紅葉を堪能した茨城の廃村

番外編 II 紅葉を堪能した茨城の廃村 茨城県高萩市柳沢


廃村 柳沢(やなぎさわ)に残る神社(八幡様)です。



2008/11/15 高萩市柳沢

# 外II-1
9月に千葉県の廃村(君津市追原)へ足を運ぶことができて,関東1都6県の廃村への旅の目標は茨城県に絞られましたが,心当たりの廃村がありません。
茨城県(旧国名は常陸,上総)の気候も比較的温暖で雪はわずかしか降らず,平野は広く,最高峰(八溝山)の標高は1022mです。東京から近いこともあり,廃村は生じにくいようです。また,へき地等級が付いている小学校は19校しかありません(S.34)。
「とにかくひとつ見つけよう」と,県北部の山間に的を絞って住宅地図を探ったところ,八溝山の所在地 大子(Daigo)町に,相川新田(Aikawa-shinden)という戸数2戸の高度過疎集落を見つけました。手前の集落 相川との距離は2.5km,通じる県道(下金沢栃原線)は集落の先で途切れています。

# 外II-2
相川新田の2戸のうち1戸は「芳山荘」という釣り堀兼民宿。少し手前に記された石碑マークは意味ありげです。不十分な情報ですが,訪ねてみる価値はありそうです。あわせて,比較的近くで往時県唯一のへき地4級校があった北茨城市小川(Ogawa)を訪ねる予定を組みました。
地図を見ながら計画を立てているうちに,夏に訪ねた新潟県糸魚川市(日本海沿い),津南町と茨城県大子町,北茨城市(太平洋沿い)が,すべて北緯37度線の近くにあることがわかりました。こうなると,津南町から東へと進路を取り,北茨城市五浦(Idura)の太平洋まで,「列島横断 廃校廃村をめぐる旅」の続編を兼ねて行きたくなりました。実行するためには3泊4日の旅程が必要でしたが,何としても平成20年中に成し遂げたくなりました。

# 外II-3
「続・列島横断 廃校廃村をめぐる旅」,ソロツーリングの出発は11月1日(土),南浦和から関越道(所沢IC−越後湯沢IC)を走って,新潟県十日町市(旧中里村)阿寺,津南町中ノ平をめぐり,8月にも泊まった新潟県津南町の農家民宿「もりあおがえる」に宿泊。
旅2日目(11月2日(日))は,新潟県川口町(現長岡市)山ノ相川,小高,魚沼市(旧湯之谷村)浪拝,鷹ノ巣,福島県檜枝岐村赤岩平,小沢平,南会津町(旧田島町)八総鉱山をめぐり,2年半ぶりに栃木県那須塩原の亡き妻の実家に宿泊。1年の半分が冬季通行止になるR.352・樹海ラインをバイクで走り抜けることができたのは画期的なことでした。

# 外II-4
旅3日目(11月3日(月祝))の起床は朝7時頃,天気は曇。お墓参りをしてから塩原を出発したのは午前9時頃。東北道の西那須野塩原ICを過ぎ,大田原,黒羽と栃木県北東部に向かう道はどれもすいていて,ツーリングにはとてもよい心地です。
道中,大田原市(旧黒羽町)須賀川では,趣がある二階建て木造校舎が見当たり,思わずバイクを停めました。須賀川小学校はへき地等級無級,児童数410名(S.34)。私は現役校と思っていたのですが,平成18年3月閉校とのことです。
1時間少しで県境を越えて茨城県大子町に到着。下金沢から相川新田に続く道をたどると,山が深くなったあたりの右手に大きな石碑が見当たりました。


