自治体規模で消えた村(1) その4 岐阜県旧徳山村山手,櫨原,塚



櫨原の集落跡に残ったトイレの跡です。色の付いたガラスがちょっと洒落ています。




5/2/2000 旧徳山村山手,櫨原,塚

# 6-27
門入からはホハレ峠を経由して坂内村川上に出る道があるのですが,地形図を見るとクルマはもちろんバイクでも無理な感じです。ここは無難な線で来た道を本郷まで戻り,揖斐川本流をさかのぼりました。
最初(本郷から4km)にあるのが,R.417より川を渡ってすぐの山手(Yamate)という集落跡で,R.417からも様子を伺うことは可能です。
初めて行った山手には,徳山村の集落跡ごとに見かける水資源開発公団の「警告」の看板や,記念碑しかなかったのですが,見通しのよい丘の上ということで,風景は綺麗です。特に集落の中心部に並んで咲いていた白,黄色,赤の花はとても印象的でした。


# 6-28
山手でのんびりしていると,天気予報できいていた「午後からの雨」の走りがやってきました。「雷を伴う豪雨になる恐れがある」ということで,早足にならざるを得ないのですが,山の中のことなので,天候が荒れるのは日常的なことなのでしょう。
次(本郷から7km)に位置する櫨原(Hazehara)は,9年ぶり二度目の訪問です。櫨原は,1986年発行の「少年朝日年鑑」(朝日新聞社刊)に「ダムに沈む岐阜県の村」という記事があり,その中に写真入りで「子供たちのにぎやかな声が聞こえていた櫨原分校だが,87年春には廃校になる」と綴られていたことで,印象に残っている集落です。振り返ると,この記事から徳山村のことを知ったように思います。

# 6-29
前回は,何も見つからなくてがっかりした櫨原でしたが,今回は鍛えられたこともあって,金網から分校跡を見つけることができました。さらに分校跡の石垣に沿った場所に窓ガラスの入ったブロック壁が残っていて,「何かな」と思って草をかき分けて行って見ると,これがトイレの跡で,白い便器も健在でした。成り行きで,ちょっと用足しなど・・・
櫨原では,雨もぱらぱらと降っていて,カッパを着ながらのフィールドワークだったのですが,「弱い雨ならば,かえって風情があってよいかも・・・」と思えるようになりました(もちろん晴れるにこしたことはないのですが,山奥はほんと雨が多いのです)。

# 6-30
櫨原から塚(Tsuka)までの2kmほどの間で,突如雨が本降りとなり,泣きそうになったところで見えたのが塚の「事業用地管理棟」。隣にはトイレもあって,しばしの雨宿り,ホッとさせてもらいました。幸いすぐに小降りに戻りました。
塚で印象的だったのは,集落跡の中心に高くそびえる二本の木と三角屋根の古びた建物。
建物の前には「この土地は水資源開発公団の所有地です。不法占拠しているこの物件を平成11年4月30日までに撤去して下さい。」とのものものしい通告の看板があったのですが,落ちていたハシゴをかけて中を覗くと,炭焼きの施設のようでした。


# 6-31
塚から本郷までの戻り道では雨も上がってくれたのですが,本郷で「かつての徳山村」の看板を見直している頃,空が真っ暗になりました。とりあえず,無事に村巡りができたことを徳山村の神様に感謝して,本郷を出たとたん大粒の雨。この雨はその後ずっと降り続き,来た道をそのまま60km戻った根尾村の「山田屋」に着いた時はへろへろになっていました。
服もびしょ濡れということで,トレーナーに着替えて,宿でヤマメやアマゴといった川魚料理を食べました。これがなかなか美味しくて,雨が降る見込みで夕食を頼んでおいたことに満足して,ひとりビールを飲んだのでした。

# 6-32
その後,5月23日に徳山ダム着工のニュースがあったり,5月28日にはおそらくその関連でTV番組に増山たづ子さんが出て来たりと,2000年5月の徳山村の印象は,とても強いものとなりました。
しかし,ダム建設のための調査から着工にたどりつくまで43年もの時が流れたというのは,ダム建設の是非とは別の話で,何ともむごい話のように思えてなりません。完成のメドまでだとちょうど50年です。
徳山村については多くの書籍が出版されており,興味深いので,今後も積極的に調べて行きたいと思います。



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