていませんでした。
石碑の横には水汲み場があり,そばにはサクラが咲いていました。「山の水はよい土産になる」と,私と佐合さんは,ペットボトルで水を汲みました。

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# 28-6
石碑近辺を探索しているうちに,軽トラに乗った地域の方が来られたので,ご挨拶。「よく手入れがされていますね」と話すと,おじさんは「林道をも う少し進んだら,遭難の碑があるから,見てくればよい」とのこと。この時点で「遭難」とは何のことか二人とも知らなかったのですが,「行ってみましょう」と先に進むと,作業小屋とトイレが建てられた広場があり,遭難の碑と慰霊の鐘がありました。
碑には「昭和44年8月,神戸市立御影工業高校山岳部の教師・生徒7名が避難小屋で就寝中に鉄砲水で流された」とあり,サクラや鯉のぼりは慰霊で訪ねられる方のために整備されていることがわかりました。サクラや整備された花壇がある広場では,大きな鯉のぼりが泳いでいました。

# 28-7
この広場は飯田市在住の丸山春雄さんという方がボランティアで整備されているとのこと。私と佐合さんしかいない整備された広場の居心地はすこぶる良く,ここで予定より少し早い昼食となりました。廃村 松川入がこのような形で活用されているとは,思いがけないことでした。
帰り道,松川を渡る橋では,昔流された橋の残骸を見にいきました。相次ぐ集中豪雨による被害も,離村の一因となったとのことです。
飯田峠を越えて,標高1170mの大平に到着したのは予定よりだいぶ遅い昼12時頃。大平にはちらほらと観光の方の姿があり,土産物屋(橋本屋),五平餅の店は開いていましたが,前回泊まった民宿「丸三荘」は閉まっていました。「集団移住記念碑」のそばにバイクとクルマを停めて,探索の始まりです。


# 28-8
まず立ち寄ったのは,碑の後ろ側にある小学校跡です。大平小学校(のち丸山小学校大平分校)はへき地等級1級,児童数36名(S.34),昭和45年閉校。最終年度(S.45)の児童数は9名。前回訪ねたときは赤かった校舎跡の屋根は,さびが目立っていました。
次は往時の家屋が10数戸残る集落跡。石詰み屋根の「紙屋」には,地域の方が集われていました。江戸期に建てられた「大蔵屋」は鍵が開いていたので,しばし板間に座って休憩。傾斜が緩く,軒先が深い建物は「本棟造り」というとのこと。サクラの花は,標高が高いせいか見当たりません。
集落跡の家並が途絶えた先の神社(諏訪神社)にも足を運びました。長い階段を上って着いた拝殿は,なぜか開け放たれていました。

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# 28-9
最後に「橋本屋」に立ち寄って,コーヒーを飲んで小休止。佐合さんは,妻籠・馬籠のような観光地をイメージしていたそうですが,訪ねてみると落ち着いた佇まいがあり,満足されたとのこと。私もあちこちの廃村を見てきましたが,これだけ多くの家屋が往時のままに残されている例はほとんどなく,改めてその価値を感じました。店のおばさんによると,「昭和に入ってからの大平は旅籠の仕事はなく,畑と山仕事で生計を立てていた」とのこと。
大平を出発したのは午後1時半頃。大平峠を越えて妻籠に入り,R.19の三差路で佐合さんと分かれ,中津川ICから中央道・名古屋高速・名阪道経由で,松原ICを目指しました。大阪・堺の実家着は夕方5時55分。この日の走行距離は350km。渋滞にかからなかったため,明るいうちに大阪へ到着できました。



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