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# 外II-5
石碑の表面には「依上財産区顕彰記念碑」,裏面には「治山無限」と刻まれており,どうも戦後に営林集落ができていた気配です。
「芳山荘」を訪ねて,偶然出会った地域の方(年配の女性)に話をうかがうと,「往時は20数戸の営林関係の宿舎があった」とのこと。ただ,「角川地名大辞典」を調べると,相川新田は江戸時代に開かれた新田で,最盛期は7戸の家があったということで,営林集落とは言えません。
県道がダートに変わるところまで探索すると,「ここは相川新田やまんなか,この先500m車行止まりです」と書かれた黄色い看板があり,看板のそばには古びたバンガローの廃屋がありました。ここで折り返し,戻り道,石碑の脇の枝道に入っていくと,動物用の檻がある荒れた廃屋が構えていました。


# 外II-6
相川新田から先は,一度「続・列島横断 廃校廃村をめぐる旅」モードになって,八溝山の頂から福島県棚倉町中ノ沢,塙(Hanawa)町入山という2つの営林集落の廃村をめぐりました。山間から里に下りて,比較的賑やかな矢祭町の中心集落 東館で一服したのは午後2時半頃。
矢祭町,塙町には平成12年4月に「廃村と過疎の風景」の旅で出かけた過疎集落 追分,殿畑があることに気づきました。小川へ向かうR.349から少し寄り道すれば行けることから,8年半ぶりに追分,殿畑へ向かうことになりました。
矢祭町追分に着いて驚いたのは「追分分校」と記された看板。これはノーマークでした。看板の矢印をたどると,ほどなく分校の門柱が見つかりました。

# 外II-7
門柱は「現役校かも」と思うぐらいしっかりしていましたが,門の真ん中には一方通行出口の看板がついた車止めがあり,やはり廃校の様子です。
「坂を上がれば校舎があるかな」と思えば,小道をたどっていってもそれらしき姿が見当たりません。5分ほど歩いて,あきらめかけたところで視界が広がり,小さな木造校舎と校庭にたどりつきました。味のある廃校に偶然たどり着くというのは,嬉しいものですね。
東館小学校追分分校はへき地等級2級,児童数28名(S.34)。校舎をのぞくと「十年三月」と記された行事表の黒板がありました。後で調べると平成10年より休校で,最終年度(H.9)の児童数は3名。閉校は平成17年。今は,遺跡からの出土品を保管する倉庫などとして活用されているようです。

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# 外II-8
追分からは8年半前にもたどったダートの林道を走り,殿畑に向かいました。殿畑の銀色屋根の廃屋はしっかり残っていて,なつかしいことしきりです。
11月の日暮れは早く,先を急がなければなりません。目指す学校跡がある北茨城市小川に着いた午後4時10分頃には,周囲はうす暗くなっていました。
関本第三小学校小川分校(後,独立して小川小学校)はへき地等級4級,児童数49名(S.34),昭和59年閉校。小川は10戸ほどの山間の過疎集落。学校跡は県道から少し入ったところにあり,古いサクラの木々や広い校庭には,学校の雰囲気が残されています。校舎が建っていたに違いない一段高い敷地には「小川田園都市センター」という建物がありましたが,周囲の人気は門の手前の畑で枯草で焚き火をする年配の女性だけでした。


# 外II-9
この日の宿,北茨城市大津港駅近くのビジネスホテル「さかえや」の夕食時に「茨城県の廃村を訪ねた」という達成感は,ほとんどありませんでした。相川新田を廃村と捉えるのは,少々無理があるようです。
旅を終えてすぐ,訪ねた場所を確かめるために古い分県地図を紐解くと,小川よりも2kmほど北側の行き止まりの場所に定波(Sadanami)という集落名が見つかりました。期待とともに水曜日(11月5日),改めて北茨城市,高萩市の山間の集落を住宅地図で調べると,定波には4戸の家屋と美容室が記されていましたが,高萩市最北の集落 柳沢(Yanagisawa)に記されている家屋は1戸(H.19)しかないことがわかりました。

# 外II-10
昭和59年の住宅地図では柳沢の戸数は4戸あり,減少したことがわかります。また,「角川地名大辞典」には,柳沢は江戸時代に開かれた新田(柳沢新田)で,「最盛期は7戸の家屋があった」,「水戸藩領と棚倉藩領の境界近くにあり,藩境監視的な役割があったと考えられる」などと記されていました。
手前の集落 下君田との距離は8kmありますが,通じる県道(塙高萩線)は県境を越えて福島県塙町矢塚へ抜けています。
茨城県の廃村めぐり,アンコールの旅の出発は11月15日(土),常磐道を往復するソロの日帰りツーリングです。天気予報は曇のち小雨と今ひとつ,出発時間は午前10時50分頃とかなり遅め。それでも,福島県南部も訪ねる予定で出かけました。

# 外II-11
常磐道を高萩ICで降りたのは午後12時半頃。接続する県道塙高萩線を左折すると,高萩市内には出ず山間へ直結です。6kmほど走るとポツンと一軒 そば屋があり,ここで一服。気さくなおかみさんに迎えられて食べたきのこそばと自家製こんにゃくの刺身は,とても美味でした。
柳沢の手前の集落 下君田では,偶然下君田小学校跡を見つけました。下君田小学校はへき地等級2級,児童数110名(S.34),統合のため昭和50年閉校。学校跡は県道が細くなる手前にあり,「緑の郷コミュニティセンター」という建物がありましたが,人の気配はありませんでした。
下君田から柳沢に向かう静かな道は渓流(大北川)沿いにあり,途中で見かけた綺麗な紅葉に, 思わずバイクを停めました。


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# 外II-12
柳沢に到着したのは午後1時50分。はじめに見かけた無人の家屋の手前には,みごとな紅葉があり,手入れがなされている様子です。
1戸残る家屋の周辺にはイヌの檻がいくつかあって,鳴き声の出迎えにあいましたが,幸い住まれている方(Yさん,年配の女性)にお会いすることができ,「こんにちは」と挨拶すると,お話をうかがうことができました。イヌ達は,猟の方がイノシシを追うための猟犬とのこと。往時も分校はなく,下君田小学校まで歩いて通ったとのこと。また,冬場は1mほどの積雪があるが,除雪されるのでそれほど不便ではないとのことです。
隣の紅葉を背負った閉ざされた家屋も手入れされていました。「柳沢は紅葉の名所」という好印象を受けましたが,地名を記す看板はありませんでした。


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# 外II-13
Yさんにお礼を言って分かれてからは,教えていただいた少し上手の県道沿いの神社(八幡様)まで歩き,たどり着けたことに感謝しました。
県道が通過する風通しのよさはあるのですが,「1戸は集落と考えず,廃村と同様に考える」という基準にあわせて,相川新田は廃村とは考えず,柳沢を廃村と捉えようと思います。番外編の2つの廃村,いにしえの遺跡のような千葉県追原と,人の気配があって手入れされている柳沢は,ちょうど好対照です。
柳沢からは,福島県塙町矢塚(現役の分校がある),那倉(美術館に転用された廃校がある)を経由して,北茨城市小川と定波に足を運びました。先日訪ねたばかりの小川の学校跡に立ち寄ったところ,校庭の紅葉は,この12日間でずいぶん赤くなっていました。



# 外II-14
茨城県最北集落 定波でも紅葉が綺麗です。気になっていた美容室は閉まっていましたが,真新しいものでした。お会いした年配の女性にご挨拶をして道について尋ねたところ,行止まりではなく福島県鮫川村のほうに続いているとのこと。
定波をツーリングの折り返し点として,道を戻り始めたのは午後3時10分。帰路で立ち寄った那倉小学校はへき地等級無級,児童数186名(S.34),平成15年閉校。片貝小学校矢塚分校はへき地等級3級,児童数62名(S.34),平成20年の児童数は6名となっていました。
南浦和帰着は午後8時頃,この日の走行距離は396km。9時間少しのあわただしい日帰り旅でしたが,何とか茨城県の廃村にも足を運ぶことができました。

(追記) 片貝小学校矢塚分校は,平成24年3月,閉校となりました。



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